1-03【因縁】

 雨が窓に激しく打ち付ける。夕立かと思われたそれは、帳の降りた今なお勢いを緩めることはない。

 あの後、潤とクロはこの病院へと運ばれ、今も集中治療室で治療を受けている。地元で一番の総合病院だが、その経営者もまた緑の一族の出身である。色術士というのは意外と身近に、人々の生活の裏に表に根差している存在であった。

 控室には珊瑚と、招き入れられた彩花の姿。術士達は彩花の入室に当然反対していたが、珊瑚直々の申し出だったため、それ以上口出しをする者はいなかった。

二人きりになって既に数時間が経過したが、室内の空気は重く、未だに会話は無い。珊瑚が密かに数えていた遠雷の光も、もう幾つともわからなくなった。

「……どうしてわたくしを招き入れましたの?」

 その静寂を打ち破ったのは彩花。珊瑚は視線を窓の外に遣ったまま答える。

「いいじゃない、別に誰が殺されたわけでもないんだし」

「貴女ねぇ……」

「それに、あんたの事だもん。改めて考えれば、カッとなって色術ぶっ放すくらいのことは想定内よね」

 珊瑚もまた、あの翡翠潤の娘である。命の危機をこの程度の認識で括る豪胆さは、父親譲りに他ならない。

「貴女の頭も大概お花畑ですわよね……」

 これには彩花も呆れて独り言ちたものの、それ以上を問おうとはしなかった。

 代わりに、今度は珊瑚が言葉を投げる。

「なんでクロを殺さなかったの?」

「……喧嘩売ってまして? 翡翠様相手には押し込まれ、あの女にも全く歯が立たなかったわたくしに」

「そういうことじゃなくて」

いつもの憎まれ口ではなく、至って真面目な表情で珊瑚は続ける。

「暴走の後よ。クロは無防備に倒れてて、止める人間だっていなかった」

「何を仰いますの。『ぶん殴ってでも止めてやる』などと宣っていたくせに」

「そりゃ言ったけどさ。実際のとこ、私じゃあんたに敵わないでしょ」

 怒り狂って「殺す」と豪語するほどの相手が、目の前でこれ見よがしに寝転がっていたのだ。止めを刺すには絶好のシチュエーションである。しかし、彩花はそうしなかった。

 その理由が知りたい。

 珊瑚が彩花を招き入れたのは、他でもなくその為であった。

 バツが悪そうに視線を泳がせる彩花。しばしの沈黙の後、彼女は観念したかのように重い口を開く。

「……さすがに、不義理でございましょう」

「不義理? 何に?」

「貴女のお父様にですわよ」

 はぁ、と一つ大きな息を吐き、歯切れ悪そうに言葉を紡ぐ。

「あの状況、翡翠様は貴女一人さえ守れば良かったはず。……いえ、そうすべきでしたわ。それをわざわざ、わたくしまで」

 珊瑚に気付けたことを、彩花が気付かないはずもない。潤は黒の色術という未知の脅威に晒されてなお、愛娘だけでなく彩花すらもその障壁の背後に置いた。明確な殺意を持って襲い掛かってきた敵であるにも関わらず。

「そうして救われた身で、その意に反するような行いができまして?」

「……へえ」

彩花の照れ隠しするように拗ねた表情を、珊瑚は反射した窓越しに眺めて満足げに頷く。

(今までちゃんとわかってなかった。彩花ってこういう奴なのね)

 短気で暴力的な二面性を持ち、何事も力で解決しようとする節があるのは間違いない。だがその実、非常に理知的で、情というものを理解している。素直に病院までついて来たのも、純粋に潤の容態を心配しての事だったのだろう。

「何をニヤついてますの」

「別に? あんたの意外な一面が知れて嬉しいだけ」

「……お人好し」

 皮肉を返そうとする彩花だが、そこにいつものキレは無い。そんな様子もまた、珊瑚にとっては新鮮だった。

(黙ってりゃ底抜けの美人なんだから、ずっとそうしてりゃいいのに)

 生暖かい珊瑚の目に居心地を悪くした彩花は、咳ばらいを一つ。そしていつもの不敵な笑みを作った。

「ですが、それも翡翠様が回復されるまでですわよ。その暁には、今度こそアレの首を捻じ切りますので、お覚悟を」

「はいはい、何度でも返り討ちにされるといいわ」

 眉を顰める彩花だが、それ以上は何も言わない。その大人しさに付け込んで、珊瑚は若葉の屋敷で浮かんだ疑問を投げかけた。

「ねえ彩花。もしかして、あんたがそうなったのって、クロが関係してるの?」

 事故で失った、とだけ聞いていた彩花の目と脚。デリケートな話題であるため、珊瑚も彩花の怪我についてはこれまで言及してこなかった。素直に教えてもらえるとは正直思っていないが、どうにかはっきりさせておきたいと、珊瑚は自分でも不思議な使命感に駆られていた。

