「distance」
三津凛
第1話
小雨をより分けて入ってきた清水は、少し痩せたようだった。風が吹けば飛ぶような、頼りなさげな顔をして私を見つけると手を振った。
私も手を振り返す。でも明るい気配はなくて、時節柄なのかなんとなく重苦しい雰囲気さえあった。
それは私と清水との間にあるものではなくて、もっと広くて大きな、深い種類のものだった。この居酒屋全体から、もっといえば今の社会そのものから発せられる発酵するほどに満ちた腐臭ともいえる。それは、もはや持主を待つことも忘れたような名前入りのボトルが浮かべる埃や指紋、年代物のラジオから流れるバロック音楽、やる気のないアルバイトと、ただひたすらに通り過ぎていく往来の脚にすら宿っているのではないか。
清水の顔の半分はマスクに覆われてよく見えない。けれども彼女が冴えない顔をしていることは分かる。
「傘持ってなかったの」
私はややぶっきらぼうに聞く。
「うん、天気予報見てなったの。でもそんなに降ってないよ」
夜には本降りになるって言ってたよ。
つい口にしそうになって辞めた。私は傘を持っているし、清水が今どこに住んでいるかは知らないけれど、彼女も車でここまで来たわけではなさそうだし、駅までなら一緒に行ける。
清水は席に着くなりマスクを外して、そこでようやく外界に降り立ったような顔つきをした。
やはり彼女は少し痩せたようだった。
「なんか、痩せたね」
「えぇ、そう?」
私たちの会話はお冷やを持ってきた店員によって一旦引き裂かれた。
いかにもやる気のなさそうな顔で、突き出されるようにお冷やが置かれる。清水はそれを飲んで、私を見た。
「そっちはどう?」
「どうって……こんなことになっちゃったでしょ、でもまあ、リモートワークでしょ。まだ慣れないけどね」
「ふうん」
「そっちは?」
「私はダメ。バイト先も潰れたしね。今は実家に戻って、プーだよ」
私は改めて清水を見た。
疲労の色はないけれど、なんとなく彼女が暗いのはそういうわけがあったからなのだろうか。
清水とは高校の時に友達になった。お互いに同じ出身校の同級生がおらず、なんとなく一緒にいるうちに仲良くなった。部活も同じ美術部に入って、ほとんど3年間一緒にいた。部活では時々清水は賞をもらって、その時期はどこか灰色に沈んだような美術室が華やぐのが分かった。
大学はお互いに違うところへ進学した。清水は途中で中退をして、思いついたように2年も海外をふらふらしていた。
私が大学を卒業して、働き出してからも清水とは何度か会った。清水はアルバイトや派遣で食いつないでいるようだったけれど、生活に疲労したところは少しもなくて、私の方が日々に摩耗させられていた。彼女はいつも似たような格好をして、大学を辞めてきたと風のように言い放ったあの日からちっとも変わっていないようだった。一緒に歳を重ねているはずなのに、清水は変わらなかった。それが羨ましく、無性に腹立たしくもあった。
清水がきちんと働くことを選ばないのは、私のように社会から摩耗されることを避けるためなのかもしれない。
「少し痩せたみたいだけど、体調は大丈夫なの?」
「そう?」
清水は目を上げず、メニューに目を落としながら答える。
「ずっと実家にいると、昼夜逆転しちゃってさ。それで不健康に見えてるんじゃない?今日は無理やり起きてきたの」
「無理しなくても良かったのに」
「だって、松木は私と違ってちゃんとしてるもん。モグラみたいな生活してる私に合わせるなんて申し訳ないよ」
からりと清水は言う。
私は黙って笑う。今日会おうと誘ってきたのは清水の方からだった。それは私が働き出してから初めてのことだった。
清水は明るい声色で注文を頼む。どこか壊れ物に見える横顔が、私には哀しく映った。
「でもさあ、こんなことになるなんてね」
つまみが何品か来たところで、清水が口を開く。
「本当ね、もう1年になるけど」
「ねぇ、松木はワクチン打つの?」
「……本当は怖いけど、まあ、打たないと」
「でも強制ではないんでしょう?」
「建前はそうだけどさ、そうもいかなさそう」
清水はかすかに眉を寄せた。そこにはほんの僅か、社会の同調圧力に易々と組み敷かれてしまう私という人間への侮蔑というか嘲笑に近いものがあるように見えた。けれど清水はすぐに目を転じて、店内の天井あたりに据えられたテレビを見た。私も何となくその視線を追う。
