1-04【両雄、立つ】

 深夜の山中を、一人の男が歩いていた。

 漆黒のスーツに革靴。およそ山登りに適しているとは思えない格好に加え、背には幼い少女を背負っていた。

 雨はつい先程止んだが、足元は酷く泥濘んでいる。普通ならまともに歩けるような状況ではない。

 それでも男は、頭上に浮かぶ炎球(えんきゅう)の明かりを頼りに、道なき斜面をどんどん進んでいく。革靴は泥でコーティングされ、スーツの裾も汚れに汚れているが、その歩調は舗装されたアスファルトの上を行くように涼やかで、荷物など無いかのように軽やかだ。

 男──朱赤赦豪は、もうかれこれ二時間はこうして歩いていたが、そこで漸く平坦な広場のようになっている場所に出た。

 朱色の炎球が二つ、三つと数を増やしていき、やがて無数の炎がその空間を照らし出す。木々が避けるかのように開けたその中央には、見た目には何の変哲もない、成人男性ほどの直径の岩がぽつんと鎮座していた。

 朱赤は岩へ向かって歩を進めると、その眼前に少女を横たわらせる。そして自身は目を閉じて、静かに祝詞を唱え始める。

「『其は総てを砕く破壊の剣。神々に伝わる力の具現』」

 静かに言葉を紡ぐと、その身体は朱色の輝きに包まれる。

「『我が声に応え顕現せよ、神器・天叢雲(あまのむらくも)』」

 朱色の印が収縮し、周囲を激しく照らしながら形を変えていく。朱赤が触れるとその光はたちまちに弾け、後には一振りの剣が姿を現した。

 拳を十個連ねたほどの長さで、柄の部分を含め全体が金属製の諸刃。日本刀の歴史は平安時代にまで遡るとも言われているが、直刃のこれはより古い時代のものであることが見て取れた。しかしその刀身には僅かな錆びも欠けも見当たらず、触れれば腕ごと切り落とされそうな鋭さがあった。

「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)。この国に神々の時代から存在し、今日まで受け継がれる伝説の剣。何度見ても美しい……」

 朱赤は剣を掲げ、恍惚の表情で見つめる。力を象徴し体現する天叢雲剣は、彼にとってまさに究極の芸術品であった。

 しばらくそうしていた朱赤であったが、やがて剣を逆手に振り上げる。静かに見据えるその足元には、未だ眠り続けるクロ。

「やっとだ。やっと、成就される……!」

 万感の思いを込めて呟きつつ、振り下ろされる剣。その切先は迷いなく──目の前に鎮座する岩を目がけて。

「ぬうっ!」

 だが岩を穿つと思われた刹那。岩の表面に触れるか触れないかの間際で、虹色に輝く波紋がそれを阻んだ。

神器すら拒絶ほど強力な七色の結界。千年以上の昔に設置され、今なお衰えないその力は、当時結界を施した術士達の能力の高さを教えていた。

「小癪な!」

 ともすれば吹き飛ばされかねない結界の抵抗に、朱赤は両手で柄を握り直して踏み止まる。そのまま全体重を乗せ、万力を込めて剣を押し込んだ

「くっ……ぅ!」

 金属同士を高速で擦り合わせる様な甲高い音。耳を劈く結界の悲鳴と共に、その七色の揺らぎが勢いを増していく。

 やがて信じられないことに、剣先が結界を抉じ開けて岩の表面に触れる。勢いそのままに押し込み続けると、徐々に刀身が埋まっていった。

「ぬおおおぉ!」

血管が張り裂けんばかりの叫びと共に渾身の力を込める。すると遂に天叢雲剣は、その刀身全てを岩に突き立てた。

「ハァッ! ハッ、ハッ……」

 それと同時、音は止んで虹色の結界は霧散した。後に残るのは朱赤の荒い呼吸音だけ。山は静かに──不気味なほど静かに、鳥や虫の鳴き声一つなくそれを見つめていた。

 だが、しばしの静寂の後、山肌が細かく揺れ動き始めた。初めは勘違いかと思ってしまうほどだったが、その存在を主張するかのように徐々に勢いを増していった。

「おお……感じるぞ! これこそが大地に流れるマナの大河、その奔流!」

 感極まった様子で、朱赤は熱を帯びた声を上げる。

まるで地の奥底から何かが沸き上がってくるような揺れ。地響きのような音を伴いながら急速に加速するそれは、足元まで到達すると嘘のようにぴたりと動きを止めた。それを確認した朱赤は、ゆっくりと天叢雲剣を引き抜く。