 幸いなことに彩花もまた、この場の空気に当てられてか、躊躇う素振りもなく語りだした。

「仰る通りですわ。わたくしがこの目と脚を失ったのは、あの女が黒を発現した時のことです。もう十四年前になりますわね」

「へえ、十四年前……って、ちょっと待って」

「何なんですの、人の話の腰を折って」

 不快そうな目を向ける彩花だが、さすがに今の言葉を聞き流すことはできなかった。

「いや、十四年前って……クロっていくつなの?」

外見だけ見れば、どう多く見積ってもクロは十四には達していない。困惑する珊瑚に、彩花はしれっと言ってのける。

「ああ、アレはもう二十歳を優に超えてますわよ」

「はぁ⁉ 嘘でしょ⁉」

「驚くのも無理はありませんわ。何せ、アレは黒を発現してから身体的な成長が止まっておりますので」

「はー……何でもアリなのね、黒の色術って」

 理由を考えても無駄だろうと判断し、珊瑚はおとなしく彩花の言葉に耳を傾けることにした。

「わたくしは生まれながらの色術士。神童、神に愛された子とまで呼ばれておりました。そのせいで同世代の方々は近寄らず、友達なんて碌にいませんでしたの。遊び相手はもっぱら、《風》の精霊たちでしたわ」

 出る杭は打たれるというが、出すぎた杭は忌避されるものなのだろう。周りの子供たちだって、下手な扱いをすれば、怖い大人たちからどんな折檻をされるかわからない、そんな存在を相手にはしたくなかったのだろう。

「ですがある日、一人でお人形遊びをしていたわたくしの前にアレが現れたのです。傍でニコニコと突っ立ってるだけでしたが、当時のわたくしからすればこれ以上ない感動でしたわ。それに、アレは茜(あかね)家の娘なので周りも手出しはできなかったのでしょう」

「茜って、赤で歴代最多の宗主排出数を誇る名家じゃない。ねえ、クロの本当の名前ってなんて言うの?」

「存じ上げませんわ。というより、アレには名前がありませんの」

「名前がない?」

「アレは言葉を発さず、文字を書かず、絵すら描けない。情報のアウトプットがまるでできませんの。そうとわかってからは忌み子として扱われ、名前も剥奪されたそうですわ。過去の栄光に縋るしかない、哀れな虚栄者らしい愚かしさでしょう?」

