1-02【緋姫】

 風で揺れるカーテンから光が漏れてくる。

 意識を覚醒させるには足りないが、無視しておけるほど大人しくもない、そんな絶妙な鬱陶しさ。

 寝返りを打って逃れようとするが、布団が重くて身動きが取れない。何度か同じように試みるものの、苛立ちが募るばかりで状況は一向に改善しない。

 心の中で悪態を吐きながら目を開く。ぼやけた視界の端で、大きな黒猫が布団にのしかかっているのが確認できた。

(はて、猫……?)

 どこから入ってきたんだ、などと寝ぼけながら目を擦る。幾分明確になった視界でもう一度確認すると、そこにいたのは猫、のように身体を丸めて眠る少女であった。

(ああ、そうか。昨日はクロを泊めたんだった)

 昨晩の出来事が鮮明に脳裏に浮かびあがる。夢であれば良かったのだが、どうやらそういうわけにはいかないようだ。

 クロはすうすうと心地良さそうな寝息を立てている。太陽に照らされた睫毛が、光を反射してキラキラと輝いていた。

「改めて見てもホンットに美人よね……」

 それぞれのパーツの配置や造形もさることながら、肌のきめ細かさや流れるようなクセのない髪の毛など、女子であれば喉から出るほど欲しがるものを全て詰め込んだような存在である。出会った時は人形のようなどと称したが、例えるならむしろ妖精やエルフと言ったところだろう。

(こんなに綺麗な女の子が、あんな力をねぇ……)

 昨日の惨劇は、アパートに着く頃には既にネットニュースに上がっていた。しかしまだ情報が出揃っていなかったらしく、被害の全容などは確認できなかった。

 怪我人はいただろうか、死者は出たのか、あの二人は無事だったのか。詳細を確認しようと、珊瑚は充電していたスマホを手にする。

「げっ」

 するとロック画面には、怒涛の着信通知。しかもその全てが同一人物からであった。疲れ切って眠っていたため気が付かなかったようだが、それにしてもこの通知の数はもはやホラーである。

 しかし、今回に限っては好都合。表示された番号に折り返しの電話をかけ、耳元に電話を当てる。その瞬間──

『珊瑚ぉ! 無事だったかぁ!』

「うるさっ⁉」

 呼び出し音が鳴る前に、耳を劈く叫び声が轟いた。

『無事だな? 生きてるんだな⁉ よかった、よかったよぉ! お前のアパートの近くで事故があったって聞いて、俺ぁてっきり……!』

 涙交じりの声で一方的に捲し立てたと思えば、終いには嗚咽を漏らし始めた。こういった事は初めてではないものの、毎度のことながら暑苦しいことこの上ないと珊瑚は嘆いた

「ちょっとお父様、落ち着いて」

『あ、ああ。すまないな。お前のことになるとつい……』

 お父様と呼ばれた男──翡翠潤(じゅん)は、電話口にも関わらず豪快に鼻をかんだ。

 珊瑚の父と言えば、緑の一族を束ねる翡翠家の宗主である。翡翠家歴代最高などと称され、三原色の垣根を越えて尊敬の念を集める彼であるが、その正体はただの……いや、相当な子煩悩パパであった。

「それにしてもこの着信はやりすぎでしょ。ちゃんと寝たの?」

『何言ってんだ! 娘があんな事故に巻き込まれたかもしれないのに、おちおち寝ていられるかってんだ!』

「いやまあ、気持ちはありがたいんだけどさ……」

 相変わらず、この愛情は素直に受け止めるには重すぎるし熱すぎる。これ以上父の泣き声など聞いていたくもないので、早いところ本題に入ることにした。

「とにかく、事故の件はお父様も把握してるのね。それなら話は早いわ」

『どういう事だ?』

「実は私、あの現場に居合わせてるの。それに今回の件には色術が絡んでる」

『……詳しく聞かせてくれ』

 色術、という言葉を耳にした瞬間、潤の声音はそれまでと全く異なるものに変化した。電話越しにも伝わってくる重圧感に、娘である珊瑚すら背筋を伸ばした。これこそが翡翠の宗主たる彼の、本来の姿である。

 それから珊瑚は知り得る限りのことを話した。クロとの出会い、それを追っていた赤の術士、そして事故を引き起こしたクロの能力。

推測や曖昧な部分などは省略し、その目で見た事実のみを丁寧に語るよう意識する。そうでなければ情報に雑味が混じり、父の判断を鈍らせることに繋がってしまうからだ。

『……なるほどねぇ』

 一通りの説明を聞き終えると、潤はしばしの沈黙の後に細く長い息を漏らした。

『珊瑚。急ぎで悪いが、迎えを遣るからこちらへ向かってくれ。今はお前とそのお嬢ちゃんの安全が最優先だ』

「一刻を争う、ってこと?」

『ま、そんなところだ。大変な目に遭ったばかりなのにすまないな』

「ううん、何となくそう言われるとは思ってた。迎えには扇おうぎを寄越すの? 今からだと急いでも三時間くらいかしら」

『いや。電話が繋がらなくて不安だったから、実はもう安否確認のために向かわせてる。あと三十分もせずに着くだろう』

「えぇ……」

 子煩悩も行き過ぎると気持ち悪いな、と珊瑚はつい率直な感想を抱いてしまった。

『とにかく、急いで支度してくれ。下手をすればまたその子の力が暴れ出すかもしれんし、朱赤の追手が来ないとも言いきれん』

「あー、それは……頭に無かった」

 昨晩は危機を脱したと思って完全に油断し切り、そこまで頭が回らなかった。眠りこける前に父に報告し、すぐに指示を仰ぐべきだったと珊瑚は己の浅慮を恥じた。

「……ごめんなさい、浅はかだったわ」

『過ぎたことは仕方がない。だが、覚えておけよ。お前は翡翠を継がないにしても、翡翠の娘であることには変わらないんだ。常に冷静に物事を判断し、己の身を守れ』

「はい、肝に銘じます」

 普段はお調子者のおちゃらけた父ではあるが、常に最悪の事態を想定して一手先を打つ、その先見の明は見事なものである。

(やっぱり、まだまだ敵わない)

 色術の道を諦めたとはいえ、彼女が一人の人間として目指すのが父の背中であることに変わりはない。珊瑚は改めてその偉大さ、そして遠さを思い知らされた。

『それじゃ、待ってるからな。気を付けて』

「うん、ありがとう。それじゃ」

 通話を切り、深く嘆息する。すると背後からもぞもぞと身じろぎする音が聞こえてきた。

「あら、おはよう。起こしちゃったかしら」

振り返ると、上体を起こしたクロが呆然と周囲を見回している。

彼女からすれば、気付けば知らない部屋に連れ込まれた状況である。さきほどまでの穏やかな寝顔はどこへやら。警戒心を強め、まるで借りてきた猫のようにおどおどしている。

だがその様子は、珊瑚の庇護欲を更にくすぐった。そこに幼い容姿が相まって、珊瑚は思い切り撫で回したくなる衝動に襲われる。この辺りは確実に父親の血が流れているのだが、彼女自身はそれを未だ自覚していない。いや、断固として認めようとしていなかった。

下手な粗相をすれば警戒され、二度と近づかせてくれないかもしれない。握りこぶしに爪を立て、必死に心を鎮めると笑顔を取り繕った。

「安心して、ここは私の部屋よ。ぐっすり眠れた?」

 こくり、と小さく頷くクロ。それを確認すると、珊瑚はキッチンへと向かった。

「急で悪いんだけど、これから私の実家まで一緒に来てほしいの。軽く朝食を準備するから、食べたら支度をしましょう」

 思えば昨日は、シャワーも食事もそこそこにベットに身体を沈めてしまったのだった。腹が減っては戦ができぬ。迎えが到着する前に、最低限の腹ごしらえくらいはしておかなくては。

