1-01【邂逅】
視界一杯を覆うほどの弾丸が降り注いでくる。
目で追うのもやっとであるそれらを、自分でも驚くべき速度で反射的に捌いていく。思考は無、感情も無。極限の集中によってのみ至る領域へと、彼女は足を踏み入れていた。
同時に迫りくる敵を叩き、断続的に襲い来る弾丸を往なし、流し、抑え込む。過酷な鍛錬の末に身に着けた体捌きが、自動化された機械のように精密な動きを実現していた。
(見える。いける。今日はやれる!)
しかし、人は往々にして調子に乗った時、つまり油断をした時に足元を掬われる。思考と感情を置き去りにしたからこそ到達できたゾーンからは、雑念ひとつ混ざっただけで弾き出されてしまうものだ。
「ぅあっ!」
被弾。それ自体のダメージは大きくないが、一度のミスはその後の動きを鈍らせる。修正しようとすればするほど泥沼に嵌まり、次第に被弾数は多くなっていく。
「ぐっ、この……っ!」
なんとか立て直すが、焦りからか先程の集中力は呼び戻せない。もはや彼女の目的は万全な勝利ではなく、この場を生き抜くことへと変わっていた。
(止まるな、動き続けろ!)
精神も肉体も限界に近い。もう諦めろ、楽になってしまえと、何かが頭の片隅で囁きかける。
それでも少女は息が詰まるような数十秒を超え、最大の連撃をやり過ごした。
(抜けた! これで、これで──)
「終わりだあぁ!」
全身で叫びを上げ、渾身の力を込めて最後の一撃を叩き込む。
──が、勝利を確信して振り下ろした右手は、狙ったボタンの右、何もない空間を叩く。
「あっ」
瞬間、薄い膜の様に残っていた体力ゲージがゼロとなり、
「えっ」
眼前の画面が派手な効果音と共に暗転し、
「ちょっ」
そこには大きく『段位認定失敗』の文字が映し出された。
「は?」
まるで時が止まったかのように微動だにせず、灰色のパーカーを着た少女はただ茫然と画面を眺めた。
しかし今起こった事実を認識していくにつれて、その顔面が蒼白に染まると共に、身体を小刻みに震わせ始めた。
「はあああああああああ⁉ 嘘でしょおおおおおお⁉」
頭を抱え絶叫し、肩口で揃えられた髪の毛を掻きむしる。あまりの声量に周囲の人間は迷惑そうに目を向けるが、事情を察するとその視線にはむしろ哀れみにも似た慈悲の色が宿った。
ゲームセンターの一角に設置されたリズムゲーム筐体。そこで一通り悶えると、少女は無表情にリザルト画面をスキップさせた。
「うそでしょ、こんな。やっとよ、やっとだったのに……」
迫ってくるノーツ(敵)にタイミングを合わせてボタンを叩くリズムゲーム。これに彼女──翡翠珊瑚(ひすい・さんご)が興味を示したのは半年前のこと。以来時間と財布の許す限りにゲームセンターへと通い詰めた。
ハマったらとことんの性分であるため、プレイするだけでなく、動画投稿サイトで上位ランカーのプレイ動画を観るなどし、譜面や運指の研究も行った。そこに持ち前の運動センスも加わり、驚異の速度で急成長。そして先日、遂に最高段位への挑戦権を手に入れたのだ。
それ以来何度も挑んでは打ちのめされ、やっと訪れた最高のチャンス。それをボタンを押せなかったという初心者同然のミスでフイにしてしまったのが、今ほどの話である。
「弱い。私はなんて弱い人間なんだ……」
この世の絶望を全て詰め込んだかのような表情で、珊瑚は重々しく呟いた。
思わず筐体を全力で殴りたい衝動に駆られるが、それはご法度。握った拳を無理矢理に解き、深呼吸して心を落ち着けた。
(大丈夫、今日はかなり調子が良い。このままもう一回!)
順番を待つ他プレイヤーがいないことを確認し、財布を開く。しかしそこで気が付いた。次の給料日はちょうど一週間後である事に。
周りのご家庭と比べて過保護気味に育てられた珊瑚は、大学進学を契機に親の庇護下からの独り立ちを決意。学費以外の生活費をアルバイトで賄うことにしている。
今月の家賃と水道光熱費は支払い済み。しかし食糧は乾麺しか残されていない。今日の帰りに、一週間分まとめて調達しようと算段を立てていたところだ。
時刻は二十時半。今ならばまだ近くのスーパーの閉店時間に間に合う。しかし目の前にぶら下がっているのは、喉から手が出るほど欲しい最高段位の栄誉。これまでにない手応えに、機を逃したくないという思いが膨れ上がる。
やるべきか、やらざるべきか。しばしの思案の末に導き出された答えは──
(あと一回だけ! それで段位を取れば、出費は最低限で済むし買い物も間に合う!)