その剣先を追うように──どろり、と。

岩にぽかりと空いた穴の中から何かが零れ出した。粘度の高いその真っ黒な液体は、こぽこぽと音を立てながら岩の表面を伝い落ちていく。

「やはり、濃度が高くなればマナは大気に混ざらず凝固する。そしてその色は黒! 仮説の通りだ!」

マナの塊は地表に広がり、やがてクロの身体に触れる。すると扇状に広がっていたマナ達は、スポンジに吸われる水のように一斉にクロへと向かう。マナの流れは、岩からクロの身体へと一直線に形成された。

「素晴らしい、遂にこの時が来た。我が悲願が今夜果たされるのだ……!」

黒がマナを引き寄せるのか、はたまたマナが自ら黒の元へ集うのか。いずれにせよ、生身で触れれば全身の術式回路を焼き尽くされかねないほどの濃度のマナは、クロの身体に見る見るうちに吸収されていく。

しかしそれも、容易く、という訳にはいかないらしい。苦悶の表情を浮かべたクロは、小さく呻き声を上げながら固く閉ざされていた目を開いた。

「目覚めたか、茜の娘よ」

霞みがかる視界の中に、自分を見下ろす朱赤の姿を捉えると、クロは驚愕に目を剥きつつ逃げ出そうとする。しかし身体は重く、言うことを聞かない。それだけでなく、四肢は熱を孕み、関節は日に焼けた時のような痛みを持っていた。

「あの時のように逃げることは出来んぞ。もう儀式は始まっている」

その言葉に、クロは自分の置かれている状況の全てを察した。背後にある岩を、自分の身体に染みていくマナの塊を、恐怖に震える瞳で見つめた。

それでも精一杯の抵抗のつもりか、朱赤を憎々しげに睨みつける。だがそんなものは、朱赤にとってはそよ風ほどの意味も持たなかった。

「貴様が逃げ出してから丁度一週間か。まったく、手間をかけさせてくれる。お陰で施設は壊滅。術士も複数死んだ。どうしてくれる?」

「────っ⁉」

 極めて冷たく放たれた言葉。冷水に打たれたような衝撃と共に、クロの脳裏にはあの悪夢の映像がはっきりと映し出された。

「なんだその顔は。まさかあれだけの事をしておいて、人が死んでいないとでも思っていたのか? まったく、あんな無駄な抵抗をしたせいで、一週間もお預けを食らう羽目になってしまったではないか」

一週間前。あの日朱赤は、クロを施設から連れ出すよう指示を出した。迎えの術士たちを前にクロはその意図を悟り、必死に抗ったものの、その細腕では簡単に組み伏せられてしまった。

だがその時、クロの精神は限界に達した。抑えられないストレスはそのまま黒き力として解き放たれ、そこ場に存在するあらゆるモノを、『モノだったモノ』に変えてしまった。そして勿論、その場に居合わせた術士達は……。

「後先考えずに逃げ出して、その結果がこれだ。何が変わった、何が変えられた? 貴様はこの一週間、ただ悪戯に破壊し、そして殺しただけではないか」

目を背らしたかった現実を、眼前に突き付けられる。自分はこのたった一週間の内に、三度もあの力の暴走を起こし、多くのモノを、命を奪った。そしてその矛先は、自分を守ると言ってくれたあの娘にさえ向いたのである。

「結局貴様は己の身可愛さに、多くの命を奪ったのだ。その大罪は、決して許されるものではなかろう」

「────」

クロはもう朱赤を睨むこともなく、地に顔を伏せた。力なく横たわるその身体を、吸収しきれないマナが膜となって包み込み始めた。

「さらばだ忌み子よ。死してその罪、償うがいい」

クロの耳に、もはや朱赤の言葉は届いていない。

せめて最後に、とクロは願った。

せめて最後に一度だけ、あの子にしっかりと謝っておきたかった──

「……意識を失ったか」

 マナの膜はさらに体積を大きくし、クロの身体をすっぽりと覆った。今なお成長し続けるその姿は、まるで巨大な繭だ。

 揺らめく朱色の炎に妖しく照らされる繭。それを眺めながら、朱赤は昏い笑みをこぼした。

「クッ、ククク。……さあ仕上げだ。我こそが今、黒を手中に収めるのだ!」


「へえ、興味深い話してるじゃない」


恍惚の表情で独り言ちていた朱赤だったが、突然響いた声に驚愕し、咄嗟に戦闘態勢を取る。

 いくら集中を乱していたとはいえ、気配を全く感じ取ることができなかった。百戦錬磨、現代最強を自負する朱赤にとって、それはあまりにも衝撃的だった。

(どこだ? ……っ!)