「──あ」

 だが、珊瑚は冷蔵庫を開こうとした手を離し、踵を返して部屋に戻る。そして不思議そうに見つめるクロに、朗らかな笑顔で問うた。

「冷たい素麺とあったかい素麺、どっちが好き?」




「とうちゃーく!」

車を降りると、珊瑚は大きく伸びをして空気を肺いっぱいに吸い込んだ。慣れ親しんだ故郷の匂い。まだ一人暮らしを始めて二ヶ月ほどだというのに、郷愁の思いは想像以上に膨らんでいたらしい。

その後ろから、おずおずとクロが出てくる。後部座席のドアを開けて立つ白髪の男性に微笑みかけられると、ぎこちないながらもお辞儀を返した。

「ありがとうね、扇(おうぎ)。いつもながら快適なドライブだったわ」

「光栄です。まだまだ頑張りがいがありますな」

男性の名は若葉扇(わかば・おうぎ)。翡翠家宗主の専属ドライバーを長年務めており、珊瑚にとっては三人目のお爺ちゃんのような存在である。年齢は七十に近いはずだが未だに現役。口数は少ないものの、いつでもにこにこと微笑んでいる好々爺である。

そして、若葉と言えば翡翠の直系分家。その当主でもある扇は、当然に色術士としても上位の才能を持つ。専属ドライバーなどと言ったが、護衛も兼ねる優れものである。今回の送迎において、これ以上ない人選であった。

「しっかし、子供の扱い上手よね。さっきまでビクビクしてたクロがもう懐いてる」

「ほっほ。どこかのお転婆お嬢様に鍛えられましてね」

「あらそう、それはさぞ大変なご苦労をされたのね。さ、行きましょう」

このままでは親戚のお年寄り特有の『小さい頃の恥ずかしいエピソード』をあれこれと披露されかねない。下手に話題に乗ることはせず、珊瑚はクロの手を取り歩き出す。

出発前に軽く身だしなみを整えたクロは、今は珊瑚の黒いパーカーを借りている。それを先導する珊瑚もまた、浅葱色のパーカーに身を包んでいた。かつて友人から「パーカー以外に私服持ってないの?」と呆れ顔をされた珊瑚だが、如何せんお洒落には興味が湧かない。最近では「アイデンティティよ」という言い訳すら取得してしまったので手の付けようがない。

 手を引かれるクロは、忙しなく周囲をキョロキョロと見回している。それもそのはず、今彼女たちの目の前に聳えるのは、千年を超える歴史を持つ翡翠の総本家である。戦国大名の武家屋敷のような外観だけでなく、屋敷自体が纏う雰囲気そのものが、もはや一つの生命体のように威厳を放っていた。

「そんなに構えないで。見てくれは立派だけど、ただ古いだけで中身はガタが来てるんだから」

緊張を解そうと明るく笑う珊瑚。それに対し、クロは必死な表情で首を横に振って見せた。恐らく「そんなことない」とでも言いたいのだろう。

「ふふっ、ありがとう」

昨日から今まで、それこそ移動の車内でもひっきりなしに、珊瑚はクロにあれこれと話しかけてみた。しかし残念なことに、その声を聞くことは未だ叶わないでいる。

だが、何かを訴えようとする意思は、昨日よりもはっきりと見られるようになった。少しずつ心を開いてくれているのか、思いの外表情も豊かであることがわかってきた。

見上げるような門をくぐり、屋敷の中に足を踏み入れる。すると、珊瑚はすぐさま家の者達に歓迎の声を受けた。

「お嬢様、お帰りなさいませ」

「ただいま。元気だった?」

「珊瑚様! お待ちしてましたよ!」

「久しぶりー! 私も会いたかったー!」

それら全てに朗らかに返事を返す珊瑚。彼女が現れただけで、屋敷の雰囲気はぱっと明るくなった。宗主の娘だからではなく、彼女自身の魅力がそうさせていた。

だが、いつまでもそうして立ち話に興じている訳にはいかない。後ろ髪を引かれながら、クロの手を引いて屋敷の奥へと続く廊下を進んでいく。珊瑚にとって住み慣れた我が家ではあるが、その深部へ足を踏み入れる際には、未だ強い緊張を覚えずにはいられない。先程この屋敷を生命体のようだと称したが、事実この廊下を通る度に、珊瑚は巨大な化け物に呑み込まれるような錯覚を覚えるのだ。

クロの手を一際強く握る。そうして辿り着いた一室の前で、珊瑚は片膝を着くとひと呼吸置いた。

「珊瑚です」

「おお、来たか。入ってくれ」

襖越しに返事を受けると、珊瑚は意を決して戸を開いた。

「只今戻りました。お父様、この度は朝からお騒がせして申し訳ありません」

恭(うやうや)しく頭を下げ、電話とは打って変わって堅苦しい挨拶をする珊瑚。

それを待ち受けるのは、和服に身を包んだ中年の男性。服の上からでもわかる隆々とした身体に、精悍かつ知性を感じさせる顔つき。顎に蓄えられた髭がアンバランスに感じられるが、「少しでも威厳を」と本人が望んだものである。

緑の歴代最高術士、翡翠潤。彼は柔和な笑みを浮かべ、二人を招き入れた。

「何を言うんだ珊瑚! 父さんは迷惑だなんて全く思ってないぞ! ほらほら、早くこっちに来い! お帰りのチューをしてやろう!」

……威厳もへったくれもないセリフを発して。

「するわけないでしょ。幼稚園児じゃあるまいし」

そんな潤に、珊瑚もすっかりいつもの調子に戻る。クロに至っては場の空気を計りかねて、目を白黒させている。

「悲しいなぁ、娘が反抗期になっちまった。昔は『お父様と結婚する』って言って聞かなかったのに……」

「だから昔の話はやめてってば」

珊瑚は呆れ顔で返すが、潤はそれを笑いで跳ね返した。顎髭を撫でながら冗談を飛ばす様子は、ただの気のいい親父さん。しかしこの男が只者ではないことは前述した通りである。

歴史と伝統に何よりも重きを置く翡翠家。その長男として生まれながら、十代の頃から『いつまでも長いだけの歴史と形だけの伝統の上に胡坐をかいていては駄目だ』と先代の宗主──潤の実の祖父である──に食ってかかったという破天荒なエピソードを持つ男。

しかし何より凄いのは、その理念を実現させる手腕にあった。宗家の嫡子でありながら、一族の末席とも直接情報交換をする器量。緊急の要件でなくとも自ら妖魔退治に赴く行動力。現代技術の積極的な採用による、より効率的かつ実用的な組織体系の構築。彼の功績により、これまでとは異なる『今の』翡翠家が作り上げられたと言っても過言ではない。

それらの功績が認められ、遂には弱冠三十歳で宗主の座を継いでしまった。しかも、実の父を差し置いてである。これは世襲制を基本としてきた翡翠家では前代未聞のことであるが、それでいて実父とも良好な関係を保っているというのだから、彼の並外れた人徳が伺える。

「はぁ。冗談はそれくらいにして本題に入ろうよ」

「おお、そうだった。愛しい一人娘との再会が嬉しくて、つい」

「つい、で急ぎの要件を忘れないでよね」

「悪かったって、そう怒るな。さて、そちらが件のお嬢ちゃんだな?」

クロは突然の呼びかけに戸惑いながら、顔を上げずに目線だけを潤に寄越した。それを受け止めた潤は、咳払いと共に居住まいを正した。

「翡翠の父、潤だ。よろしくな」

「────」

 そのたった一言で、クロは吹き飛ばされるような圧力を感じた。どんなにひょうきんに振舞っていても、その内から溢れ出す生命力は類を見ない。胸を張る堂々とした潤の態度と反比例して、クロはこれ以上ない程に背中を小さく丸めてしまった。

「ちょっと、威圧しないでよ。ただでさえゴリラみたいな見た目してるんだから」

潤は子供を好いているものの、どうにも扱いが上手くない。本人としては明朗快活な挨拶で好感度を得ようとしているのだろうが、身体に加えて声もデカいとなれば子供は更に委縮するというもの。扇の爪の垢を煎じて飲ませてやれないかと、珊瑚はこめかみを抑えた。