「うっわ……」

 色術の世界において血統や家柄が重視されるのは周知の事実であるが、だからといって、我が子にそんな仕打ちをするとは。

 色術の才能を持たずとも身に余るほどの愛情を受けた珊瑚とは、まるで正反対の扱いだった。

「まあ、はみ出し者同士で波長が合ったのでしょう。当時のわたくしはアレを姉のように慕っておりました」

 それも今では人生の汚点ですが、と彩花は続ける。

「そうしていつものように遊んでいたある日、突如として発現した黒が暴走。わたくしはそれに巻き込まれ……この有り様ですわ」

 右目の眼帯をそっと撫でる彩花。伏せた目線の先には、当時の光景を思い浮かべているのだろう。

「……言い方は悪いけど、よくそれだけで済んだわね」

「発現間もなくですから、威力は今から比べれば可愛いものでしたわ。それと……両親のお陰、ですわね」

「ご両親? でもあんたのご両親はもう……って、まさか」

「ええ。近くにいた両親が身を挺して守ってくださったお陰で、わたくしはこの程度で済みましたの」

 自嘲気味に笑いながらも、彩花は左の大腿を力一杯握りしめた。

「この脚が痛みに疼く度、あの日の景色が思い出されるのです。血を流しながら倒れるお父様とお母様。そして、その向こうに不気味に佇む……っ!」

 毎晩のように夢に浮かぶ光景。何度も何度も繰り返される悲劇。

十四年の時を経てなお襲い来る幻肢痛は、彩花の身に刻み込まれた憎しみの象徴でもあった。

「絶対に許せない」

 冷たく言葉を発しながら、車椅子の肘置きへと憎々しげに拳を叩きつける。その目は据わり、沸き上がる怒りを抑えきれずにいるのがわかる。

「次期宗主の座を狙った茜の手先。わたくしを排するために心の隙に付け込んで近寄り、わたくしのみならずお父様とお母様まで……。許せない、絶対に許せねェですわ……!」

 怒気を孕んだ口調は、明らかに先程までとは様子が異なる。まるで何かに取り憑かれたかのように、クロへの恨み言を吐き出し続ける。

 だが、それを珊瑚が制した。

「ちょっと待ちなさいよ。茜家がクロを仕向けたって、それ本当なの?」

「えェ勿論! 責任取って茜の先代は腹ァ切ったよ! 当然の報いだよなァ!」

 彩花は怒りで我を失いかけている。対する珊瑚の頭は、極めて冷静に回転した。

「そうじゃなくて、私が聞いてるのは、『茜家の企みを立証できたのかどうか』って話よ。決定的な証拠はあったの?」

「……はァ?」

至極真っ当な珊瑚の意見。しかし彩花はそれに豆鉄砲を食らったような顔をする。

「だって相手は四歳の子供よ? 殺すんだったら、刃物の一刺しで済む話じゃない。まさか、黒なんて御伽噺の産物が発現するのを予見して、あんたに仕向けたとでも言うの? 不可能よ」

「黒に限らずとも、色術を発現した際に殺せとの指示だったのではァ? それまでに気を許す仲になっておけば、いざというときに隙を突けるでしょう。発現したばかりで制御しきれなかった、と言い訳もつきますしねェ」

「天才・緋乃彩花を、発現して間もない稚拙な色術でどうにかしろって? それこそ無理な話でしょ」

「それは……」

 彩花の目から狂気の色が薄れていく。珊瑚は淡々と言葉を紡いだ。

「茜家の企みだって話、あんたの妄想じゃないとしたら、一体どこから聞いたの?」

 彩花は顎に手を当てて深く考え込む。それを珊瑚は黙って見守った。

 窓を叩く雨風は勢いを増していく。ガタガタと震える風の音を聞いていると、やがて彩花は重く口を開いた。

「……宗主ですわ」

「朱赤が?」

「ええ。病院のベットで目覚めた後、宗主が教えてくださいました。そして泣きじゃくるわたくしにこうも仰ったのです、『仇討ちを果たしたいならば研鑽を積め。必ず貴様を鍛え上げてやる』と」

 記憶のページを紐解くように、ゆっくりと語る彩花。

「だからわたくしは、文字通り血反吐を吐き泥水を啜り、ここまで上り詰めたました」

 彼女の十八年の人生のうち、実に四分の三近くはクロへの復讐のために費やされてきた。そして復讐の炎は年を追う毎に、日を重ねる毎に強く燃え上がっていった。

「もう間も無く、わたくしの本懐は遂げられる。宗主のお陰でわたくしは──」

「ねえ、彩花」

 滔々(とうとう)と語る彩花を遮り、腕を組んだ珊瑚が問う。

「前から気になってたんだけどさ、どうして朱赤にはそんなに従順なわけ? その時の恩義とでも言うつもり?」

「……勿論それもありますが、単純に術士として私より優れているから、としか言いようがありませんわね。色術は実力の世界。より強い者には従い、弱い者は遣う。それだけのことです」

緋乃彩花という人間を言葉で表すとすれば、傍若無人で傲岸不遜。良くも悪くも天才を地で行く術士である。

 赤の術士は力こそ絶対とする。彩花にとってもそれは疑うべくもない当然の摂理だ。だが、それだけでは納得できないことが珊瑚にはあった。

「でもあんたは今日、緑の歴代最高術士とやり合ったのよ? お父様はああ見えて、向かってくる相手に手加減できるほど温くない。それを無傷で切り抜けたんだから、あんたは三原色の宗主に、もちろん朱赤にだって匹敵する大術師のはずよ」

「……貴女がわたくしを褒めるなんて気味が悪いですわね、何か悪いものでも食べまして?」

「実力は認めざるを得ないってだけ。だからこそ不思議でたまらないの。実力だけで判断するなら、あんたが朱赤に引け目を感じる必要なんてないはずだもの」

いくら彩花が情を理解しているとはいえ、命を救ってくれて潤に対しても「回復したら容赦しない」と宣言するくらいだ。恩情だけで物事を判断するような、なまくらでは無い。

ならば、朱赤に並ぶだけの力を手にした今は、彼に対しても不遜な態度でいるべきなのだ。幼い頃の恩など関係なく。極端なことを言えば、それこそが赤の術士としての正しい在り方である。