 全方位へ最大限の警戒を行っていると、突如として頭上に二つの気配が現れた。空気中に伝わる光や熱を遮断し、その姿や気配を消す光学迷彩が解かれたのだ。それは、《風》の術士の中でも一握りの者にしか再現できない手法であった。

 現代においてそんなことができる術士は、朱赤の知る限り一人しか存在しない。

見上げる影はゆっくりと降下すると、悠然と地に舞い降りた。

「ったく、虫除けくらい持ってくるんだった。明日酷いことになってるわよ、これ」

肩口に揃えた髪に、篝火の中で一層映える浅葱色のパーカー。そして大地をしっかりと踏みしめた、堂々とした立ち居姿。軽口を叩きながらも、大きな瞳は力強く朱赤を見上げた。

そしてその横には、ふわりと宙に浮かぶ少女。

「こんな夜分に申し訳ありません。ですがどうかお許しを。宗主、お話がありますの」

 ワインレッドに黒を差した、それでいてゴシックと呼ぶには落ち着いたクラシックロリータ。緩く毛先のウェーブした栗色の毛。そして、右目を覆う眼帯。

「貴様ら……」

憎々しげに、朱赤は彼女らを睨み付ける。

 翡翠珊瑚。そして、緋乃彩花。決して道を同じくしないはずの二人が、共に朱赤の前に立ち塞がった。




 話は、朱赤が出て行った直後、その病室に遡る。

通夜のような雰囲気に包まれていた部屋では、潤と珊瑚がそれぞれ自らの行動を自問し、自戒している最中であった。

「珊瑚、すまなかったな……」

 潤自身、宗主として最善の判断だったという自負はあった。それでもクロを見捨てたことに変わりはない。苦渋の選択だったとは言え、悔やんでも悔やみきれないものだった。

「ううん、お父様は何も悪くないわ。むしろ巻き込んでしまってごめんなさい」

「巻き込むって……」

「だってそうでしょう? 私がクロに変なちょっかいを出さなければ、陸橋での暴走は起こらなかった。お父様を頼って屋敷に帰らなければ彩花は襲って来なかっただろうし、若葉の屋敷を失ったり、お父様をこんな目に合わせたりすることも無かった。全部、私のせいなのよ」

 偉そうに『守る』だなんて言って、結局は何もできなかった。それどころか周りの人間に頼るばかりで、その人達にも迷惑をかけてしまったのだ。

「私、恥ずかしい。何もできないくせに調子に乗って、自分のちっぽけさを何にもわかってなかった」

 ソファの上で立てた膝に顔を埋め、小さく嗚咽を漏らす。潤はそんな珊瑚を悲痛な面持ちで眺めたが、しばしの沈黙の後、優しく声を掛けた。

「珊瑚、それは結果論だ。お前は立派だったよ」

「世の中は全て結果論よ。結果が歴史になり、歴史が正義になる。そうでしょう?」

失意にある珊瑚は、父の言葉も聞き入れない。しかしこの世を悲観したかのような珊瑚の物言いを、潤は鋭く窘める。

「それは違う。あくまでも経過が結果を導くんだ。例え成就しなかった願いでも、その為に注がれた熱は消えずに残る。そして次の者に伝導していく」

「綺麗事よ」

「果たしてそうかな? それに、歴史は時代を経ても変わらないが、正義は形を変える。悪と断じられた人物が後に再評価されるなんてこと、割とある話だぜ」

「……お父様の話は、たまに難しすぎる」

「そりゃそうだ、お前はまだ十九なんだから。無知でも無力でも当たり前なんだよ」

受け取り方によっては突き放すようにも取れる言葉だったが、それが珊瑚の胸には激励としてしかと刻まれた。前を向け、まだまだ成長途中だ、父は自分にそう言っているのだと。