「ゴリラって……」

「ほら、いいから。一刻を争うんでしょ?」

 娘の辛辣な言葉にダメージを隠せない潤だが、さすがにそろそろ本気で怒られそうだと察すると、目つきをスッと鋭いものに変えた。

「んじゃあ、ここからは真面目な話だ。なあ珊瑚、色術における最高の色は何だ?」

「はぁ? 何その質問」

「いいから答えてみろって」

「まあいいけど……そんなの白に決まってるでしょ」

真面目な話と言われて構えたが、問われたのは色術の基礎知識。聊か拍子抜けの感が否めず、珊瑚は眉根を潜める。だが、そんな彼女に構わず潤は続けた。

「その通り。では、その理由は?」

「白は光の三原色において、極限まで輝度を高めた緑、青、赤の三色の光を混ぜ合わせることによって生まれる頂点の色。孤高にして最強、原初にして最高峰、術士全てが目指す極地、でしょう?」

幼少期に受けた講義を思い出し滔々と答える珊瑚。これには潤も満足そうに頷いた。

「教本の内容を一字一句漏らさないとは、さすがだな」

「このくらい覚えていて当然でしょ。でも、白の発現なんて御伽噺みたいなものじゃない。どうして今更?」

 珊瑚の言う通り、白についてはまことしやかに語られているが、その実存在を決定付ける証拠は一つとして見つかっておらず、古い文献で語られているだけだ。最近では、白の色術など空想上の存在に過ぎないとする説が主流にすらなりつつある。

 だが、そんな娘の主張に潤は唇の端を吊り上げる。まるでその言葉を待っていたと言わんばかりに。

「そう、御伽噺だ。誰もが憧れながら、誰一人として目にしたことがない力。では、そんな力が白だけじゃないことを知っているか?」

「……白だけじゃない?」

 訝しげに声を落とす珊瑚。対する潤は心底楽しそうに笑っている。

「ああ。三原色を混ぜ合わせることによってあらゆる色を作り出す加法混色。そこにおいて白とは、全ての色を内包する存在と言っていいだろう。そして、それと対極にある存在と言えば?」

 加法混色における白。極限まで輝度を高めた三原色を混ぜ合わせて作り出す頂点の色。

その対極とはつまり、三原色を一切含まない色──

「まさか、黒だなんて言い出さないわよね?」

「ご名答。さすがは我が娘だ」

 なぞなぞの答え合わせをするかのような軽いノリで答える潤だが、珊瑚はあまりの衝撃に一瞬言葉を失ってしまう。我に返ると、思わず立ち上がって吠え出した。

「ちょ、ちょっと待ってよ! そんなのありえないじゃない!」

「ほう、その心は?」

「人間には、生き物には……いいえ、森羅万象には必ず色が存在する! 色があるから形を持つ! それがこの世界における大前提のはずでしょう⁉」

色術における『色』とは、単純に目に見える色の事を指すのではない。魂が放つ光、それをそれたらしめる『気』こそが『色』なのだ。

そして光の三原色の基本に則れば、黒とは光の存在しない状態。つまりは、『光が存在しない=気が存在しない=生命として体を成さない』ことを示す。

存在しないものが存在しているなど、その一文だけで明らかに矛盾している。

「花丸満点の回答だな、筆記試験なら間違いなく合格だ。だが、現実はそうじゃない」

 奇想天外極まりない話だが、いつになく真剣な様子の潤に、珊瑚は口を噤む他なかった。

「過去の文献を紐解けば、黒についての記述も白と同程度確認できる。ただ、ある一定の時期から黒のみが後世に伝えられなくなった。いや、伝えることを禁じられたんだ」

「どうして?」

「危険すぎるからだよ」

 鋭く射るような言葉。これには珊瑚だけでなく、隣のクロもびくりと肩を震わせた。

「黒の力は制御の利くものではない。術士の意思に関係なく展開し、広範囲にわたって被害を及ぼす。その力の本質は『反作用』。あらゆる存在を崩壊させ、無に帰す能力を持つらしい」

 その言葉に、昨晩の光景がまざまざと蘇った。制御が利かずに暴走を起こし、紅井空の展開した高純度の色術すら瞬きの間に消し去った力。

「じゃあまさか、この子が?」

「そう、黒の色術士。色術における最大の禁忌だ」

 室内には暫し沈黙が下りた。

黒の色術などと突然言われても、信じられるような話ではない。だが、昨晩の出来事を「きっと幻覚でも見たのだろう」などと簡単に否定できるわけもなかった。

「正直なところ、今ここで昨日のようなことが起これば、この屋敷だってバラバラに……いや、跡形もなく消えることになるだろう」

「跡形もなくって……」

「誇張は無しだ。珊瑚、お前が招き入れたのはそういう存在だ。その意味を理解しているな?」

 冗談の欠片など一切見せない表情。宗主・翡翠潤の放つ威圧感に、珊瑚は思わず唾を呑んだ。

 珊瑚は今更になって、自らの向こう見ずな行動を回顧した。目の前であんな力を暴走させた少女を部屋に連れ帰り、同じベッドに眠り、狭い車内で何時間も隣に座り合った。いつ、どの瞬間に命を落としてもおかしくなかった。そんな事に考えが及ばないはずもなかったというのに。

 ではなぜ自分はそんな行動を取ったのか。それは、彼女にとっては火を見るより明らかだった。

 小刻みに震えるクロの背中に、そっと暖かな手が添えられる。驚きに向けられた視線に微笑みを返すと、珊瑚は決意と共に言い放った。

「それでも、私はこの子を救いたい」

 真っ直ぐな瞳。透き通るほど清純なそれは、雄々しく構える潤を迷いなく貫いた。

「真夜中に一人で膝を抱えて泣いてる女の子を、見て見ぬふりなんてできないわ」

 くだらないと笑われるかもしれない。そんなことでと呆れられるかもしれない。だが、それを貫くのが翡翠珊瑚であり、彼女の矜持であった。

 両者の視線がぶつかり合う。一般人であれば成人男性であろうと腰を抜かしかねない潤の眼力を、珊瑚もまた怯まず正面から受け止める。言葉無き会話の末、俄かに潤の頬がふっと緩んだ。

「そこまで言われちゃ仕方ねえ。なんとかしてみるか」

「……いいの?」

「いいも何も、愛娘たっての希望だ。叶えてやらなきゃ男が廃るってもんよ」

 先程とは別人のように朗らかな笑みを浮かべ、豪快に笑う潤。

「ま、そんなわけでだ。お嬢ちゃんを易々と朱赤の手に返す訳にはいかねえ。翡翠の名の元に、責任持って保護させてもらうぜ」

ほっと胸を撫で下ろす珊瑚に対し、クロは未だに自分の置かれた状況を理解しきれずにいた。

「怖がらせるような真似して悪かったな、お嬢ちゃん。珊瑚の覚悟を試しておきたかったんだ」

「ごめんね、お父様って時々こうして脅かしてくるのよ。……まあ、何回やられても慣れないんだけどさ」

 言いつつ珊瑚は、額にびっしりと浮かんだ冷汗を拭う。例え娘と言えど、緑の歴代最高術士の放つプレッシャーに耐えるのは生半可なことではなかった。

「それに、初めからそのつもりじゃなかったら、わざわざそのお嬢ちゃんをこっちに招いたりしねえよ。危険は承知の上だ」

「心強い事この上ないわ。正直、ここまで来て『朱赤に返す』なんて言われたらどうしようかと思ってた。だけど、その……昨日のようなことになったらどうするの?」

 気を使い、多少ぼかした表現をする珊瑚。それを察した潤も、努めて明るく笑って見せた。

「ありゃ飽くまで一般論。俺を誰だと思ってんだ?」

 その悪戯っぽい笑みに、珊瑚は半分呆れながらも称賛を返す。

「稀代の大術士、翡翠潤その人です」

「そういうこった。皆の安全は俺が保証する」

 自信に満ち溢れた力こぶを見せる潤。その様子に、やっとクロは強張った肩を下ろした。微笑みに涙を浮かべ、深々と二人に向かって頭を下げる。

「頭を上げてくれ。俺は宗主として、一族の者に恥じない行動を取ろうとしただけだ。それに、お嬢ちゃんのことは前々から気になってたからな」

「知ってたの? クロのこと」

 素早い反応を見せたのは珊瑚。潤は深刻に頷き返す。

「数百年ぶりに現れた黒の色術士。否が応でも噂は流れるさ。朱赤の手にあると聞いてからは、ウチも瑠璃家もその動向を注意深く観察していたんだがな」

瑠璃家と言えば、青の一族の宗家である。三原色の宗家の中でも翡翠家と瑠璃家はかねてより交流があり、その理念についても共通する部分があった。そのため、時には色術界全体の問題に対して協力をすることも少なくないのだ。