取らぬ狸の皮算用。そんな言葉を蹴散らかし、珊瑚はなけなしの百円玉を握った。
「絶対にやれる。必ずクリアする……!」
万感の思いを込めた硬貨が吸い込まれ、珊瑚の本日十回目に達しようかというプレイがスタートした。
「弱い。私はなんて弱い人間なんだ……」
三時間半後。深夜の駅前には、肩を落として歩く珊瑚の姿があった。
結局のところ最後と誓ったワンコインでもクリアできず、気付いた時には次の百円を投下していた。
そこからはもう泥沼。後に引けなくなった珊瑚はコインを連投し、集中力を欠いた雑なプレイの連続。それでも意地になって挑戦し続け、そのまま閉店時間を迎えたのだった。
「ワンチャンをモノにできなかった時点で今日は負けだって、頭ではわかってたはずなのに……」
段位獲得に失敗し、スーパーは閉店、財布の中身はほとんど空。二兎どころか三兎を追って、見事にその全てを取り逃がした。まるで愚かな人間の見本市である。
「今日は随分と風が冷たく感じるね。懐が寒いからかな? ははっ……」
日中雨が降ったこともあり、六月の夜は肌寒く感じられるほどであった。せめて夜食の素麺は温かくしようなどと思い浮かべながら、駅の東口へ向かう陸橋の階段を上る。
片側二車線の車道が並ぶ陸橋であるが、今は人も車も影すら無い。
それもそのはず、この時間に出歩く者がいたとしても、大半は明かりのある地下連絡通路を利用する。特に女性ともなれば陸橋を利用する者はほとんどなく、友人からは「不用心だ」と常々注意を受けている。
しかし珊瑚はそんな周囲の声など全く意に介さず、このルートを愛用している。その理由は単純明快。
(地下通路って遠いのよね)
それにどうせ誰も通らないのだから、近い方がいいに決まっている。華の大学生とは思えない、警戒心の欠片もない考えである。
そして忘れる事なかれ。人は往々にして、油断している時に足元を掬われるのである。
「ほ?」
思わず素っ頓狂な声を上げて立ち止まる珊瑚。その目線は陸橋の半ばほど、頭上に新幹線の高架線路が掛かり、宵闇が一層深くなる場所に向けられている。
目を凝らさなければわからないくらいの影であるが、およそこの場所に似つかわしくないものが、そこには存在した。
(……女の子?)
外見から察するに、年の頃は十二、三歳くらい。膝を抱えて柵に身体を預け、眠っているのかピクリとも動かない。
深夜に一人、人目のつかない場所で座り込む学童。どう見ても、厄介ごとに巻き込まれているのは明白だった。
(家出か迷子か、それとも……。いずれにせよ放ってはおけないね)
怖いもの知らずに加え、元来より面倒見のいい珊瑚のことである。躊躇う様子もなく一直線に近づくと、少女の前にしゃがみ込んで声を掛けた。
「こんばんは」
少女の肩が震える。
あまり警戒心を強めて逃げられでもしたら大変だ。珊瑚はできる限りの優しい声を心掛ける。
「こんな時間にどうしたの? 何かお手伝いできること、あるかな?」
それが奏功したのか、少女はゆっくりと顔を上げる。自然、珊瑚と視線が交錯した。
(やだ、可愛い……!)
