第25話・夢遠からじ

 「どうしたんですか?」

 「…いや、他にひとのいないとこで話したい、って言ったらまさかホテルの部屋とるとは思わなかったから…」


 って言われましても、きっと理津がするだろう話のことを思えば他にひとの耳のあるところで話すわけにもいかないだろうな、って考えたからですし。


 「気にしなくてもいいですよ。実はですね、このホテル、兄が結婚したときに一家で泊まったことがあるんです。なんだか懐かしくて、空き部屋があったからちょうどよかったです」

 「え、でも結構…高いんじゃない?」


 しきりにお金の心配をする理津でしたけど、いくら都心のホテルだからって、九時までに出てくつもりならそこまでお金かかりませんよ、と言って安心させておきます。まあ、実際はそんなこと出来るわけもないので、ちゃんと一泊分支払ってますけど。


 「はい、どうぞ」

 「…えーっと…お、お邪魔シマース…」


 鍵を開けて先に入り、理津を迎え入れます。

 エントランスを抜けてリビングに入ります。ベッドルームはさらに奥にあるので、ここにベッドはありません。落ち着いて話をするにはおあつらえ向きでした。

 スイートの一つ下のランク、だと思いますが、お値段はそれなりにします。日曜の当日なのでそこまで無茶高い、ってわけではないにしても、両親から頂いているお小遣いだけで支払うのはちょっと躊躇われます。ここはこっそりお小遣いをくださる兄二人に感謝、です。へそくりが役に立ちました。もっとも、妹が年下の少女と逢い引きまがいの真似をするのに使っていると知られたらコトなのですけれど。


 灯り、というよりいっそ格調高くランプとでも称した方がいいんじゃないかしら、とも思える電灯をつけると、ほの明るい電気の明かりの下に、これまたなんとか調のようなソファとテーブルが浮かび上がりました。


 「じゃあ、これで落ち着いて話できますね。どうしましょうか。それとも飲み物でも頼みます?ルームサービスくらいありますよ」

 「んやー…かえって落ち着かねーからこれでいいし。で、さ。ねーさん?」

 「………」


 …うん、そろそろ我慢の限界です、わたし。スルーしてきましたけれど、そろそろ真意をたださねばならない頃です。

 あのですね、理津。


 「…その前にひとついいですか?」

 「ほぇ?」


 向かい合わせでソファに腰掛ける、対面の理津が首を傾げていました。かわいい…けど今はそれどころじゃない。


 「あなた、前みたいにわたしのこと『ねーさん』って呼ぶじゃ無いですか、最近。かと思えばいきなり名前を呼び捨てしたり。一体どーいうつもりなんですか」

 「……………そうだっけ?」


 白々しくも、わからねー、って顔をしてました。首を傾げるどころか捻っていました。演出過剰です。


 「…あなたがわたしのことを好っ…………きぃ、とか思うのをやめなさい、とは言いませんけど、せめて呼び方くらい統一してください。でないとわたし、その度にどんな顔すればいいか分かんないですよ」

 「じゃあ名前で呼べば阿野はあーしのこと好きになってくれるの?」

 「なんでそうなるんですか。だから、もうどっちでもいいですから決めてください。今ここで」

 「じゃあ『ねーさん』で」

 「…っ、え、ええと……はい、それであなたがいーならいーです、はい…って、なにが可笑しいんですかっ」

 「いんや、べーつーにー?」


 ……くっ、あなた絶対今わたしが残念な顔したの気付いてそんなニヤけた顔になってるでしょうっ?!

 えーえーそーですよっ!自分でも説明つきませんけどなんだか理津に名前で呼ばれてドキドキしてますよ特に最近はっ!

 ねーさん、とか呼ばれるのもいいですけど、やっぱりお姉さまって呼ばれるのは捨てがたいですけどっ、甘えた声で、凜々しい声で、理津に名前を呼ばれるととっても乙女心がうずきますよホント最近のわたしどうしたっていうんですかもぉっ!!


 「……でも、やっぱ阿野のことは阿野って呼びたい」


 そんな風に一人で内心悶えまくってたわたしを余所に、理津は顔を真面目に改めて、どこか切なそうに言います。


 「阿野があーしに、『お姉さま』って呼べ、って言った気持ちが今はなんとなく分かるよ。そういう関係になりたいって願って、そのための線引きで、そこから先に進まないよう、進めないよう心に鍵かけてたんだ、って。そういうこと、だったんでしょ?」

 「………」


 そうなんでしょうか…?