 しかし珊瑚が気になったのは、むしろ父の語り口である。彼にしては珍しく、どうにも語尾がはっきりしないため、違和感が残った。

「何かあったの? 例えば、過去にも同じようなことが」

「……そんなところだが、更に事情が複雑でな。俺の口から言っていいもんかわからんが──」

と、そこで突然言葉が途切れる。何事かと伺うと、潤はじっと園庭に繋がる障子戸を凝視している。その表情は再び転じて、鋭く険しい宗主の顔になっていた。

「……お父様?」

「お嬢ちゃんを屏風の裏に。時間稼ぎくらいにはなるだろう」

小声だがはっきりとした指示に、珊瑚の背中を冷たいものが走る。多くは語られずとも、珊瑚は大方の状況を察した。

父の見つめる先。恐らく園庭の中に、侵入者がいる。

「嘘でしょ……?」

「俺もそう思いたいところだがね。さ、急げ」

珊瑚が呆然と返すのも当然であった。なにせこの屋敷は、何重にも張り巡らされた巨大な結界の中にすっぽりと収まっているのだ。加えて屋敷内には、探査に優れた《風》の術士が何人もいて二十四時間体制で監視を行っている。それを掻い潜って敷地内に侵入するなど不可能だ。

だが、それを逆説的に考えてみる。『もしもそんな翡翠の屋敷に侵入できる者がいるとすれば』。

ほどなくして、珊瑚の脳裏にひとつの顔が浮かび上がった。誰もが天才と呼ぶ風術士。彼女なら、或いは──。

嫌な予感に焦燥感を駆り立てられながら、屏風の裏、ちょうど園庭側から物陰となる場所にクロ座らせる。不安そうな瞳に「大丈夫だよ」と声をかけ、頭をそっと撫でた。

そうして珊瑚が隣に戻ったのを確認すると、潤は目で合図を交わす。そしてゆっくりと障子戸を開けた。

目の前に広がる壮大な日本庭園。錦鯉が悠然と泳ぎまわる池を中心に、生気強く瑞々しい木々が美しく整えられ、季節が盛りの菖蒲や紫陽花が彩りを加えている。

強烈に主張する緑。その中に、およそ似つかわしくない赤が混ざり込んでいた。

ワインレッドに黒を差した、それでいてゴシックと呼ぶには落ち着いたクラシックロリータ。緩く毛先のウェーブした栗色の毛は、腰まで伸びてそのシルエットを隠している。

真赤の車椅子。そこに腰掛けた彼女は、こちらに背を向けたまま口を開いた。

「あら、お話はよろしいのですか? もしかしてお邪魔してしまったかしら」

 鈴を鳴らしたように澄んだ響く声。少々芝居がかった口調は、わざとそうしているように聞こえた。だが、そんな不審者の言葉にも、潤は一切動じる様子を見せずに答える。

「構わないさ。それより、迎えの者を出さずに申し訳ない」

「そんなご丁寧に。急な来訪でした故、不躾なのはわたくしの方ですわ。どうかお許しを」

そう笑いながら、女は車椅子ごと振り返った。遠目でも見惚れてしまうような均整の取れた美人。その瞳は髪と同じ栗色で、溢れかえるほどの生命力を映し出していた。

しかし、その目の片方は眼帯で塞がれている。さらに視線を下にやれば、スカートから覗く足は片方が見当たらなかった。

隻眼隻脚(せきがんせっきゃく)の女。それは珊瑚にとっては嫌というほど目にした、目に入れるのも嫌な顔だった。

「それにしても素晴らしい庭園ですわね。お噂にはかねがね聞いておりましたが、想像以上です。わたくし、一度は拝見したいと思っておりましたの」

「ははっ、お上手だ」

この状況下で、二人は依然として世間話を続ける。だが、お互い口調は柔らかいのに、貼り付けた仮面の裏で腹の探り合いをするような、どこか張り詰めた空気が漂っている。

「赤の次期宗主に褒められるとは俺も鼻が高い。だが、そちらの宗家の見事な枯山水には到底敵わんだろうさ」

「ご謙遜を。それと、わたくしは正式に次期宗主に決まった訳ではありません、筆頭候補というだけです」

「それこそ謙遜だろう。朱赤は既に、君を次期宗主に推薦したと聞くぞ。これぞまさに、『風』の噂と言うやつさ」

そんな潤の返答に、女は顔を伏せて黙り込んでしまった。かと思うと、徐々に肩を震わせ、堪え切れずに腹を抱えた。

「ふふっ…うふふふふふふふ。相変わらず面白いお方ですね。これは一本取られてしまいましたわ」

その笑い声は聞いているだけで不安になる、なんとも形容しがたい声音。およそこの美しい少女から発せられたとは思えない、不気味な哄笑であった。

「お気に召してもらえたようで何よりだ。それで、今日はどんな要件で──」

「彩花(あやか)! あんた一体何しに来たの!」

 潤が本題を切り出そうとしたその時、二人の煮え切らない様子に、我慢の限界を迎えた珊瑚が怒鳴り声を上げた。廊下のへりに立ち、指差しつつ続ける。

「翡翠の屋敷に侵入とはどういうつもり⁉ 事の重大さは理解してるんでしょうね!」

彩花。そう呼ばれた女はぴたりと笑いを止め、その目を珊瑚に向ける。勢い良く食ってかかった珊瑚だが、その冷たさには思わず肩を揺らしてしまう。

「あら、誰かと思えば無能力の。お久しぶりですわ、変わらず呑気に翡翠の面を汚していて?」

「こいつ……っ!」

「やめなさい、珊瑚」

思わず飛び出しそうになる珊瑚を、潤が制する。

「緋乃(ひの)殿、失礼した。娘に代わってお詫び申し上げる。この通りだ」

 娘とそれほど変わらない年齢の少女に対して、潤は深々と頭を下げる。それを少女は笑顔で受け流した。

 緋乃彩花(ひの・あやか)。赤の次期宗主候補筆頭に数えられ、現宗主のである朱赤の懐刀として覚えがめでたい天才術士。大半の術士が十歳前後で色術を発現すると言われる中、彩花は世にも珍しい『生まれながらの色術士(ナチュラルボーン)』であった。

 幼い頃に両親を亡くしたらしく、朱赤が自ら師範代に名乗りを上げて鍛え上げた。その実力は、今では三原色宗主を除いて敵は無しと謂われるほど。緋色の《風》を操る姿を称え、人々は彼女を『緋姫(ひひ)』と呼んだ。──最も、今はその名で呼ぶものはほとんどいないが。

「翡翠様に責はありませんわ」

 そう返す彩花だったが、蔑むように珊瑚を一瞥すると、溜め息と共に言葉を漏らした。

「翡翠様もご苦労をされておりますね。能ばかりか脳も無いご息女を持たれて」

わざわざ頬に手をあてて、心底残念そうな顔を浮かべる。あからさまな挑発だが、釘を刺された珊瑚は言い返すわけにもいかず、小さく呻くような声を上げる。

「狒々(ひひ)が……」

隣の潤にも聞こえるかどうかという声。しかし彩花は即座にそれに反応した。

「おい、今なんつった? まさかこのわたくしを愚弄した訳じゃねェですわよね?」

先程までの丁寧な言葉遣いはどこへやら。綺麗な顔に似合わないドスの効いた声が、彩花の喉から絞り出された。しかし珊瑚は怯まずに言い返す。

「あーらごめんなさい、聞こえちゃった? 昔っから人の会話を盗み聞くのが趣味だったもんね、粘着質なお猿のヒヒちゃんは」

 時折見せる、彩花のこうした二面性。凶暴で破壊的なそれに加え、聞く者の背を冷えさせるような笑い声。それらは次第に『緋姫』の異名を『狒々』という蔑称へと変化させていった。