「それに、黒のお嬢ちゃんの事なら後は俺に任せてくれ。瑠璃家と協力して、必ずお天道様の下で自由にしてやるから」

「お父様……」

クロは一時的に朱赤の手に渡ってしまったが、瑠璃家の裁定次第では赤の管轄下から保護することもできる。そうすれば、また笑顔で再開することもできるだろう。

 まだ何も終わっていない、始まったばかりなのだ。

「そうよね、きっとお父様になら──」

「出来ますでしょうか、そのような事が」

 しかし、闇中に光を見出したかに思えた珊瑚を、冷たい声が引き戻した。

病室のドアが静かに開かれる。そうして、およそこの場にはいるはずのない人物が入室してきた。

「おや、緋姫ちゃんじゃねえか」

「その名で……まあ、いいですわ」

 珊瑚との会話の末、怒りを抱えて立ち去ったはずの彩花は、しかしどこか生気のない顔で再びこの病院に舞い戻ったのである。

「彩花、どうして……?」

「適当に『火急の用だ』とお伝えしたら、院長先生直々にお通し頂けましたの。緑の方々って、全員底無しのお人好しですの?」

言いながら車椅子を進める彩花。先程の言い合いのこともあり、珊瑚は思わず身構える。

「そうじゃなくて、私が聞いてるのは──」

「理由の方、でしょう?」

眼前まで来ると、彩花は珊瑚をじっと見上げる。いつもの挑発的なものとも攻撃的なものとも違う、まっすぐにこちらを伺う瞳。その意図するところが読めず、珊瑚は一歩後ずさった。

「な、何?」

「……明日、正式に仇討ちの機会が設けられるはずでしたの。アレはもう用済みだと、宗主はそう仰っていましたわ」

「仇討ちって、そんな!」

 仇討ちなど、現在の法律ではもちろん認められたものではない。しかし古い慣習が未だに色濃く残る色術界においては、非常に稀ではあるが聞かない話ではなかった。

 それをまことしやかに伝えられれば焦るのも無理ないが、しかしその口ぶりに違和感を感じた珊瑚は、尻すぼみに言葉を続けた。

「……はず、だった?」

「ええ。そのはずだったんですけれども、ね」

 ふいと目を逸らした彩花は、暗い窓ガラスに映る自らの顔を見つめる。

「今、宗主の後を尾けておりますの。《風》の精霊たちに頼んで」

「……どういうこと?」

 その言葉には返さない彩花であったが、実のところ彼女をそんな行動に駆り立てたのは、間違いなく目の前にいる珊瑚の一言であった。

『あんた、朱赤の言いなりのままでいいの?』

 それは、それまで彩花の中で揺ぎ無かった宗主への信頼に、僅かばかりの疑いを生んだ。ほんの些細な亀裂だが、しかし無視することはできない歪みだった。

事前の予定では、彩花はクロの居場所を報告した後、一足早く帰還する手筈になっていた。後は仇討ちに備え、朱赤がクロを連れ帰るのを待てばそれでよかった。

『信じて待てばいい。宗主を疑う必要などどこにもない』

しかし、いくら自分にそう言い聞かせようとも不安は拭えない。胸に引っかかる棘は、そう簡単には外れてくれない。

『……確認するだけ。決して宗主を疑っているわけではないですわ』

 宗主は自分に真実だけを伝えてくれているはず。そう信じるには、クロを連れ出して宗家へと戻るのを見届ければそれで良かった。

 自分に言い聞かせるための──自分の信じたいものを信じるための──賭けにもならない賭け。そのはずだった。

「どうやら宗主は、宗家へお戻りになるつもりは無いようです」

 しかし、その期待は裏切られた。朱赤は赤の宗家とは全く異なる方向へ車を向けさせたのだ。今この瞬間も《風》の精霊は彼を追っているが、ルートを修正する様子は見られない。

 彩花は騙されたのだ。一世一代の人生を懸けた復讐を、その約束をダシにされのだと、その時になってやっと気付いたのだ。

「貴女、仰いましたよね。わたくしは利用されているだけだと、騙されていると」

「……ええ、言ったわ」

「確かに宗主は今、わたくしに嘘を吐いております。もしかしたらこれまでの全てが、アレが私を廃そうと近付いたというのも、嘘だったかもしれない。だけどわたくしは……それを認めるのが、怖い」

 弱々しい声。こんな彩花の姿を、果たして想像できただろうか。

(もしかしたら『狒々』は、自分の弱さを隠すための仮面だったのかもしれない)

幼少期に唯一心を許した友人に裏切られ、愛する両親さえも失った。心の支えを一気に無くした彼女は、朱赤の言葉に生きる意味を見出したのだろう。そして弱さを捨てようと、強くあろうとした結果、心の中に狒々が生まれた。