 わたしとしては…姉と妹の関係に留めて、確かにそう在ろうと心がけてはいましたけれど、そこから先に進むもなにも、そんなこと考えてはいけなかったんですから。


 「でも、あーしは違う。ちょっとヘンな女のひとに出会って、そんでだんだんとそのひとのことを知って好きになった。そのひとにも自分のことを好きになって欲しくなった。だから、名前で呼びたかった。ねーさん、なんて呼び方してたら何も変わんねーって思ったもん」

 「じゃ、じゃあ…どうして最近は、呼び方を戻したんです?阿野っちー、とかちょっとわざとらしい呼び方してたのが、またねーさんとかって。ちょっと混乱しますよ、そんなことされたら」

 「そりゃね」


 と、膝を揃えてソファに腰掛けていた理津が、背もたれにしなだれかかって、熱めの吐息をもらしました。わたしから見える横顔は、照度の低い部屋の中でも紅潮してるのが見てとれます。


 「…阿野を困らせたかったから。あーしのことを意識させてやりたかったから。あーしの気持ちを知ってる阿野から、ちょっと身を引いてみたらどんな顔になるか、見て見たかったから」


 そしてその顔は、今までみた理津のどんな顔よりも恋する乙女のものなのでした。

 そんな顔から目を離すことの出来なくなったわたしは、優しいお姉さまのもの、というにはちょっとはしたない声色で問います。


 「それで、効果はありましたか?」

 「…んー、わかんね。でも、その呼び方の関係も悪くないかもな、って思ってしまったから、失敗だったかも、とは思う」


 恋の駆け引きとかあーしには無理だよー、とソファに置かれていたクッションを抱いて、理津はふにゃふにゃになってました。まあ、確かに今どき「恋の駆け引き」て、口にするのもちょっとアレな台詞ですよね…。


 「そんで話ってのはさ」


 でもすぐに立ち直った理津でした。

 体を勢い良く起こし、テーブル越しに身を乗り出して、いつかやったようにわたしに迫ります。


 「はい、なんでしょう?」


 けれど、今回は身を逸らしたりはしません。葛葉さんのアドバイスじゃないですが、真剣に考えて理津が言う言葉を一言たりとも聞き逃すまいと、居住まい正して聞き入れる体勢です。


 「がんばった。あーし、がんばった。弁当つくって、気持ち伝えて。これで落ちねーヤツがいたらあーしってもう女としては存在する価値ねーんじゃねーかって思うくらい」

 「………」

 「…ほんとはさ、さっきまではまだやれることあるよな、って思ってたんだ。話だってしたいこといっぱいあるし、何度も何度も何度も好きだって言って、その度に阿野が慌てるとこみてにっこりしたいし、もうなんだったら…かっ、体を許したって……いいかもってぇ……」


 …あのですね。そんなことを顔を赤くしながら、そして隣の部屋にあるものを意識してるのが丸わかりな態度で言ったら、いくらわたしだって緊張してしまうじゃないですか。


 「だからっ、こういうあーしの気持ちを、本気だっていうのを阿野に知って欲しくて、それで話して、そしたらもうすぐ阿野が答え出す時にだってきっとあーしのこと…」

 「理津」


 でも、です。


 「わたしからも少しお話があります」


 一つ、確かめておかないと、わたしは前にも進めず、来た道を後戻りすることも出来ないと思います。


 「あなたは、なりたいもの、やりたいこと。そんなものが今ありますか?今は無くても、見つかりそうだと思いますか?」

 「なりたいもの……阿野の恋人?」

 「そーいうことでなくて」


 思わずわたし、脱力。


 「進路の話ですよ。安久利ちゃんを上の学校に進めたいから就職する、って前に言ってたじゃないですか。あなた自身に、この道を進みたいと思わせるものってありますか?」

 「…………」


 理津は、その生い立ちや暮らしの中に、あまり自分というもののない子です。

 母想い、妹想いでとてもいい子ですけれど、あまり自分がこうしたい、って主張がありません。

 もしかしたらわたしに対する想いというのが、理津にとって初めて抱いた、自分のための気持ちだったのかもしれません。

 ですがわたしは、それを受け入れることが出来ない身です。

 自分のための勝手な理想をあなたの真摯な想いに擬して、それであなたに叶うことの無い思いを植え付けてしまった。

 恵留智さんや安久利ちゃんに、到底顔向け出来る立場なんかじゃないんです。


 「…えと、阿野?」


 でも、それでも、もしかしてわたしのこの胸にある萌芽を許してくれる何かがあるのだとしたら、それはあなたの今とこれからにのみ、存在するんです。

 だから、教えてください理津。


 「………んー、そんな難しいこと言われても困るんだけど…」


 ………。


 「…でも、今日はべんとー作って、安久利に味見させたらうめーって言ってくれて、きっと余ったおかずで作っといた昼飯はきっとガツガツ食ってるだろーし、阿野が泣きながら美味い美味いつってたのを見たり」