 獰猛で時には人を殺し、気味悪く大笑いする大猿の妖怪、狒々。彼女の才能を妬む者たちが好んで用いた呼び名だったが……そんな彼らがどうなったかは筆舌に尽くしがたい。

 だが珊瑚だけは、決して彩花に屈しなかった。

年に何回か行われる、交流会と銘打った三原色の集う会合。そこに珊瑚は宗主の娘として、彩花は宗主の従者として幼い頃から出席している顔見知りである。しかしどうにもウマが合わず、顔を合わせるたびに舌戦を繰り広げている。今となっては各宗家の人々も、彼女らのやり取りをひとつの風物詩のように見守っているのであった。

「誰がヒヒですってェ⁉ 色術を欠片も使えねェ木っ端のくせに囀りやがりますわねェ!」

「人様の家に断りもなく上がり込むなんて、どう考えても猿のやることでしょ!」

「あァ⁉ 殺されてェんですの⁉」

「すぐにそうやって暴力に任せる! 色術の能力以外に誇るものは無いの⁉」

そのまま二人はぎゃあぎゃあと言い争いに発展する。こんな状況なのによくやる……と呆れて眉間を抑える潤だったが、ふとクロの様子が気になって屏風の方へと目を向けた。

 それが最悪の失態だと気付くのには、一瞬遅かった。

「ああ、なるほど。其処ですのね」

心臓を刺すような鋭利な声。見ると、珊瑚と言い争いをしていたはずの彩花が、感情の無い視線を屏風へと向けていた。口調はすっかり元通りで、今の今まで激昂していたのが嘘のようだ。

「さすがは緑の総本家。探知されないように庭園に入り込んだのはいいものの、あらゆる気配が遮断されて居場所が掴めず困っていましたの。宗主自らご申告いただくとは、助かりましたわ」

(視線を追った、か。やるねぇ、噂以上だ……)

確かに潤の油断だった。しかしあの一瞬でそこまで読み取るとは、並大抵の洞察力ではない。天才とは色術の才能のみを指して言うのではないようだと、潤は敵ながら感心した。

「わたくしの注意を引き付けたいがためにわざと挑発したようですが、無駄になりましたわねェ、無能力のお嬢サマ?」

それすら見抜いて、彩花は乗せられたフリをしながら周囲に気を張り巡らせていた。一枚上手な相手の行動に、珊瑚は悔しそうに唇を噛んだ。

「さて、翡翠様。要件は何かというお話でしたわよね」

ひゅう、と。

 先程まで凪いでいたはずの風が頬を撫でた。それは段々強くなり、池の水面が揺れ、木々が騒ぎ、花弁が舞った。それなのに上空の雲は微動だにしない。まるでこの屋敷にだけ風が流れ込んで来ているように。

「宗主より授かりし命です。そして何より、わたくしの本懐を果たすため──」

俄に屋敷が騒がしくなる。色術が発動したことによって術士たちが彩花の侵入に気付いたのだろう。だが時すでに遅し。赤を帯びた風は瞬く間に暴風へと変わる。

「──そこに隠れてる薄汚ねェドブネズミ、さっさとこっちに寄越しやがれェ!」

衝撃。

 質量を伴った突風がクロの隠れる屏風に目がけ、周囲の一切を蹂躙しながら通過していく。

暴力的な緋色の風。その余波で、珊瑚の身体は紙人形の様に吹き飛ばされた。

「ぐぅっ!」

畳の上をゴロゴロと転がり、壁にぶつかる。激しい衝突で肺の空気が一気に漏れ出した。

(クロ!)

 必死に叫ぼうとしても声にならない。気を抜けば手放してしまいそうな意識を懸命に繋ぎ止め、鉛のように重い頭を上げる。

「ふー……危ない危ない」

 そんな切迫した状況で聞こえてきたのは、緊張感など欠片も感じられない飄々とした声。

「次期宗主の呼び名は伊達ではないな。危うく間に合わんところだった」

 見上げた先には、散乱した家具や装飾品。屏風に至っては影も形も無い。

しかし両手で頭を抱えるクロにはかすり傷ひとつ見当たらない。その眼前には、翡翠色をした《水》の障壁が浮かんでいた。

「お父様!」

「無事か、珊瑚! すまない、お嬢ちゃんを守るので精一杯だった!」

 張り上げられた力強い声。その頼もしさに、珊瑚は安堵の溜め息を吐いた。

「──ふふ、ふふふふふふふ」

 しかし、地の底から湧いてくるかのような気味の悪い笑い声に、再び悪寒が走る。

見ると、車椅子から立ち上がった彩花の姿。だが、その重心は明らかに隻脚ではありえない位置で留まっている。まるで見えない左足に支えられているかのように。

「邪魔するならアンタも喰らって差し上げますわ、翡翠様。三原色だの宗主だの関係ねェ。ヒヒならヒヒらしく、残忍にやらせていただきましてよォ!」

 脳に反響する笑い声と共に、彩花は右目の眼帯を毟り取った。そこから覗いた異形の瞳に、珊瑚は思わず息を呑む。

禍々しいほどの赤。瞳孔も虹彩も、黒目と白目の境すら無く、ただ赤い物体がそこに嵌め込まれていた。光を帯びて煌めくそれは本物の眼球ではない、義眼だ。噂には聞いていたが、目にするのは初めてだった。

「水晶の義眼か。聞きしに優るおぞましさだな」

「潤様っ!」

冷静さを欠かず対峙する潤に、騒ぎを聞きつけた術士たちが駆け寄ってくる。その先頭には扇の姿があった。

「狙いはそこにいるお嬢ちゃんだ! 扇! 珊瑚とお嬢ちゃんを安全な場所へ!」

潤は、彼らには目もくれずに制止する。というよりは、彩花から目を離せない状況にあるようだ。

「しかし、こやつの相手は⁉」

「足手まといはいらん! 急げ!」

有無を言わさぬその声に、扇は珊瑚たちへと駆け寄る。珊瑚はクロの手を引くと、術士たちに周囲を囲まれながら走り出した。

「逃がすかァ!」

 それを黙って見過ごしてくれるはずもない。無防備な背中に、再び緋色の風が襲い掛かろうとする。

 屋敷全体が軋むほどの風圧。しかしそれもまた、翡翠色の障壁によって防がれた。

「走れ!」

 潤の後押しを受け、二人は足の回転を速める。必死に肺へ酸素を流し込みながら、ひたすらに逃げ急ぐのだった──




「……流石は、翡翠の最高傑作と称される水術士。それなりに力を出したのですけれども、簡単に防がれてしまいました」

 珊瑚たちの姿が見えなくなると、彩花は人が変わったかのように穏やかな口調に戻った。獲物に気を取られ背中を晒すほどに馬鹿ではないらしいな、と潤は相手の狩人としての力量を分析する。

「それなりに、ねえ」

(それであの速さ。天才とは恐ろしいね)

 元来より速さにおいて四大最高を誇る《風》ではあるが、それを差し引いても彩花の術式展開の速度は驚異的であり、それでいて重さもあった。間に合わないかも、という先の発言も本心から出たものである。