「もう一度聞くわ。どうしてそうまで朱赤に従うの?」

「どうして……」

その疑問に、彩花は答えることができなかった。

 彩花自身、確かに自分は色術の能力の良し悪しで人を判断するきらいがあると理解していた。常日頃より、自分こそが当代最強の術士だと信じて止まない。それにも関わらず、こと宗主に至っては無意識に特別扱いをしていた。

 自らが持ち合わせたこれ以上ない矛盾に、今更ながら彩花は混乱を隠せない。

「はぁ。朱赤ってのは本当に大した男ね。腕っぷしだけじゃなくて人心掌握術にも……いえ、もはや洗脳暗示の域。噂通りの卑劣漢だわ」

これまでの彩花の発言から、珊瑚はある結論に辿り着いていた。詰まるところ──

「彩花。あんたね、朱赤に利用されてるのよ」

「……は?」

「黒の暴走に託(かこつ)けて、朱赤はあんたを自分の駒にしたってわけ」

茜家の娘によって偶然引き起こされた黒の発現と、その暴走による神童・緋乃彩花の負傷。朱赤にとってそれは、自分の立場を脅かす二大要素を潰す絶好の機会だった。

赤最大の家柄ながら、直近二百年間は宗主を輩出することができていなかった茜家。宗主の座を狙い続けていた彼らには、彩花を事故に見せかけ暗殺しようとした罪を被せて、当主を排した。

幼いながらに次期宗主と名高い、天才術士・緋乃彩花。いずれ自らに力量で勝らんとする彼女には、都合の良い嘘を吹き込み、逆らうことのない従順な手先として操ることに成功した。

 そうやって朱赤は、絶対的宗主としての地位を盤石なものにしていったのである。

「な、何を馬鹿げた事を! それこそ証拠はありますの⁉ 所詮は憶測に過ぎませんわ!」

「その通りよ、状況証拠を積み重ねただけの憶測だわ。でも現に、あんたも頭ごなしに否定できないじゃない」

「なっ……!」

 絶句する彩花。何か言い返そうとするが、ぱくぱくと口を開閉するだけである。

「あんた、朱赤の言いなりのままでいいの? 自分の目で、耳で、本当のことを確かめてみようとは思わない?」

「それは……」

「あんたの人生はあんたのものよ。自分の意思で生きようとするなら、他の誰に渡しても、委ねてもいけない」

「……」

色や出自の違いなど関係なく、人は幸福に生きるべきであり、自らの意思で決め、自らの足で立つことこそが人の幸せだ。それが、珊瑚の掲げる理想でもあった。それは或いは、無能力である自らに生きる意味を見出すための言葉だったかもしれない。

だからこそ、彩花の生き方には納得がいかなかった。誰かの言葉に左右される人生は、酷く歪曲したものに見えた。

「復讐なんてものが、あんたにとって本当に必要な物なの?」

 しかし言葉の意味というのは、話し手と受け手で齟齬が生じることがある。時に、取り返しのつかないほど大きくすれ違う。

「……復讐『なんて』?」

 抑揚のない呟き。それはまるで、あらゆる感情をシャットダウンしたかのように冷たかった。

「貴女も仰るんですの? 復讐は何も生まないなんて綺麗事で、わたくしを蔑みますの?」

珊瑚の誤算は、彩花の復讐に対する執着を見誤ったことであった。

彼女の復讐を否定することは、彼女のこれまでの人生を否定することと同じだ。自身の存在意義の否定など、誰が進んで受け入れるものか。

過去に縛られたままではいけないという珊瑚の思いは間違っていない。しかし、それを今の彩花に突きつけるのは余りに性急すぎた。

「ええ、そうですわよね。貴女にはそう言うだけの資格があります。宗家の一人娘という重責。なのに色術を発現しなかったという大きな十字架。だけどそれすら跳ね返す強さを持つ貴女には、わたくしを蔑む権利がありますわ。この痛みを、悲しみを、憎しみを知らない貴女には!」