 「ちょっと待ちなさい、泣いてた理由が違うじゃないですか」

 「似たよーなもんじゃん。弁当見て涙流してたのは事実だし」

 「それはー……もういいから続けてくださいっ!」

 「あははー、りょーかい」


 愉快そうに笑って、理津はまたソファに腰を下ろします。

 そして傍らのクッションをまた手に取り、そして両足をソファの上げて、クッションを体と足の間で抱え込むような格好になります。


 「えっとさ、そんで自分のつくったご飯食べて他のひとが喜ぶのって、すんげー嬉しかったんだ。あーしはなんも出来ねー女だから、それくらいのことで、って言われるかもしんないけど、かーさんがあーしと安久利を抱いて、あーしらがいるだけで幸せだ、って言ってくれた以外じゃあ…誰かを喜ばせられたのって、そんなに無いかな」


 そして、わたしのことを家庭教師として安久利ちゃんに紹介したのは、そういえば感謝されたっけな、って付け足しました。

 そうですね、なんだかとても懐かしく感じます、って微笑むわたしを見て、理津は鼻から下を柔らかい布に埋め、述懐を続けます。


 「だから、さ。だから…ほんっと単純な理由だし自分でもガキっぽいとは思うけど、そうして美味いメシ作って喜んでもらえる仕事がしたい…かも、って思った。どう?」

 「………悪くないって思います。わたしの料理はどちらかというと、誰かに喜んでもらいたいとかではなくて、将来必要になるだろうから、って教え込まれたものですから」


 でも、わたしが教えたことでこの子は誰かを喜ばせることを覚え、そしてそれを続けていきたいって思ってくれました。わたしはわたしのしたことが無駄なんかじゃなかった、って心から思えたんです。


 あなたを見て、この子がどうなっていくのか、わたしがどう導いていけるのか、って考えてあなたに申し出をした日のわたしは、愚かです。

 けれど、愚かでひとの迷惑を顧みない、おバカなわたしでも確かにやれたことがあったと示してくれたあなたは、わたしにとって本当の意味で、共に育っていける関係を築いた女の子なのでしょう。

 わたしはあなたと共に在りたい。

 あなたがわたしに寄せてくれた好意と形が違うものであっても、それはわたしにとっての大切な宝です。


 だから、理津。


 「…もうすぐホワイトデー、ですね」

 「うん………あのさ、阿野…ねーさん?」

 「なんで言い直したのかは分かりませんけれど、そこから先は聞きませんからね」

 「えー…なんか阿野がいー雰囲気だし、今返事を聞けばぜってぇおーけーって言うと思ったのにぃ」


 ソファの上であぐらになり、忌々しそーに足の中に置いたクッションを殴りつける理津でした。

 どうでもいいですけど、それホテルの備品なんですから、壊したら弁償ですからね。


 「答えは楽しみにとっておきましょう?実はわたしだってまだ分からないんですから」

 「楽しみに、って言うんならもうおーけーって決まってんじゃないの?」

 「そういう意味じゃありません」


 実はヘタレで一番大事なところではけっこー及び腰の理津ですけれど、開き直ったときはとことんグイグイくるのです。わたしはそんな理津が…まあ、割と、好きですよね。


 「…なにその笑い」

 「え。ほのかな好意を年上の余裕にのせて表現してみたつもりなんですけれど」

 「どっちかっつーと獲物を前にしたヘビみてーな顔だった」


 失礼なことを言うものです。悪い気はしませんけどね、不思議と。


 「さて、じゃあそろそろ帰りましょうか?」


 わたしは立ち上がって荷物を拾い上げます。

 理津も、と思いきやまだクッションを抱きしめたまま、ダルマのようにごろんと転がっていました。


 「…なにやってるんです?」

 「帰りたくねー。なー阿野?泊まってかない?ちょうどベッドもあるし」

 「ツインならともかくダブルじゃないですか。いやですよ、今の理津と同じ布団で寝るとか」

 「えー…いっぱい愛してあげるからぁ」

 「そういう台詞は」


 と、艶めかしくしなをつくる(つもりの)ポーズの理津に歩み寄り、鼻先を突いてあげました。


 「恋人の一ダースもつくってから仰いなさいな。理津にはじゅーねん早いです」

 「えーっ?!あーし阿野以外の恋人なんかいらねーよぉっ!」


 隙あらば口説こうとする理津をほっといて、わたしはさっさとエントランスに向かいます。


 「ほら、早く。時間過ぎたら追加料金とられるんですから」


 と、これはまあウソなんですけど。


 「ごきゅーけーみたいなもんじゃん。延長しよーよー」


 …なんだか耳年増なことを言う理津に辟易しながら、わたしはなんとなく答えが見えたような心持ちなのでした。

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