「一つ伺ってもいいだろうか? あのお嬢ちゃん、十四年前に発現した黒の術士で間違いないな?」

「仰る通りです」

「なら、俺が言いたいこともわかるだろう?」

「ええ、大方察しはつきますわ」

「何故あの子が生きている」

 間髪入れずに食い気味で問う順。そこには僅かながら、隠しきれない怒りが垣間見えた。

「それについては、わたくしには知る権利はありません。当時はまだ四つの幼子でした故」

 その回答に、潤ははっと思い出した。怒りをぶつけるべきは彼女でなく、むしろ彼女こそが怒り狂うべき存在であるということを。

「そうか、そういえば君はあの事故の最大の被害者だったな。……あれは、残念だった」

 潤にとっても、あれは人伝てに聞いてなお顔をしかめてしまうほどの凄惨な事故だった。その当事者である彩花には心から同情している。

「……事故、ですって?」

そんな潤の言葉に、彩花はぴくりと肩を震わせる。それを合図に徐々に彼女の周りの空気が激しいうねりを伴っていく。

「事故、事故……。ふふっ、残念だった? そうでしょうとも。未だにわたくし、無いはずの足がすり潰されるような痛みに襲われますの。その度に思い出しますわ、あの憎きネズミの顔を。ふ、ふふふ……」

 彩花は笑い声を上げ続ける。それは次第に大きくなり、やがて慟哭へと変わった。

「許せねェんだよ、わたくしから全てを奪ったアイツが! 宗主は『必ず連れ戻せ』なんて言ったが関係ねェ! どの道殺すんだ、今ここでやってやる!」

「……やれやれ、感情の起伏がジェットコースターみたいだな。忙しいお嬢さんだ」

恐らくもう言葉で止めることは叶わない。潤は毒づきつつ、自らの口角が上がっていることに気が付いた。

何せ全力で色術を用いるのは、宗主の座に着いてからは初のこと。加えて相手は永らく三原色最強を恣(ほしいまま)にしてきた赤、その次期宗主。一術士として、これほど心躍ることもあるまい。

「それならお喋りはここまでだ。ゴチャゴチャ言ってないで、実力で雌雄を決しようじゃないか」

「言われなくても、そのつもりでしてよォ!」

彩花の義眼が妖しく光る。それを合図に、風の刃が四方から潤へと襲いかかった。確実に息の根を止めんとする、殺意の塊。躱すか受けるか考える暇など僅かにもない。

これが並の術士であれば、の話だが。

「ふっ!」

 瞬時、潤の周囲を《水》の障壁が囲う。彩花と同じように、祝詞も印も必要としない、思考による術式展開。襲い来る刃が衝突し、その悉くがそよ風の様に霧散した。

「ははっ、まだまだ脆いな!」

「煩っせェですわね!」

 彩花は間髪入れずに追撃を放つ。渦巻く暴風が巨大な砲弾の如く迫り、障壁ごと潤を吹き飛ばさんとする。

対する潤は障壁を前方に集中展開し、正面からそれを受け止める。

(一段階上げてきたか……!)

双方が衝突し、鍔迫り合いのように拮抗する。ビリビリと全身を襲う衝撃は、これまでに経験した中で最高の暴力。

だが、潤とて守りと癒しを司る翡翠の宗主である。障壁の強度を高め、暴風そのものを呑み込まんとした。

「っ!」

しかしその刹那、潤の全身の毛が逆立った。咄嗟に横に転がると同時、背後に現れた風の刃が、先程まで潤が立っていた空間を大きく切り裂く。

(死角からの攻撃! こっちが本命か!)

彩花はあれだけの威力の術式を展開しながら、背後からの闇討ちを用意するだけの余力を残していた。驚きの一撃に、さすがの潤も舌を巻いた。

(これなら次期宗主どころか、今すぐに朱赤を排することすら──)

潤の心中に先程までの余裕は既になかった。だが命のやり取りをするこの状況でなお、胸の昂ぶりは制御の利かない領域まで突入している。

「クッソ、ちょろちょろとォ!」

一方の彩花は、絶対の自信をもって放った一撃を外したことに焦りを隠せない。次々と術式を展開するものの、そのいずれも力任せの大味なものとなる。

(なるほど、力は絶大だが戦い方は未完成。なら──)

それら一つ一つを潤は防ぎ、往なしながら、彩花を観察する。姿勢、視線、呼吸に至るまで。冷静に、細かい癖すら見逃さないように。

「いい加減、ムカつきましてよ……!」

 業を煮やした彩花は、今日一番の威力を込めた術式を展開しようと集中する。その際、僅かに深く息を吸った。

(ここだ!)

 無数の風の刃が、潤を包囲するようにびっしりと幾分の隙間もなく展開する。彩花が『鳥籠』と密かに呼んでいるその術式は、逃げ場を奪い一斉に刃を撃ち出すことによって対象を切り刻み圧し潰す、彩花が編み出した中で最大最高の術である。人間相手に使用するのは初めてだが、翡翠の宗主相手ではこれくらいしなければ決定打にならないと判断したのだ。

だが、それらが囲うより一瞬早く、潤はノーモーションで彩花との距離を詰めた。

縮地と呼ばれる移動法。武道において、対峙する相手の懐に瞬時に潜り込む技術である。しかし潤の見せたそれは、スピードも距離も常軌を逸している。風術士であれば術式を用いて似たようなこともできるだろうが、潤はそれを己の身一つでやってのけた。

 彩花の眼前に潤の拳が迫る。完全に想定外の動きに、彩花は思わず目を瞑る。

「きゃっ……!」

 ガン、と強い衝撃が潤の右手に伝わる。完全に捉えた感覚。しかし、拳は鋼鉄の壁を殴ったかのようにそれ以上前に進まない。

(障壁か……)

 人が危機に瀕した際、反射的に腕で顔を覆うのと同じように、彩花は思考を挟むことなく瞬時に術式を展開したのである。その能力の高さに、潤は敬意すら抱いた。

「テメェ、乙女の顔に手を上げようとしましたわねェ!」

「確かに乙女だな、カワイイ声も出せるじゃないの」

「殺す!」

 彩花は羞恥に首まで緋色に染め、展開していた刃を潤に向け雨の如く降らせる。潤はそれらを掻い潜り追撃のチャンスを伺おうとするが、予想以上の猛撃に後退を余儀なくされる。

(さすがにいつまでも隣接させてはくれないか)

だが、潤はこの短い時間で彩花の戦闘能力をほぼ把握した。先程突きを放った時の反応を見るに、彩花は体術については素人同然。強力な色術を遠距離から次々と撃ち込む固定砲台タイプだ。近付けば無力化するチャンスは幾らでもある。しかし、近付くチャンス自体はほとんど無い。

(それだけに今の一撃を防がれたのは辛いな。今度は易々と間合いに入らせてはくれないだろう)

彩花は一層警戒を強め、潤を近付かせまいと連撃を放つ。相変わらず一つ一つの純度が高く、少しでも気を抜けば射抜かれてしまいそうなほどであった。

(だが、やりようはいくらでもある)

壁は高ければ高いほど、乗り越えた時の快感は大きくなるものである。獲物に不足無し。思わず潤は唇を舐めた。

「さてと、華麗に大猿退治と参りますか」




「はぁっ、はぁっ、はぁっ──」

翡翠家から山に向かって行った先にポツンとそびえる、直系分家である若葉の屋敷。そこに案内された珊瑚とクロは、息を整えながらペットボトルを呷った。

 休みなしの全力疾走。幼いクロには負担が大きく、肩を激しく上下させている。

「ここなら翡翠の家と同じくらいの結界が張ってあるから、安心して」

ひとたび入ってしまえば、いくら彩花でも気配を掴めないのは先程証明済み。彩花とて潤を相手取って、こちらの行く先に気を配るほどの余裕もあるまい。

 扇たちは、珊瑚とクロをここへ案内するとすぐに、加勢のために翡翠の屋敷へと向かった。尤も、役に立つかどうかは別問題だが。

「それにしても、まさか翡翠の屋敷でぶっ放してくるとは思わなかったわ……」

いくら彩花とはいえ、それがどれだけ大変な事態を招くかわからないはずではない。

(それほどまでに殺意を抱く存在、ってわけね。一体どんな因縁があるんだか)