雪のように白く、輝いているのかと錯覚する美しい肌。腰を超えるほど長く、暗闇の中ですら艶めきを主張する烏(からす)色の髪。そして、ぽかりと穴が空いたかのような漆黒の瞳。パーツ一つ一つのレベルが恐ろしいほど高く、それが黄金比で配置されている。これほどまでに美しい人間を、珊瑚はテレビや雑誌でも見たことが無かった。
少女は体を覆い隠すほど丈の長い黒のワンピースに身を包んでおり、その格好も相まって、精巧に作られた等身大のドールのようにすら思えた。
「────?」
しばし放心する珊瑚を見つめ、少女は小さく首を傾げる。それに意識を引き戻され、小さく頭を振るともう一度問いかけ直した。
「どうしてこんなところにいるの? お姉さんに話してみて」
将来は小学校の先生を目指して鋭意勉強中の身。子供との会話はお手の物だ。相対する少女も、怯える様子は見せなかった。
「────」
しかし、いくら待てども返事がない。相も変わらず首を傾けたまま固まってしまっている。
もしかして本当に人形なのかという疑念すら浮かんで来るが、そんなはずもない。ここまで来れば根比べとばかりに、珊瑚は問いかけ続けた。
「お名前は?」
「────」
「どこから来たの?」
「────」
「……好きな食べ物は?」
「────」
「…………」
根比べ終了。
暖簾に腕押し糠に釘。打っても響かぬ少女の反応の無さに、珊瑚は思わず嘆息した。
(もしかしたら、知らない人とは話しちゃいけないって徹底して教わってるのかな? 最近の子はしっかりしてるって聞くしね)
それならばいくら押し問答──問答にすらなっていないが──を続けていても仕方がない。打つ手を無くした珊瑚は、天を仰いで呟く。
「せめて迷子かどうかさえわかればな……」
すると、視界の端で何かが動いた。反応を求めていたわけでなかったため理解が遅れたが、慌てて視線を目の前の少女に戻す。
「いま、頷いた? 迷子だって……」
「────」
もう一度、少女はコクンと首肯する。
未だ声を発してはくれないが、コミュニケーションは成立した。その事実に安堵と喜びを覚え、珊瑚は小さくガッツポーズを作る。
(っと、そんな場合じゃない)
どうやらイエスかノーで返せる質問なら答えてくれるようだ。暗闇の中に一筋見えた光。珊瑚は息巻いて矢継ぎ早に質問を飛ばすが……
(いやこれ無理だわ)
少女が十回連続で首を横に振った頃、珊瑚は再び天を仰いだ。
延々と質問を繰り返して正解を導き出す、これじゃまるで『ウミガメのスープ』だ。「深夜に女の子が一人、道路の上で蹲っていました。それは何故か?」……あまりにもヒントが無さすぎる。
(とりあえずわかったのは、家出してきて迷子になったってことだけか)
逆に考えれば、それがわかっただけでも重畳だろう。そう切り替え、珊瑚は自らの目的を修正した。
「ねえ、ここを降りると駅前に交番があるの。そこでお巡りさんに相談してみようよ」
一介の大学生にできることなど高が知れている。餅は餅屋、迷子は警察。ならば自分は、せめてその一助となるよう手を差し伸べよう。
眼前に差し出された手を、少女は戸惑うように見つめている。それに対し、珊瑚は強く微笑んだ。
「大丈夫。お話が終わるまで、お姉さんも一緒にいるからさ」
しばし逡巡する様子を見せた少女だったが、その言葉に背中を押されてゆっくりと手を取った。触れ合った手のひらは驚くほどに冷たく、そして──
(なんて細い腕)
力加減を間違えば粉々に砕けてしまいそうな華奢な腕。それを引き起こすには、高価な陶器を扱うような緊張感を覚えた。
立ち上がった少女は、随分小柄な珊瑚と比べても頭一つ小さい。軽く確認したが、目立った外傷は無さそうだ。歩く分には問題ないだろう。
「よし、それじゃ──」
「何をしている」
行こうか、と続けようとしたところで、背後から野太い声が響いた。
目を遣ると、先程珊瑚が上ってきた階段から二つの影。片方はスキンヘッドで大柄の男。もう片方は大きなピアスが特徴的な細身の女性。いくら今晩が涼しいとはいえ、二人ともキッチリと黒のスーツに身を包んでいるのは、非常に違和感のある光景であった。
この子の親御さん、という訳では無いだろう。二人が纏う雰囲気は独特で、それに何より──
(敵対の意志あり、か)
相対する二人はそれを表面化しないよう上手く隠してはいるが、家柄上そういった他人の機微に敏感な珊瑚は、瞬時にそれを見抜いていた。