「そうじゃないの彩花、私が言いたいのは──」

「いいえ、もう結構」

慌てて釈明しようとするが、彩花は鋭く言い放つと車椅子を出入口へと向かわせた。

「彩花!」

「この場では手を出さないと誓ったのです。あまり頭に血ィ昇らせないでくださいませ」

振り返りもせずに言い捨てる。出入口の扉は、彩花が手を触れることなく静かに開いた。

「宗主への忠誠も、復讐の覚悟も、どちらもわたくしが望んだものです。今更他人にどうこう言われたところで、曲げるつもりはありませんわ」

「……そのきっかけが、紛い物だったとしても?」

「っ……失礼いたします」

 支えを失った扉が閉まる。その一枚の隔たりが、鋼鉄の格子よりも重く厚いものに感じられた。

「あー、やっちった……」

追いかけようとも思った。だがこれ以上激昂させて暴れ出しでもすれば、潤のいない今は対処のしようもない。深くため息を吐き、ソファに身を沈めた。

「……馬鹿か、私は」

折角あの彩花とまともに話ができる機会だったというのに、自分の浅慮さでフイにしてしまった。

交流会でいつも顔を合わせる、偉そうで口の悪い一つ年下の女の子。本当はもっと早くこうして話をしたいと思っていたし、できることなら仲良くしたいと、どこかでそう思っていたのかもしれない。

だからもっとお互いを理解したいと、わかり合いたいと思っていたのに。

「……跳ね返す力なんて無いんだよ、私には」

自分の無力さに腹が立つ。色術どころか、対話すら上手にできないなんて。

 天井を仰ぎ見ていると、不意に部屋のドアがノックされた。珊瑚が短く返事をすると、扉がゆっくりと開かれる。

「珊瑚様。ご無沙汰しております」

「老竹(おいたけ)先生!」

 姿を見せたのはこの病院の院長兼理事長、老竹要(おいたけ・かなめ)。ふくよかな身体に白衣を身に纏った男性で、広い額が頭頂部まで達している。しかし老齢ながらその目には活力が宿っており、多岐に展開する大病院の院長としての風格を感じさせる。