改めて目の前の少女を見つめる。外見だけ切り取れば、ただの──いや、非常に可愛らしい女の子だ。あんな力さえ持って生まれなければ、それは大切に育てられたことだろう。

(朱赤はどうしてこの子を執拗に追うのかしら。確かにこの力は絶大だけど、それを奴が御せるとは思えない)

 緑が守りと癒しを司るように、三原色にはそれぞれ役割がある。青は調律と裁定。そして赤は、力。

そんな一族の中でも、朱赤赦豪の力への執着は異常だ。それを得るためであれば命を落としかねない過酷な鍛錬すら進んで行い、同時に他人にもそれを強いる。彼の理不尽さのために犠牲になった命は、両手で数える程ではきかないと言われている。

「クロ、平気?」

「────っ」

 苦しそうに咽せながら、それでもクロは首を縦に振って見せた。強い子だ、こんなに恐ろしい思いをしても、涙を流す事なく、懸命に生きようと行動している。

(生きる、か)

 命を奪ってまで、あるいは失ってまで手に入れていいものなどあるだろうか。胸に手を当て、深く考えてみる。だが、どうしてもそんなものは思い浮かばなかった。

 欲しいものはある。叶えたい夢もある。だけどそんなもの、人の命と天秤にかけるのも烏滸おこがましい。

どんなに希少なものでも、尊いものでも、誰かの犠牲なしで手に入れることが出来ないなら、そんなものに価値など無い。

(やっぱり間違ってる。絶対に朱赤の手にクロを渡しちゃいけない)

改めて珊瑚は、そう胸中で断じた。

そんなことを考えていると、けたたましい衝突音が突如として部屋に響いた。それと同時、廊下へと続く障子戸が凄まじい勢いで突き破られる。

突然飛び込んできたそれは珊瑚とクロの間を通過すると、勢いそのままに床と天井をバウンドし、壁へと激突した。障子や壁の破片が飛び散り、屋敷全体が大きく振動する。巻き込まれれば、轢き殺されていたかもしれない。

一瞬早く正気を取り戻した珊瑚が、大きさと飛んできた方向から、その物体が何かを推測する。まさかとは思うが──

「いっ……てェですわねェ! 何なんですのあのデタラメな障壁はァ⁉ 全方位からどれだけ叩いてもビクともしないとか聞いておりませんわよォ⁉」

 案の定という言葉がここまで似合う状況もないだろう。そこにいたのは、壁に半分埋まりながらも元気に悪態を吐く彩花だった。

「彩花⁉」

「ァん? 気安く人の名前を呼んでじゃ──っと?」

 しまった、と気付いたときにはもう遅い。珊瑚に向けられようとした目が、その途中でクロを見つけてピタリと止まった。途端に、彩花の口元が両端から吊り上げられていく。

「あーらァ? 気に食わねェオヤジに吹き飛ばされてみれば、こんなところにいらしたんですのねェ、黒の色術士サマ?」

 彩花はどうやら戦闘では劣勢にあったようだが、飛ばされた方向が悪かった。いや、良かったと言うべきか。何とも悪運の強い女である。

 ゆったりとした動きで起き上がる彩花。だがその視線を、両手を広げた珊瑚が遮った。当然、彩花の眼光が珊瑚を正面から射抜く。

「何のつもりですの? 無能力者如きが」

「悪いけど、無能力だからって黙って見過ごすわけにはいかないんだよね」

 こんな状況でも、珊瑚は一切怯むことはない。それだけで人を殺せそうな眼力を受け止めながら、毅然とした態度で彩花と言葉を交わしている。

「ここは翡翠の領域。これ以上の勝手は許さない」

「これ以上の勝手? ……ふふっ、ふふふふふふふ」

 怖気の走る笑い声が、またも鼓膜を不快に揺らす。

「これ以上も何もありましてェ⁉ 翡翠の屋敷に侵入を許したどころか、色術による攻撃まで受けているんですわよォ⁉ 宗家としてのメンツは既に丸潰れじゃァありませんの!」

 完全に見下しているセリフだが、反論の余地はない。例えここで彩花を退かせることができたとしても、三原色としての権威に傷が付くことは避けられないだろう。それは珊瑚も痛感しているところで、苦虫を噛み潰したような表情で歯を食いしばっている。

「それもこれも、突貫仕掛けてきたバカのせいでしょうが……!」

「うふふふふふふふ。負け惜しみなら後でいくらでも聞きますから、今はお控えください。わたくし、もう我慢の限界ですの」

彩花の右目が邪悪な輝きを増す。爆発的な気の膨張に伴い、ゴウと周囲の空気が音を立てて渦巻いた。

「何せ、憎くて憎くて仕方ない奴が目の前にいるんだからさァ!」

 圧し潰すような、吹き飛ばすような、湧き上がるような、複雑な風が奔流となって吹き荒ぶ。その蠢きのせいで、空気を上手く肺に取り入れることができない。

「アアアアアアア! もう面倒臭ェ! テメェもまとめてぶち殺す!」

殺気そのものが色と形を持ち、緋色の刃を形取る。軽く十は超えるであろうそれらが、一斉に襲いかかった。

「この痛み、この恨み! テメェもその身に刻みやがれェ!」

迫り来る刃をスローモーションのように眺めながら、珊瑚は一つの思いを抱いた。

(あ、ダメだこれ。死んだ)

全身が指先から急速に冷えていく。血の気が引くとはこの事か、なんて悠長な考えすら浮かんできた。

(守るだなんて言って、結局私は何も出来ないの?)

その思いは本物だった。翡翠の娘として、目の前の命を守りたいと本気で願った。だけど所詮思いだけでは、何も成すことが出来ない。

珊瑚は己の無力を嘆いた。これまでの人生で最も深く、才無く生まれた己を恥じた。

そして、刃の切っ先が珊瑚の身体を貫く刹那──

 突如現れた水の障壁が、その悉くを呑み込んだ。

「あっぶねぇ! 今度こそギリギリだった!」

「お父様!」

 間一髪、彩花を追ってきた潤に救われ、珊瑚は胸を撫で下ろす。

「すまん、よりにもよってこっちに寄越しちまった! 二人とも怪我は──」

 と、そこで潤の表情が硬直する。その目は驚愕に──あるいは恐怖に──見開かれていた。

「二人とも、そこを離れろ!」

 潤は必死の形相で叫びを上げる。父のこれまで見たこともない焦りように戸惑いつつも、珊瑚は咄嗟にクロの手を取り、彩花から距離を取ろうとする。

「違う、そっちじゃねぇ!」

 だが、珊瑚は気付いていなかった。

 その彩花もまた、父と全く同じ表情を浮かべていることに。

「二人とも、黒のお嬢ちゃんから離れろ!」

 その言葉と同時、珊瑚の手がクロに触れる。

 静電気を何十倍にもしたかのような衝撃。しかし、そこに痛みは発生しない。その代わりに、クロの感情が指先を通して怒涛の勢いで流れ込んできた。

「っ!」

 それらはどす黒く、吐き気を催すもの。反射的に手を払っても、脳裏にこびり付いたイメージは消えない。

感情とは本来、言葉や表情などのフィルターを通して伝えられるものである。それらを介さずに生の感情を直接伝導されることの恐ろしさを、珊瑚は本能的に理解した。

 ──どくん。

 その空気を打つ音を耳にし、珊瑚はやっと状況を理解する。クロは身体を小刻みに震わせており、額には脂汗を浮かべ、瞳孔は開き切っている。それは陸橋で見た時と同じ、黒の暴走の兆候であった。

「こンの!」

 彩花は咄嗟に緋色の障壁を展開する。しかしそれは空気に溶けるかの如く、瞬時にその色を失った。

「なっ……⁉」

 鼓動は陸橋の時よりもさらに速く高鳴っていく。暴走は目前にまで迫り、逃げる猶予は万に一つも無かった。

(間に合わない!)