「えっとですね。どうやら迷子の子がいたみたいなので、交番に連れて行こうかと」
しかし珊瑚は敢えて軽い調子で答えた。通りがかりの一般人として、彼らの本心に気付かないフリを装って。
その演技に一切の疑念も抱かず、男女は声を潜めて言葉を交わす。
「間違いない、『クロ』だ」
「見りゃわかるよ。案外早く見つかってよかった」
(クロ。この子の名前か、それともそう呼ばれているだけか)
話しぶりからするに、彼らのお目当てはこの少女なのだろう。どうやら事は単純な家出では済まないようだ。
警戒を強める珊瑚に対し、スキンヘッドの男が改めて声を投げた。
「その少女は我々の連れでな、見失って困っていたところだ」
決して叫んでいるわけではないのに、遠くまではっきりと届く声。珊瑚は、自らの肌が空気の振動によって揺らされるかのような錯覚を受けた。
「今そちらに迎えに行く。また勝手にどこかへ行かないよう、そのまま手でも繋いで待っていてくれ」
そう言うと、二人は歩を進める。彼らから視線を外さないよう注意しながら、珊瑚はクロの手を一層強く握りしめた。
「ねえ、あの二人は知り合い?」
こくん、とクロは頷く。だがその震える手のひらが、彼らが望まれざる客人だということを言葉よりもはっきりと訴えていた。
(なら、それで十分)
この場で自分がすべきことは何か。それを瞬時に脳内でシミュレーションし、珊瑚はひとつ深呼吸をした。
「合図したら逃げるよ、走れるね?」
突然の指示に驚き、目を丸くするクロ。珊瑚はそれに対し、人差し指を口元に当てて優しく笑いかけた。
「たまには嫌な大人から逃げることも必要だからね」
詳しい事情は知らないが、今ここでクロを奴らに渡すわけにはいかないと、珊瑚の頭の中では強く警鐘が鳴っていた。本能的なカンとしか言いようがないが、珊瑚は今まで自らのソレに従って、悪い結果になったことは一度もなかった。
「準備はいい?」
クロもまた覚悟を決めたらしく、真剣な眼差しで首肯する。近づいてくるスーツの男女は、珊瑚たちの意図に気付いた様子はない。
「オッケー……行くよ!」
合図と共に、踵を返して駆け出す。当然背後からは制止の叫びが聞こえるが、止まるつもりは毛頭ない。
階段まで約三十メートル。下りてしまえば交番はすぐそこだ。二人組との距離を見るに、十分逃げ切れるだろうと珊瑚は踏んでいた。仮にクロが転んだりしても、いざとなれば抱えて走ればいい。それくらい体力にも自信があった。
クロを半分引っ張る形で、階段へと迫る。スピードは十分。残り十メートル、五メートル──
だが、今まさに階段へ足を掛けようとした瞬間、遠くからでも鼓膜を直接震わせるような声が轟いた。
「《水》の精霊よ、我が求めに応じよ! 篠突雨(しのつくあめ)となりその道を阻め!」
珊瑚の全身に悪寒が走る。全速力で駆ける足を反射的に急停止させた。
クロを抱き留め、つんのめるようにしながらなんとか踏み止まる。するとその鼻先をかすめるように、眼前に赤い塊が大量に降り注いだ。
いや、ひとつの塊だと思われたそれはごく小さな物体の集合体だった。金属製の階段にぶつかると、激しい音を立てながら無数の小さな穴を穿っていく。まるで散弾銃の嵐だ。あのまま走り抜けていたら、間違いなく命は無かっただろう。
珊瑚は跳ねる心臓を押さえながら、降り注ぐものたちを凝視する。
(赤い、雨?)
そう、その正体は雨。珊瑚の眼前二平方メートルという限られた範囲にだけ、局所的に鉛のように重く赤い雨が激しく打ち付けていた。
五秒ほどの後、雨は嘘のように止んだ。しかし打ち付けられた階段は蜂の巣同然。ボロボロにひしゃげ、今にも崩れ落ちそうだ。もちろん下りることなど叶わない。
振り返ると、声の主であるスキンヘッドの男が得意げな顔で胸を張っている。それを苦々しく睨みつけると、珊瑚は大きく声を張った。
「まさかあんたたち──!」
「……っのバカ! 一般人相手に何をやってんだい!」
だが、珊瑚の声は突然のハスキーボイスによって掻き消された。予想外の叱責にスキンヘッドだけでなく珊瑚も虚を突かれ、思わず口を開けて呆けてしまった。
「き、緊急事態だ、致し方なかろう! それに、こう暗い中では照準がズレても仕方あるまい!」
「だったらせめて殺傷性の無いものを発動しな! もしもの事があったらどう言い訳すりゃいいんだい!」