「先生! 父は⁉ それにクロは⁉」

「お待たせして申し訳ありませんな。ですがご安心ください、お二方とも容体は安定しました。命に別状はないと断言できます」

「そう、ですか。良かった……」

 珊瑚は大きく息を吐く。気が抜けたようにソファに腰を下ろした。

「宗主についてはさすがと申しますか、あれだけ体力と精神力を消耗しておきながら、既に意識を回復しております。今は個室病棟に移動するよう準備しておりますよ」

 倒れた時は珊瑚が耳元で叫ぼうが引っ張ろうが叩こうが何の反応も示さなかったというのに、何とも驚異的な生命力である。

「しかし、緋姫との戦闘の影響でしょうか。胸部に殴打されたような痣が複数残されておりましたな」

「彩花のせいね、絶対に許せないわ」

まだ少し痛む拳を擦りながら素知らぬ顔でさらっと言ってのける。老竹もまさか目の前の少女が原因だとは微塵も疑いを持たなかった。

「まあ、骨に影響はないので大丈夫でしょう。しかし問題は、あの黒の少女の方ですな」

「……命に別状は無かったはずでは?」

「そうなのですが、なんとも簡単にはいかない話でして……その辺は宗主を交えて説明させていただきたいと思うのですが、よろしいですかな?」

「ええ、その方が助かります」

「ではご案内いたします」

 再び立ち上がった珊瑚は、軽く一呼吸してから歩き出した。扉を支える老竹は、幾分か険しい表情。

「宗主は目覚めたばかりです故、お静かに願いますよ」





「はぁっはっはっは!  悪かったな、心配かけて!」

まだ名札も掲げられていない病室を訪れると、珊瑚はいつもと変わらぬ無粋な大笑いで迎え入れられた。患者自身がこの様子では、お静かにも何もない。

「ちょっと、お父様! 他の患者さんに迷惑でしょう!」

「他の患者? そんなのどこにいるってんだよ」

 小声ながら語気を強めて窘める珊瑚に対し、潤に悪びれた様子はない。

それもそのはず、この病室はただの個室ではない。ワンフロア丸々使った超VIP用ルーム。宗家の関係者以外は入室を許されない、まさに特等席だ。

「聞こえる聞こえないじゃなくて、モラルの問題だって言ってるの!」

「まあまあ、宗主もこれでいて虚勢を張っているんですよ。愛する一人娘の前で弱った姿を見せたくない、父親としてのプライドですな」

「……老竹センセ、そりゃ言わないお約束っすよ」

「ははっ。老婆心(ろうばしん)ならぬ、老『爺』心(ろうやしん)と言ったところですかな」

 それは珊瑚にとっては珍しく、父がやり込められている貴重な場面であった。一族の宗主とはいえ、老竹からすれば潤も親戚の子といった感覚なのだろう。

「冗談はこの辺にしまして。宗主、黒の少女についてですが」

老竹の言葉に、潤も真剣な眼差しを返す。珊瑚も例に漏れず傾聴した。

「意識は回復しておりませんが、医学的な観点からは何の問題もありません。じきに目を覚ますでしょう」

「そうか、それは何より。……それで、色術士としての観点からは?」

「予測も立てられない、と申す他ないでしょうな」

 そう言いつつ老竹は後ろ手に持っていたタブレットを操作する。そこにはクロの脈拍、血圧等の情報がリアルタイムで表示されていた。

 しかしその中に、通常のバイタルには見慣れない『RGB』という項目が示されていた。

「R、ゼロ。G、ゼロ。B、ゼロ。信じ難いですが、彼女の『色』は間違いなく黒。こんな事があり得るのですね」

 RGBとは、Red(赤)、Blue(青)、Green(緑)の頭文字を取った、そのものの持つ『色』を表現する数値である。現代科学の発展により、今では専用の装置を使えば色すらも測定できるようになっていた。

「黒の色術に関しては、そもそもの情報が少なすぎます。いつまた暴走を始めるかわかったものではありません。この老竹、平気な顔をしておりますが、白衣の下は冷汗まみれでございます」

 涼しい表情で言ってのけるが、あながち冗談という訳でもないらしい。潤も「ふむ……」と顎髭を弄びながら神妙な顔をする。

「今この瞬間にドン、なんてのも洒落じゃないみたいだな。この病院が若葉の屋敷の再現になったらと思うとゾッとするぜ」

クロの暴走により、若葉家は実に九割が消失。というか、残っていたのは潤が展開した障壁の後方、その延長線だけ。屋敷があった事など誰も信じないであろう悲惨な状態である。

 それだけでなく、クロを中心とした半径五百メートルには珊瑚と潤、そして彩花を除いては雑草一つ残っていなかった。だというのに、奇跡的に犠牲者はゼロ。彩花への対応のため、人が出払っていたのが結果として奏功した。

 そう回顧する潤に対し、老竹は極めて冷静に毒を吐いた。

「ええ。正直なことを言えば、今すぐ何処ぞの山へ捨てたいくらいです」

「捨てるって、そんな!」

 質が悪すぎる冗談に、珊瑚は反射的に声を荒げてしまう。しかし老竹は表情を変えず、ゆっくりを首を横に振った。

「言い方は悪いかもしれませんが、これは私の率直な意見です。黒はあまりに危険すぎる上、謎が多すぎます。人命を最優先に行動するのであれば、それくらい覚悟しなければなりません」

「そんな……」

確かに、二度もあの力を目にした珊瑚には、その言葉を否定することはできない。今同じような暴走が起これば、今度こそ死人が出る。しかもそれは両手で足りる数とは桁が違うのだ。

「八咫鏡は、三原色に各々割り当てられた三種の神器の一つ。緑を象徴する神器でさえ、一撃しか耐えられなかったのです。それも、翡翠の歴代最高と謳われる当代宗主でもってしても」

「言い訳の余地はあるが、負け惜しみにしかならんから口を塞いでおく。とにかく、今の状態で同じことが起これば、俺は何の力にもなれないと思ってくれ」

「……じゃあ、どうすればいいの?」

俄に、珊瑚の脳内には『トロッコ問題』が思い浮かんだ。

ブレーキの効かないトロッコにより、五名の作業員の命が危ぶまれている。目の前のスイッチを操作すれば彼らを救えるが、切り替えられた路線上には別の作業員が一名いる。

五名が命を落とすのをただ傍観するのか、彼らを救うため自らの手で一名を殺す選択をするのか。──今この瞬間も、トロッコは進み続けている。

室内は沈黙に包まれる。口に出さないだけで、ここにいる全員がきっと同じジレンマに苦しんでいた。

不意に、静まり返った室内にバイブレーションの音が響いた。老竹は「失礼」と言うと、ポケットからスマートフォンを取り出した。

「私だが。ああ、そうだ。……何?」

相手は院内の部下だろうが。しかし、電話口から漏れ聞こえる声はどうにも混乱した様子である。どうやら報告を受けている老竹自身もすぐには判断しかねる内容らしく、「すぐに折り返す」と伝えると通話を切った。