通り一遍に過ぎていく会話を感じながら、果たして清水はこんなやり取りを本当にしたいのだろうかと思った。
「清水はどうなの?」
「私はしばらくパス。どうせ誰にも会わないしね」
軽く言って、清水は私を見た。
思わず笑って、「私もそんな風にできたらな」と呟く。けれど、今の彼女にそんなことを言ってしまうのは無神経すぎた気がして、私は少し慌てた。
「別に気にしなくていいよ。私は大学を辞めた時からずっとこんな調子だから」
清水が見透かしたように言う。機嫌を悪くした様子も、傷ついた気配もなかったことに安心した。思えば清水は昔からこんな調子だった。人の言うことに、あまり頓着をしない。だから他人にもそこまで興味や執着ということをしなかった。私はだからこそ、どこかで彼女のことを恐れていた。清水の雰囲気に漂う微かな冷ややかさは、いつか私を斬り捨てる時に躊躇なく使われそうだったから。
「……それで、どうして今日は急に会いたいなんて誘ってきたの」
私は我慢ができずに聞いた。
「……んー、なんか顔を見たくなったんだよね。それだけって言うと、変かもしれないけど、ただ顔を見て、なんてことない話しをしたかったの」
清水は半分戸惑うように言った。
私は淀みなく吐かれるその言葉を、心の深いところで受け止めた。それは多分本当なのだろう。清水が大学を中退してから、どんな風に生きてきたのか私が知ることはできない。私たちの近況はお互いの交流でしか知ることはなかった。一度だけ高校の同窓会に行った時でさえ、清水は当然のように不参加で誰も彼女の近況を知っている同級生はいなかった。まるで初めから清水なんて居なかったように、そして当然私もまるで居なかったように一瞥されて、あとはただ押し流されていく流木のように時間だけが過ぎていった。それが高校時代の全てだったと、改めて私は感じたのだ。
私はそれ以降同窓会には参加していない。
「私って、友達いなかったじゃない」
清水が遠い目をしながら呟く。
「え、そんなことないよ。高校の時だって、清水の方が交友関係広かったんじゃない?」
「そうでもないよ。今繋がってる人はいないしね。大学は途中で辞めちゃったから、本当にそれっきり。バイト先も年代が違いすぎて、仲良くなるとかそんな感じでもなかったし」
「バイトは何してたの」
「漫画喫茶と弁当屋」
清水はそこで枝豆を口に入れた。私もなんとなくそれに合わせて手を伸ばす。
「今は本当に何もしてないの」
「うん、なんにも」
私は清水をまじまじと眺めた。今のご時世だ。ほとんど外にも出ず、引きこもっていることは想像できる。かつて海外を1人で放浪した彼女が果たしてそんな生活に耐えることができるのだろうか。清水はまるで水を飲むようにアルコールを飲んでいる。どことなく尖ってみえるその様子は、見方を変えれば荒んでいるとも言えなくもない。全く表情の変わらない、潤った唇を眺めて私はどこか哀しくなった。
時間は人を変える。そして、時代がそれを容赦なく加速させてゆく。
「松木はさ、結婚とかしないの?」
「どうしたの、急に」
思いもよらない話の流れに私は面食らう。学生時代でも、清水と恋愛の話をしたことはない。
「お互いに適齢期といえば適齢期でしょう、どうなのかなぁってなんとなく」
「そういう清水はどうなのよ」
「あはは、私にそれ聞く?」
「聞くよ。そういえば清水のそういう話って聞いたことない」
「私たちって学生時代もこんな話ししたことなかったね、そういえば」
清水が懐かしそうに笑う。
「で、どうなの?」
私の視線を捕まえて清水が言う。
「なにもないよ、好きな人も付き合ってる人も。だから結婚なんてまだまだ先だって」
「そうなの?意外」
「清水の方は?」
「私も何にもない」
私たちの会話はそこで途切れた。
思えば、もっと深掘りすべき話題でもあるのに私たちはお互いにそれを避けた。ヤマアラシが互いの心地よい距離を自然と測るように。
「……そういえば、高校の同級生ね、ほとんど結婚してるみたいよ」
私は意味もなく呟いた。清水も、ふうんと興味なさげに相槌を打った。