「し、しかし……」
「だってもヘチマも無いんだよ! ああもう、あんたは黙って見てろ!」
完全に言い負かされ、すごすごと後ろに下がるスキンヘッド。女の見た目は二十代後半でスキンヘッドより一回りほど下に見えるが、どうやら力関係は逆らしい。
ピアス女は苛立たしげに頭を掻くと、ゆっくりと珊瑚たちに近づいてきた。
「あー、脅かして悪かったね。落ち着いて話を聞いてくれるかい、別に危害を加えるつもりはないんだ」
「呆れた。人を殺しかけておいてよく言えるわね」
「ははっ、確かに。でも文句ならあのバカに言ってちょうだい」
親指を立てて背後の男を指差しつつ、もう一方の手をスーツの内ポケットに突っ込む。珊瑚が思わず身構えるが、女はニヤリと笑いながら煙草を掲げて見せた。
「そう構えないでおくれ、一服するだけさ」
パッケージから一本取り出し、火を点ける。聞き取りづらいハスキーボイスは生まれつきなのか、はたまた煙草のせいなのか。
何にせよその余裕のある仕草が、女の底知れない恐ろしさを際立たせていた。
「……色術(しきじゅつ)」
しかしその珊瑚の呟きに、今度はピアス女が瞳を丸める。驚きの表情そのままに、煙と共に感嘆の声を吐き出した。
「へえ、知ってるのかい。驚きだね」
言うと同時、ピアス女の足元のアスファルトが赤く染まった。そして、まるで海面のように不定形に蠢き、女を中心とした渦巻き模様を描き出した。
「如何にも。あたし達は色術士。精霊の加護の下に四大を操る異能者さ」
色術。この世に存在する四大──《火》《水》《風》《地》の精霊たちの力を借りて発動する、超常的な術の総称。展開される色術は、それを操る色術士によって様々な色を持ち、ある者は橙色の水術、ある者は紫色の火術と千差万別である。そういった特徴から、この異能は『色術』と呼ばれている。
神代より続く由緒ある力であり、陰陽道などもその一種であるが、現代では表立って存在を知られてはいない。
今となっては歴史の影。しかしながら、この世に蔓延る悪霊や物の怪などと人知れず戦う縁の下だ。
「驚いてるのはこっちの方よ。まさか三原色たる赤の術士とこんな場所で会うだなんて、想像もしなかった」
「こりゃ脱帽だ、そこまで知ってるとは」
光の三原色とは、赤・緑・青。それらに近ければ近いほど、色術はより強大な力を持つ。
故に色術の世界ではそれら三色の勢力が力を持ち、それぞれを束ねる宗家たちが互いに牽制し合うことで統制を保ってきた。三原色に該当する色術を操るということは、もはやそれだけで絶対的な能力の証明になるのである。
「しかしまあ、そんな赤の術士を前にして怖がる様子一つ見せないじゃないか。あんたも只者じゃないねぇ」
ピアス女は値踏みをするように珊瑚を睨め付ける。まるで蛇のように纏わりつく、気味の悪い視線。しかしそれに動じた様子もなく、珊瑚はクロを守るべく一歩前に出た。その堂々たる態度に、女はより一層目つきを鋭くする。
(できれば穏便に済ませたかったところだけど、交戦も止む無しか)
一般人ならいざ知らず、色術の存在を知るものが邪魔立てするのであれば容赦はできない。穏便に済ませられればそれに越したことはないのだが、残念ながら女には状況説明や説得をしている時間は残されていなかった。
「あたしは紅井、紅井空(あかい・そら)だ。そっちは?」
唐突に名乗りを上げる女。これに対して珊瑚は一瞬、戸惑いの表情を見せた。
色術士にとって、名を名乗るという行為は重大な意味を持つ。
一般的に色術士の能力の高さは、その家系の歴史の長さに起因する。サラブレットの配合の如く、三代、四代と代を重ねることによって、子孫たちに受け継がれた能力は完成していく。逆に言えば、その家の名を聞いたことがあるかどうかによって、術士自身の能力を図ることができるのだ。
女の問いかけには二つの意味があった。一つは、相手にも名乗らせることで、その力量を測ること。そしてもう一つは、自分が『赤の宗家の直系分家』である紅井家に属することを明かし、相手の敵意を削ぐことにあった。
いずれにせよ、自分が相手に劣るなどとは微塵も考えていない。そんな女──空に向かって、珊瑚は溜め息を吐いて見せた。
「ご丁寧にどうも。先に名乗られたんじゃ、私も返さなきゃ道理が立たないわね」
「良い心がけだ。あんたのご両親に尊敬の意を示そうじゃないか」