「教えてください。……わたくしは、一体どうすればいいのでしょうか」

 珊瑚は必死に、目の前の震える少女に向ける言葉を探した。だが、どれも薄っぺらなその場しのぎのものに感じられてしまう。

自分はどうすればいい。こんな風に震える女の子を前にして、一体何を言えば──

「すまん、二人とも。水を刺すようで悪いが、ちょっと待ってくれ」

 すると、沈痛な面持ちで向かい合う二人に、潤が横槍を入れた。

「緋姫ちゃん、今も朱赤を追ってるんだよな? どこに向かっているか教えてもらえないか」

「ええと……一旦北へルートを取ってから、今は東へ。それがどうかしまして?」

「北東……まさか!」

潤は慌てた様子で、枕元にあったタブレット端末を起動する。地図を開くと、彩花に確認しながら道路をなぞり、朱赤の向かうルートを辿った。

 その指先がとある場所を指し示したとき、潤は驚愕に染まった声を絞り出した。

「おいおい、朱赤は一体何をおっ始める気だ?」

「どうしたの? 何かあった?」

「……大龍穴だ」

「だいりゅうけつ?」

聞き慣れない言葉に疑問符を浮かべる珊瑚であったが、その隣の彩花は大袈裟なほどの反応を示した

「大龍穴⁉ そんなもの実在しておりまして⁉」

「な、何なのよ。その大龍穴って」

「ご存知ありませんの⁉ まさか、龍穴すら知らないなんて仰いませんわよね⁉」

「なっ! さすがにそれくらい知ってるわよ! 龍脈からマナが大量に地上へと溢れ出す地。それが龍穴でしょ!」

色術は大気に溢れるマナを用いて展開するものだが、そもそもマナとは万物のエネルギー源となる存在である。マナは本来、大地の奥底で大河を形成しているが、そのマナが大気中に充満し続けているのは、龍穴を通じて際限なく大気中に湧き出ているからである。

 龍穴は各地に点在し、それらは色術士たちにとって修行や療養に用いられる神聖なる場所でもある。

その珊瑚の答えを継いで、潤が続く。

「その中でも大龍穴は、龍脈にほど近く、通常の龍穴とは比べようもない量のマナを放出する地のことだ。しかし、薬も過ぎれば毒。強大なマナは時折暴れて災害を引き起こし、それが原因で太古の時代に封じられたらしい」