「どうしたんだセンセ、黒のお嬢ちゃんのことか?」

「い、いえ。そうではないのですが、無関係でもないと言いますか──」

「何だよ、歯切れが悪いな。何があったんだ?」

潤に促され、院長は渋い顔で言葉を紡いだ。

「朱赤がですな、宗主との面会を希望しているとのことで、既にロビーまで来ているそうです」

「朱赤が遣いを? 屋敷からの連絡が無いのを見るに、病院に直接来たのか。何とも耳が早いな。それで、遣いには誰を寄越したんだ?」

「それが、遣いではないようなのです」

老竹は深い息を一つ吐く。その口からは、信じられない名前が飛び出した。

「朱赤赦豪。──赤の宗主が自らお見えのようです」




『獣』。それが、珊瑚が朱赤に抱いているイメージである。

百九十センチはあるだろう背丈に長い手足。男性にしては長い髪を後頭部で一つに纏めているため、鋭い眼光がより強調されている。何より目立つのは顔面に袈裟懸けに入れられた深い傷跡。黒いスーツを着込んで理知的な外見を取り繕っても、全身から立ち上る野生の臭いを消し切ることは叶わない。父をゴリラと評するならば、朱赤は血に飢えた豹だ。

「此度は失礼した、翡翠殿」

そんな肉食獣は部屋に入るなり、深々と頭を垂れた。腰から身体を折る、わざとらしい程に直角な礼。

「珍しいですね、朱赤殿。こんな僻地までわざわざお越しいただくとは」

 対する潤は極めて穏やかに答える。しかし「頭を上げてくれ」などとは言わないあたり、表面下での駆け引きが見て取れた。

「我々の手違いでこのような事態を招き、挙句に翡翠殿を命の危機にすら追い込んでしまったのだ。宗主自ら出向かねば、事は治まるまい」

「手違い、ですか。それは彩花嬢に攻撃の命を出したことですかな? それとも──黒のお嬢さんの事?」

 朱赤は頭を下げたまま何も答えない。潤も言葉ではそれ以上追及せず、痛いくらいの沈黙が続く。珊瑚でさえ戦慄するプレッシャー。宗主同士の対峙の圧は、次元が違う。

 やがて重苦しい空気の中、朱赤がやっと口を開いた。

「まず緋乃彩花の件についてだが、あれは完全に奴の勇み足。今回の様に度々我が名を出しては勝手な行動をするので、我らも頭を悩ませている。巻き込む形になりすまなかった」

 あからさまな言い訳である。呆れるのを通り越して漏れ出そうになった乾いた笑いを、珊瑚はなんとか押し留めた。

(何をいけしゃあしゃあと)

 などとは思っていても口にはできない。下手に自分が場をかき乱すのは得策でないと、珊瑚は肌で感じ取っていた。

「それは困ったものですね。手を噛む反面、獲物の居場所を迅速に伝える忠実さも兼ね備えている。処遇にはさぞ頭を悩ませることでしょう」

 潤は暗に、『ここに自分たちがいると知ったのは彩花の報告のお陰だろう』と問い詰めている。お前の言い訳はデタラメで、全てお前の指示によるものだと。

 これに朱赤は答えない。代わりに潤が、畳み込むように追及を投げる。

「そして黒の術士の件。我々に届いている報告とは決定的に異なるようですが、それについては?」

「翡翠殿の怒りも理解できる。だが、これは我ら赤の一族の問題。面目上、こうするしかなかったのだ」

 機械的かつ一方的な回答。仰々しく腰を折りながらも、そこには謝罪の意など一切混じっていない。

「黒の危険性を把握された上での判断だと?」

「その通りだ」

「賢い判断とは、お世辞にも言い難いですがな」

「それに関しては我々の落ち度だ。重ね重ね申し訳ない」

 そこで潤は少し間を置き、大きく空気を吸い込んだ。

「あの子の死を偽ったのが、ただの落ち度か!」

 全身を打つ怒号。あの陸橋で聞いたスキンヘッドの男の声さえ、これに比べれば子犬の鳴き声に等しい。

 驚愕に身を竦める珊瑚は、はじめその言葉の意味をよく理解することができなかった。四肢の緊張が次第に緩むにつれ、次第に思考も働き始める。

「死、って……クロが?」

「ああ、そうだ」

 潤の声音はいささか冷静に戻っていたが、微かな喉の震えに、抑えきれぬ怒りを感じ取れた。

「今から十四年前。あのお嬢ちゃんは黒を発現した際、暴走を引き起こした。不幸にも、その場に居合わせた者に死傷者が出たんだ」

 その話ならば、珊瑚は今しがた聞いたばかりだ。死傷者とは彩花とそのご両親の事であろう。

「禁忌とされる黒の発現。犠牲者を出したという事実が、その凶暴性をこれ以上なく証明してしまった。それらの事態を重く見られ、お嬢ちゃんは……『処分』されたはずなんだ」