気乗りしない様子の珊瑚であったが、空の軽口を受け流し、姿勢のいい背筋をより一層伸ばす。そうして胸を張り、高々に名乗り返した。
「私は珊瑚。翡翠珊瑚よ」
「へえ、良い名前だね。翡翠……ひすい?」
確かめるように繰り返した口から力が抜け、火が付いたままの煙草がぽとりと落ちる。唖然とした表情を浮かべる空に対し、珊瑚は追撃を叩き込んだ。
「ええ、翡翠。緑の宗家たる翡翠の一人娘よ」
沈黙。珊瑚を除いたその場にいる全員が、あまりの事態に思考を停止させた。
目の前の少女が口にした名は簡単に信じられるものではない。だが、その場しのぎの嘘だとも考えにくかった。
名前を騙る事は、自分を偽る事。
確固たる自意識の元にのみ発現する色術を操る彼らにとって、それは愚行以外の何物でもないのだ。
「ひ、翡翠の娘だと⁉ 馬鹿な、そんなはずがない!」
「うるさいね、蘇芳(すおう)! 黙ってろって言っただろ!」
背後で喚く蘇芳を再び怒鳴りつけると、空は必死に脳を回転させた。
翡翠といえば、数千年の歴史を持つこの国で、一貫して緑の宗主を務め上げてきた色術界最古の家系。三原色の垣根を超えて羨望と尊敬を一心に集める、色術を象徴する存在と言っても過言ではない。中でも現宗主は、歴代の緑の宗主を数えても最高傑作と謳われている大術士である。
常識的に考えれば、その一人娘ともなれば相当な実力者と見て間違いない。そう、飽くまでも常識的に考えれば。
「いや、待てよ。確か翡翠のお嬢様って言ったら……」
「お察しの通り、私自身は無能力者よ。聞いたことあるでしょ、翡翠の名前を背負っただけのポンコツの話くらい」
先に説明した通り、色術士としての能力は血筋によって左右される。基本的には代を重ねるごとに強さを増し、逆もまた然りである。稀に例外はあるものの、三原色宗主レベルの術士ともなれば、その実子が色術を発現しなかったという例は歴史上確認されていない。
そう、翡翠珊瑚ただ一人を除いて。
「ははぁ。それはまたなんというか、その……」
「同情の言葉なら聞き飽きたわ。お気になさらず」
吐き捨てるように言い放つ珊瑚。そんな彼女を、空は改めて注視した。小柄ながら威風堂々とした立ち居振る舞い。能力を有さずとも術士相手に退かない気の強さ。そして、それにミスマッチな可愛らしい容姿。
さきほど珊瑚自身は卑下するようなことを言っていたが、彼女はその気高さ故、能力の如何に関わらず一定の支持を集めている。かく言う空も、なるほど噂に聞いた通りだと得心していた。
「それで、どうしてこの子を追っていたのか教えてもらえる?」
相手が怯んだ隙を逃さず、珊瑚は追及を開始する。いくら他色の術士だろうと、翡翠の存在は絶対である。その意に反することなど以ての外であった。
「それは……できないね」
しかし空はきつく唇と噛むと、はっきりと拒絶の言葉を発した。
「なんですって?」
思いもよらぬ返答に、今度は珊瑚が目を剥く。
「あなた、自分が何を言っているのかわかってるの?」
「重々承知してるよ。だけどそれだけは明かせない。なんたってこっちも、宗主の命(めい)で動いてるからね」
「宗主……朱赤の?」
赤の一族は血筋や家柄を問わず、その時代の最強の術士が代々宗主の座に就いてきた。完全実力主義をモットーとしたその体制は、他色の術士からは蟲毒(こどく)と揶揄されることもしばしばである。
誰もが虎視眈々と宗主の座を狙う弱肉強食の世界。そこにおいて無名の家から成り上がり、実に四十年以上もの間宗主として君臨するのが、現宗主の朱赤赦豪(しゅぜき・じゃごう)である。
血の気の多い赤の術士たちすら畏怖の念を持って接し、決して逆らうことのない絶対君主。そんな彼の命令ともなれば、翡翠に楯突くのも納得のいく話であった。
「だからいくら翡翠嬢と言えど、そのご質問には答えかねる」
「正気? 下手をすれば三原色間の戦争になるわよ?」
「その通り。これは不可侵の不文律を揺るがしかねない事態なんだ」
それまでどこか浮ついた印象を与えていた空だったが、一転して切れ味の鋭いナイフのような雰囲気を漂わせる。ただ事ではない空気に、さすがの珊瑚も思わず一歩引いた。
「……不可侵の不文律。数百年単位で守られてきた停戦の意志を破棄するつもり?」
「その子の扱い次第では、ね」
自身が交渉のカードとして用いた『戦争』という言葉を、相手は手段として本気で行使しようとしている。その事実に、珊瑚は自らの背中を汗が伝うのを感じた。