 彩花がそう察した瞬間、辺りに力強い声が響いた。

「『其は総てを守り癒す神秘の鏡。神が創造せし奇跡の具現』!」

 声の主である潤は、縮地の応用により瞬間的にクロと珊瑚たちの間に割って入る。その身体は激しく翡翠色の輝きを放ち、周囲には複雑に組み込まれた印が球状に展開された。

 潤の身体を包み込んだそれは、彼の両手に収まるほどの大きさへと急速に収縮する。

「『我が声に応え顕現せよ。神器(じんぎ)・八咫鏡(やたのかがみ)』!」

 柏手を打つように、潤は輝く印を押し潰す。その両手を再び開いた時、そこには一枚の鏡が握られていた。

 神代より伝わる三種の神器。三原色の各宗家に一つずつ伝わる、究極のアーティファクト。

 並の術士では触れただけで気を失うほどの力を秘め、選ばれた契約者には膨大な力を授ける。しかし使用するには尋常でないほどの精神力を消費し、潤であろうとおいそれと振りかざすことはできない。

その伝家の宝刀を抜いたということは、潤が正真正銘の本気で色術を展開しようとしている事を意味していた。

 そして潤が八咫鏡を構えた瞬間、それは始まった。

 敢えて言い表せば、虚無の進行。クロを爆心地として三百六十度、全方位に向けて黒い粒子たちが飛びすさぶ。畳が、柱が、天井が、そしてあらゆる物質たち全てが黒い粒子に食い尽くされ、跡形も無く姿を消していく。

 それを拒むものは、ただ一つ。

「くっ……おおおおおおおおおおお!」

 彩花との戦闘の際とは比べものにならないほど強い煌めき放つ翡翠色の障壁。掲げられた鏡の前に、それが幾層にも折り重なって展開されている。

障壁は恐ろしいスピードでその姿を失っていくが、消える傍から潤は障壁を展開し続ける。多重障壁の永続展開。それだけが、後ろに立つ三人を黒による侵食から守っていた。

だが、それでも侵食の速度が僅かに早い。どれだけ障壁を展開しようと、それら一つ一つが抗う時間はあまりに短いのだ。

「八咫鏡をもってしてもここまで……まずい、抜かれるぞ!」

じわりじわりと侵食は進み、遂に障壁はあと数枚という所まで追い詰められた。

「……っクロ! お願い、目を覚まして!」

こんな状況で、能力の無い珊瑚には力を貸すことは出来ない。だからせめて、喉の限りに声を上げた。

「自分を取り戻して! 恐怖になんか負けちゃダメ!」

「無駄ですわ! それは一度暴走すれば聞く耳など持ちませんもの!」

「あんたは黙ってて!」

そんな事は言われずともわかっている。だが、一度助けると誓った以上、誰かの影に隠れて蹲っているわけにはいかない。どんなに拙い希望であろうとも、それを信じて縋り続けるしかないのだ。

「大丈夫! こんな奴、怖がる必要なんてないの! 手出ししようとしたら、私がぶん殴って止めてやるわよ!」

「はァ⁉ テメェ調子に乗ってんじゃねェですわよ⁉」

「だから、諦めないで──!」

触れ合った腕から流れ込んできたもの。あらゆる感情が渦巻いて混濁するそれらの中で、一際おぞましい黒さを纏ったもの。

『消えたい』

『死にたい』

『終わりにしたい』

それだけは、どうしても否定しなくてはならなかった。

「生きることを、諦めないで!」

 依然として侵食は続いている。しかし珊瑚の必死の訴えに、クロの様子が変化した。

「────っ」

 作り物のような無表情が、僅かに眉を顰める。歯を強く食いしばり、両の拳をきつく握りしめた。まるで何かを耐えているように。

「反応してる⁉ 嘘でしょう⁉」

「おい、緋姫ちゃん! 呆けてないで力を貸せ!」

「え、ええ……って、誰がヒヒだコラァ!」

 悪態を吐きつつも障壁を展開するが、緋色は現れた端から霧散してしまう。焼け石に水も甚だしい。

「クッソ、わたくしは壊す方専門でしてよ! いくらやっても時間稼ぎにもなりゃァしませんわ!」

「それでもいい! いや、それでいいんだ!」

「綺麗事を! 結果じゃなくて経過が大切だとでも仰いますの⁉」

「経過がなくちゃ結果は生まれん! 事実、珊瑚の『無駄な』呼び掛けに、お嬢ちゃんは応えようとしてるじゃねえか!」

「それは……っ、ああもう! わかりましたわよ!」

 彩花は障壁の展開に全神経を集中する。次々と現れては消えていく翡翠色に、時折混じる緋色。ギリギリの瀬戸際で粘っているが、破られるのは時間の問題だ。

「クロ!」

 珊瑚はもう、クロの名前を呼び続けることしかできない。無力な自分を嘆きながら、それでも必死に足掻き続けるように。

「────ぅ」

吐息の他にはこれまで一度も耳にしたことのない、クロの声。呻くようなそれは徐々に大きくなり、叫びへと変わった。

「あ。……ぁああああああ!」

──ドクン。

一際大きな鼓動の音がクロを中心に一つ、空気を揺らした。

 それと同時、凄まじい勢いで拡散し続けていた黒い粒子たちが消滅し、周囲を埋めつくしていたおぞましさが晴れていく。

 嘘のような静けさ。まるで時間が止まったかのように、その場にいる全員が固まっていた。

「助かった……?」

 未だその事実を信じきれず、うわごとのように呟く珊瑚。それを皮切りに、潤と彩花も小さく息を吐き、肩の力を抜いた。

その眼前でクロの身体が揺らめいたかと思うと、重力に引かれるまま地に落ちていく。

「クロっ!」

 意識を失って倒れ伏す姿は、昨夜の再現のよう。口元に耳をあてがうと、浅い呼吸音が確認できた。

「良かった……」

無事を確認すると、珊瑚の膝から力が抜け、その場にへたり込む。

目を閉じ眠るクロの頭を、珊瑚は優しく撫でた。

「……やりましたの?」

 それを呆然と眺めながら、彩花は上ずった声を上げる。

 黒の力をこの至近距離で受けたのは、彼女の人生で二度目だったが、今回こそは間違いなく死んだと思った。その上、傷一つなく立っているとは、奇跡としか言いようがない。

「守り切ったな、なんとか」

 そんな彩花に答える潤は、両手を膝に当てながら肩で息をしている。荒い呼吸音は、その消耗の激しさを伝えている。

「正直、信じられませんわ」

「ははっ、俺もだ。……だけど、言った通りだろ?」

 潤は全身に汗をかきながらも、ニカッと歯を見せ、無理に笑顔を作ってみせる。

「あの経過があって、この結果が生まれたんだ」

 前方を見遣る潤の視線を追うと、彩花もまた自ずと口元を綻ばせた。

 そこには、ただ一枚だけ残った緋色の障壁が浮かんでいた。

「まあ、今回ばかりは年の功を立てて差し上げますわ」

「素直なのは良い事だぜ、緋姫ちゃん」

「あァ⁉ 一度ならず二度までも! 今すぐ二回戦を開催して差し上げましょうかァ⁉」

健闘を称え合ったのも束の間、潤のちょっかいに彩花は激昂する。しかし、返されるはずであろうからかいの言葉が潤から発される様子はない。

 尻切れ蜻蛉になった会話を訝しみ、彩花は潤を伺う。するとそこには、苦痛に耐えるような苦々しい表情があった。

「翡翠様? 如何されまして?」

「……参ったな。『受けて立つ』って格好付けたいところなんだが──」

「翡翠様!」

 潤の身体は力なく崩れ落ち、そのまま前のめりに地に伏した。その顔面は蒼白で、浅い呼吸を繰り返している。

 強大な力にはそれ相応の代償が求められる。黒に拮抗するほどの、神器を用いた高出力の術式。一つだけでも常軌を逸する硬度を持つ障壁をそれをあれだけ展開し続ければ、その身体と精神にかかる負荷は計り知れない。

「お父様!」

潤の異変に気付いた珊瑚が、今度は潤の元へ駆け寄る。

大声で呼びかけるが、反応は無い。涙交じりの悲痛な叫びだけが、見通しの良くなった周囲に虚しく木霊した。

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