不意に、まだまだ人生が続いていくということに、気が遠くなるような、うんざりするような気持ちが押し寄せてきた。
人生は死ぬまでの暇つぶし、と嘯いたのは誰だっただろう。
「最近ね、知り合いが死んだの」
清水がまた思いもよらないことを口にした。
「えっ、どうして?」
「コロナで」
コロナで。
簡潔すぎるほど簡潔な単語の奥に、私はなにか得体の知れないものを見たような気がした。清水とまともに目が合って、清水の目の奥にも同じようなものが蠢いているのを感じた。
志村けん。岡江久美子。
どことなく、別世界での出来事のようだった新型肺炎が、一気に明瞭な、実体を伴った生臭いものとして現れたのは彼らの唐突な死だった。お骨になって帰ってくる時にしか、別れを告げることは許されない。その暗がりにある無数の咽びは、恐らく現代の奏でる最も悲痛な音なのかもしれない。
「なんだかね、人って呆気なく死んじゃうんだなぁって思っちゃった。帰ってきた時は骨でしょう」
清水はグラスに浮いた水滴を指で撫でながら言った。それきりむっつりと黙って、つまみにも手をつけず、黙々と飲み続ける。
私はその様子から、本当にただの知り合だったのだろうかと思った。清水はそれ以上は何も言わず、ぼんやりと店内を見渡していた。
「明日休みだから、よかったら家で飲み直す?」
清水に向かって私は言ってみた。
「ううん、やめとく」
清水は力なく笑って、わずかに残ったビールを飲み干した。痩せて、やけに太く見える首筋が妙に物哀しく映る。
「ありがとう」
清水が呟くように言って、私を見た。そこで集団が店に入ってきて、一気に湿っぽい風が私たちの間を抜けた。
雨の匂いがした。そこで、私たちは同時に出入り口を見た。やや雨足は強くなっているようだった。集団は見たところ大学生の集まりらしい。若い男の子の肩は色が変わって、湿っていた。彼らは大声で笑い、躊躇することなく隣のテーブルに腰掛けた。
清水はマスクをつけて、私に目配せした。
私も手元のビールを飲み干して、マスクをつけた。
嬌声が一段と大きくなって、何かが割れるような音がした。
会計を終えると、やはり雨は強くなっていた。
清水は振り返らずに雨の中へ一歩出る。その肩先が一瞬雨を斬ったように見えた。清水の抱える孤独と鬱屈とが、そこに現れたようだった。
「傘入りなよ」
「うん」
清水と私は身を寄せ合って、駅まで歩いた。
それは不思議な時間だった。2人の間の僅かな距離がそのまま互いの国境線のようで、私はなにか埋められないものを感じた。
駅までは黙って歩いた。雨はどこか甘い香りがして、懐かしいような、虚しいような気持ちがした。
私と清水は途中まで同じ電車で、途中の大きな乗り換えの起点になっている駅で本当に別れた。
「じゃあ、またね」
清水が不意に顔をあげて笑った。
「またこうやって会おうね」
私も返した。清水は軽く手を振る。それを横をすり抜けていくサラリーマンが一瞥して、湿っぽい風を残していった。扉が閉まって、私は流れていく清水を見送った。
不思議な余韻が私の中に残されて、一斉に雑音が押し寄せた。
私は階段を降りて、改札を抜けて空を見上げた。傘はもういらないようだった。ロータリーでは何人かが屯して、足元にはストロング缶が置かれていた。駐輪場とビルとの暗がりにカップルが挟まって何かしていた。原始生物の交尾のような姿態に、私はdistanceと思わず呟く。
清水はこれからどこに向かうのだろう。
それよりも、私は一体どうしていくのだろう。
清水に何かメールでも打とうかと思ったけれど、何もかもが指の間からすり抜けていくようでやめた。また会いたい、と思ったけれどそれは実現するのだろうかとどこかで思っている自分がいた。
私たちを隔てるものは、決して感染症ではないことをどこかではっきりと意識した。時代か、歳か、はたまた恋愛の有無なのか。
人波に流されていく清水の背中は寂しげで、儚かった。私の背中も、多分あんな風に見えていることだろう。孤独を抱え込みながら、私たちは時代とともに歳を取ってゆく。漠然とした不安と焦燥とに押されながら、私は家路についた。
「distance」 三津凛 @mitsurin12
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