 処分。その言葉の無機質さに、珊瑚は吐き気すら覚えた。

 その決定が理解できないではない。多を救うために少を切り捨てるのは、脅威を切り捨てるのは世の常だ。だが珊瑚は、それを生物としての豪であると認めてしまうには、あまりにも若すぎたし清純すぎたのだ。

「それでこの一件は終い。翡翠家にも、瑠璃家にだってそう報告されている。それなのに、どうしてあの子が生きている。いや、彼女が生きていること自体に責は無い。……どうして生かしておいた、朱赤赦豪!」

 噛み殺しきれない怒りが、再び落雷の如く朱赤を刺す。見届ける立場であるところの珊瑚でさえ震え上がる迫力に、しかし朱赤は微動だにせず聞き流した。

「そう猛るな翡翠殿、身体に障るぞ」

 相手の神経を逆撫でする──いや、むしろそれをこそ目的とした言い回し。それと共に、朱赤は漸く頭を上げた。

 二人の宗主の視線が、今日初めてぶつかり合う。視線がぶつかり合う衝突の音を、珊瑚は確かにその耳で聞いた。

「今回の件、お前一人が安い頭を下げたところで収まらねえぞ。然るべき調査の後、沙汰が下ると思っておけ」

「構わんさ、裁定については瑠璃家に一任する。その為の彼らだからな。だが、問題は『今』どうすべきかだ」

 なおも余裕の姿勢を崩さないまま、朱赤は軽く鼻を鳴らした。

「奴らの決定を待っていては、不安定になっている黒が何時また暴れ出すとも知れん。今回の件の責任を持つ意味でも、我々が早期にあの娘を回収しようと思っているところだが、如何か?」

「なるほど……そう来たか」

「翡翠殿とて、先刻のような惨劇をここで引き起こしたくはないだろう?」

 ふざけた話だと、珊瑚は憤った。

始めに朱赤側の思惑があって、全てその筋書きに沿うように考えられた台本。クロを奪い返すための大義名分であることは見え透いているのに、こちらもクロという爆弾を抱えているため、無下に突っぱねることもできない。

 確かに朱赤がクロを連れて行きさえすれば、珊瑚達に──緑の家々や周辺の住民に──これ以上の被害が及ぶことはない。後は時間をかけて、瑠璃家の裁定に始末を委ねればそれでいい。

 だけどクロはどうなる。命かながらに逃げ出して来たクロの行動は全て無駄になってしまうのではないか。

歯痒い。珊瑚はクロに出会ってから何度目ともわからない自責の念に駆られたが、それは潤も同じだった。翡翠潤個人としての感情と、宗主としての責任。それが彼の中でせめぎあっていた。

「……わかった。今日のところはその申し出を受け入れる」

しばしの逡巡の後、潤は朱赤の提案を呑んだ。それを受けた朱赤は冷淡にほくそ笑んだ。

「賢い判断だ。では我は奴を連れ、迅速にこの地を離れるとしよう」

「だが覚えておけ。あの子を抱え込んで何を企んでいるのかは知らんが、必ずお前の手から救い出すからな」

「好きにしろ。できるものならな」

「……老竹、早急に朱赤殿へ引き渡しの準備を」

老竹は短く返事をすると、朱赤を連れて退室しようとする。珊瑚も潤も、今はその背中を見送るしかない。その珊瑚の胸中には、不思議とひとつの思いが確信となって思い浮かんだ。

(このまま何もせずに見送ったら、きっと二度とクロには会えなくなる)

色術の世界から身を引く予定の珊瑚にとっては、それは本来喜ばしいことのはずだ。危険から身を遠ざけ、今まで通りの日常を送ることができる。そうして煩わしいことは忘れて、普通の人間として生きていけばいい。

──でも、これで本当にいいのだろうか?

朱赤はもうと廊下へと姿を消しつつある。今何かを言わなければ、クロのことも、彩花のことも、何もかも無かったことになってしまう。

(そんなこと、させたくない!)

たったの二日間。それだけで大きく変わろうとしていた何かを、ここで途絶えさせる訳には行かない。

そして珊瑚は──

「…………っ」

冷たく閉じた扉を、ただ静かに見つめることしかできなかった。

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