「わかるかい? 交渉を持ちかけてるのはそっちじゃない、あたしらなんだ。大人しくその子をこっちに渡してくれ。じゃなきゃ宗主は、翡翠に戦争を吹っ掛けることになる。これは脅しじゃないよ」
いくら宗主の娘とは言え、珊瑚自身は術士ですらない。諍いを避ける意志が相手に見られないのならば、無防備な一般人も同然である。だが、だからといってクロを簡単に渡すのは珊瑚の矜持にも反する。
汗ばむ手のひらを強く握る珊瑚。それに対し、空は追加の条件を提示した。
「まあ、タダでとは言わないさ。その子を渡す代わりに、あたしの首を刎ねるといい」
「はぁ⁉」
「自分で言うのもなんだが、あたしだって歴史ある紅井の跡取りだ。もちろん翡翠には遠く及ばないが、首の価値はそう安くないだろうさ。どうだい、これでそっちの面子も保てるだろう?」
「紅井! 何も貴様がそこまで──!」
「相手は翡翠だよ! それくらいの誠意見せなきゃいけないだろうが! ……さあ翡翠嬢、どうか」
ブラフかもしれない。だけど、そうじゃなかった時に失うものが大きすぎる。ここで自分が選択を間違えば、かつてこの国に甚大な被害をもたらした三原色間の戦争が、再び引き起こされかねないのである。
それに、首を差し出すと言った空の目。あれは覚悟を決めた者の目だ。それを無下に笑い飛ばすことなど、今の珊瑚にはできなかった。
「……ごめんね、クロ」
この話は、完全に自分一人で判断できる域を超えている。極めて冷静に状況を分析する彼女の聡明さが、彼女自身の感情を抑え込んだ。
背後で震える少女の頭を、珊瑚は優しく撫でる。
「ごめんね、何もできなくて」
夜に一人怯えている女の子を救ってやれない、自分自身の弱さを珊瑚は憎んだ。
色術士としての才能があれば、次期宗主の座を確立できていれば、この場を上手くまとめ上げることだってできたかもしれないのに。
不安に淀んだ瞳。しゃがんでそれを見つめると、小さな体をそっと抱いた。
その様子を複雑な表情で見つめながら、空は比較的穏やかな声音で語りかける。
「お渡しいただけるんだね?」
「……ええ、不本意だけど仕方ない。もちろんあなたの首も必要ないわ。でもこの件はお父様に──」
その瞬間──どくん、と。
心臓の鼓動のような音が、周囲の空間を揺らした。
「な、何……?」
突然のことに身を竦める珊瑚。するともう一つ、どくんと音が鳴った。その音の発生源は、珊瑚の腕の中にいる少女。
「……クロ? クロ、大丈夫⁉」
見るとクロの顔は青ざめ、唇は小刻みに震えている。肩を揺らして呼びかけるが、その瞳は遠く何処かを見つめるだけで反応を示さない。
どくん、どくん。鼓動は徐々に間隔を狭めていく。
「暴走だと⁉ まさか! 昨日の今日だぞ⁉」
「翡翠嬢!」
極度の緊張に身体を硬直させる蘇芳。対して空は、咄嗟に色術を展開した。
空の能力は《地》。突如としてクロの周囲のアスファルトが紅色に変色したかと思うと、そこから赤い土壁が生える。
クロの周囲を円柱状に囲った土壁。引き離された珊瑚は壁を叩くが、返ってくる反動はまるで大地を殴るよう。何の手応えもなく、ただ拳を受け止められるだけである。
「あなた、クロに何を!」
「説明してる暇は無い! 死にたくなきゃ離れな!」
紅井の跡取りにして、赤の次期宗主候補に名を連ねる空。ただでさえ四大中最硬の《地》によって作り出された壁は、並の術者であれば傷一つ付けられないほどの純度であった。
だがそれを嘲笑うように、鼓動がもう一度空気を揺らすと、赤い壁は瞬きの間もなくその姿を失った。
「時間稼ぎにもならないのかい……!」
憎々しげに呟く空。だが、その光景に最も驚いたのは珊瑚だった。
珊瑚は色術を発現しなかったとはいえ、宗家の娘として一通り以上の訓練を積み、一級品の知識を叩き込まれている。目の前で展開された《地》の術式を一目見ただけでも、紅井空という女の術士としての才能を見抜いていた。
(翡翠の術士でも、この女に肩を並べられる者は数える程しかいない)
しかしそれが跡形もなく姿を消した。打破されたのではなく、消去されたのだ。
どんなに手練な術士であろうと、既に展開された色術そのものを無かったことになどできるはずがない。そんな力は、四大のどれにも存在しないのだ。
(なら、目の前で起こったこれは何?)
珊瑚の思考が堂々巡りに陥ろうとしたその時──
パキリ。
乾いた音と共に、それは始まった。
最初は足元から響いた音が、左右から、前後から、そして頭上からも共鳴し、地面が小刻みに揺れ始める。
「じ、地震? ……っと!」
思わず後退る珊瑚の足が、段差に引っ掛かってバランスを崩す。なんとか持ち直すが、改めて足を下ろした先も収まりが悪い。
一体何が……と足元を見ると、陸橋には無数の亀裂が入っていた。それらはパキパキと不穏な音を立てながら、現在進行形で成長している。音の方向から察するに、頭上の高架線路でも同じことが起こっているようだ。
まさかとは思うが、この少女が? 色術とはまた違う異能ではあるが、その可能性は十分に考えられた。
「クロ! しっかりして!」
この現象の原因がクロであるならば、この子をどうにかして止めなくてはならない。珊瑚はその一心で逃げることも忘れ、クロに呼びかけた。
「何やってんだ、逃げろ!」
「もう駄目だ、退くぞ紅井!」
「翡翠嬢を置いてかい⁉ バカ言うんじゃない、逃げるなら一人で逃げな!」
蘇芳の静止を無視して空が駆け出す。だが、あまりにも遅すぎた。
「────っ!」
クロの喉から、小さな吐息の音が漏れる。ごく僅かな、音とも呼べないような音。
たったそれだけを合図に、巨大なハンマーで殴ったかのような衝撃が陸橋を襲う。そして一瞬のうちに陸橋が、高架線路が、その場の人工物全てがバラバラに砕け散った。
「うおおおおお⁉」
コンクリートの塊が崩壊しぶつかり合う轟音の中で、なおも蘇芳の絶叫はよく響いた。その身体は重力に引かれ、瞬く間に見えなくなっていく。そして空もまた、瓦礫と共に姿を消す。その様子を珊瑚の目はスローモーションのように映し出した。
「うっ、わ……」
断続的に続く地響きと衝撃音。
ほんの一瞬前まで存在していたはずの陸橋と高架線路は、コンクリートの塊となって地上に積み重ねられている。その下では在来線の線路がめちゃめちゃにひしゃげ、停車していた無人の車輌がぺしゃんこに押し潰されていた。
結果的にだが、珊瑚はクロに近寄ったことが吉と出た。あとほんの二十センチ後ろに立っていれば、あの塊の中で圧し潰されていただろう。
二人は無事だろうか、他に巻き込まれた人はいなかっただろうか。考えなければいけないことは沢山あるのに、あまりに現実離れした光景に、脳がスムーズに回転しない。
しばし呆然と眼下を見下ろす珊瑚であったが、どさり、と何かが崩れ落ちる音で我に返った。
「クロ!」
振り返れば、クロがヒビだらけのコンクリートの上に倒れ伏していた。慌てて肩を揺らした瞬間、珊瑚は指先を通じて、不思議な熱を感じ取った。
(なに、これ?)
冷たくも燃え滾り、全身を駆け巡る不思議な熱。それは直感的に言い表せば、感情であった。
少女の中で渦巻く思いが、言葉を介さずしてダイレクトに熱となって訴えかけてきた。
(これは……怯え? この子も恐れてるんだ、自分じゃ抑えきれない強大すぎる力を)
何かを壊すこと、誰かを傷付けてしまうこと。それを一番恐れているのは他ならないクロ本人だと、珊瑚はその熱から感じ取った。
ならばこの子を恐れてはいけない。恐れるべきはその内にある力であって、クロ本人ではない。クロの恐れを理解した今、珊瑚の中には新たな決意が生まれていた。
「大丈夫、安心して。私があなたを守ってあげるから」
例え色術の才能は無くても、彼女は守りと癒しを司る緑の宗家、翡翠の一人娘である。自らの運命に涙を流す少女を放っておくことなど、彼女の矜持に反する行いであった。
しばし慈愛の眼差しでクロの髪を撫でていた珊瑚であるが、サイレンの音に我に返ると、彼女を抱きかかえて立ち上がった。
「さて、と」
改めて周囲を見遣り、状況を確認する。
あちこちから響き渡るサイレン。野次馬によりざわめきだす眼下。見晴らしの良くなった街並みを見つめながら、珊瑚は小さく呟いた。
「逃げよう。面倒になる前に」
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