 なるほど大龍穴とはその名の通りか、などと納得する珊瑚を他所に、彩花は神妙な面持ちで頬に手をやった。

「しかし大龍穴など、迷信だと考えておりましたが……」

「それも当然だろう。今は大龍穴の明確な所在なんぞ、各宗家の宗主と存命中の先代たちくらいしか知らないはずだ。俺だって年に一度の参拝くらいでしか立ち寄らないぞ」

「そこに朱赤が? 何のために」

「それは俺にもわからん。だが、黒のお嬢ちゃんを連れて向かったということは……」

「クロの力を使って、封印を解こうとしている?」

潤は珊瑚の問いに首を振る。

「いや、封印を解くだけなら、神器を用いれば朱赤一人でも不可能じゃない。もっと何か恐ろしいことを企んでるはずだ。こうしちゃいられねえ──っ!」

急いでベッドから立ち上がろうとした潤だが、身体に蓄積したダメージは癒えていない。脚に力が入らずバランスを崩したところを、危うく珊瑚に支えられた。

「お父様!」

「クソッ、こんな時に動けなくてどうするんだよ。今こそ翡翠の宗主としての役目を果たさなきゃならん時だろ!」

言うことを聞かない身体に苛立ち、潤はベッドに拳を振り下ろす。しかしそれすらも、普段の潤とは比べようもないほどに弱々しいものだった。

「お父様……」

「……すまねえ珊瑚、つい熱くなっちまった。朱赤については扇たちに追跡を命じる。お前はもう家に帰って休め。緋姫ちゃんも、報告感謝する」

 冷静さを取り繕い、潤は精一杯笑顔を作って見せた。こんなに覇気のない父の笑顔を見るのは、珊瑚にとっては人生で二度目だった。

 諦められないのに、受け入れなくてはいけない。そんな葛藤と戦っている顔。珊瑚はそんな父の顔を見るのが、この上なく嫌いだった。

「……嫌よ」

 そしてそれを黙って見過ごせるほど、珊瑚は大人にはなりきれてはかった。

「珊瑚?」

「嫌。その言葉には従えない」

 真っ直ぐに潤の目を見据え、はっきりと拒絶を示す。なんだかんだと父の言う事には聞き分けの良い珊瑚にしては、それは非常に珍しいことだった。

「そんなワガママ言ってる場合じゃ──」

「ワガママなんかじゃない。第一、扇を向かわせたら翡翠の守りはどうするの? 朱赤の本当の狙いは翡翠を潰すことで、その為の誘いの可能性だってあるわけでしょ」

「……いや、さすがにそれは飛躍しすぎだろう」

「どうして? 彩花の言う事なんて全部デタラメで、本当はグルかもしれない。大龍穴がどうとか言われるより、そっちの方がよっぽど現実的よ」

「テメェ何を──!」

「だから、私が行くわ」

 突拍子もない提案に、潤と彩花は面食らってしまう。しかし珊瑚の表情は真剣そのものだった。

「何を……」

「お爺様と曾(ひい)お爺様もこっちに向かっている頃でしょう? だけど到着にはまだ時間がかかるし、その間宗家は手薄になる。だから扇は二人が到着するまで、宗主代行として術士の指揮に充てる。宗主が臥せっている今は何が起こるのかわからないんだから、とにかく守りを固めるべきよ」

 珊瑚が朱赤を追うと聞いた時、潤は娘が感情任せに血迷ったかと思ったが、様子を見るにどうやらそうでもないらしい。むしろ自分よりも状況を俯瞰して、そして柔軟に視ているのだと察した。

「……確かにお前の言う通りかもしれん。だけどお前が行ってどうなるんだ。相手は赤の宗主だぞ?」

「大丈夫、彩花を連れていくから」

「はァ?」

 突然の指名に驚く彩花。珊瑚はそんな彼女に向き直り、じっとその目を見つめた。

「ついて来て。そして一緒に真実を確かめましょう。その答えがあんたの望むものでもそうでなくても、今みたいに中途半端なままよりずっと良いわ」

「いえ、そうは仰いましても……」

「怖い?」

「誰が……っ!」

 試すような言葉に食って掛かろうとする彩花だが、珊瑚の真っ直ぐな目に怯んでしまう。いつものような買い言葉を口にできず、遂には俯いてしまった。

「……先程も申し上げましたでしょう、怖いですわよ。もしも貴女の言う通りだったら、わたくしのこれまでの人生は無駄だったことになる。だとしたら、わたくしは──」

 彩花が初めて自ら吐露した、心の奥底にあるもの。両親を失った孤独、それを誤魔化すために縋った『仇討ち』を、例え偽りでも信じていたいという弱さがそこにはあった。

「無駄なんかじゃない」

 だが、珊瑚はその嘆きを一刀に伏す。

「え……?」

「無駄なんかじゃないわ。あんたの力は生まれ持ったものだけじゃない、死に物狂いの鍛錬をしてきたから、そこまでの域に達したんでしょ? もしも朱赤の言うことが正しいと判断したら、それを使って復讐でもなんでもするがいいわ。だけど、朱赤が嘘吐きの最低野郎だった時は──」

「その時は?」

「ぶん殴れ」

 シュッ、と珊瑚は虚空に向かってジャブを放つ。

「あんたを騙したクソ野郎をぎったんぎったんにしてやりなさい。あんたの力、その為に存分に発揮するのよ」

 しばし部屋の中に静寂が満ちた。

 彩花はおろか潤までもが呆気に取られ、あんぐりと口を開けている。

「……ふふ」

 どれだけそうしていただろうか。何時間にも感じた一瞬の後、彩花は堪え切れずに噴き出した。

「彩花?」

「ふっ、うふふ。うふふふふふふふ! あ、貴女、馬鹿じゃ……ふふふっ!」

「はぁ⁉ 誰がバカだ! こっちは真面目な話してやってんのよ!」

「はぁっはっはっはっは! こりゃ傑作だ!」

「お父様まで!」

まさに抱腹絶倒。その中心にいる珊瑚だけが、訳が分からず混乱していた。それもそのはず、彼女は至って大真面目そのもので、冗談を言っているつもりなど微塵もない。

「ぎ、ぎったんぎったんって……いつの時代ですの……ふふっ」

「いつまで笑ってんのよ!」

「ふふっ……はー、お腹が痛いですわ。こんなに笑ったの何時ぶりかしら」

「はいはい、そりゃ良うございました。……まったく」

いつもの不気味さを感じさせない、純粋な笑い声。初めて聞く彩花のそれに、珊瑚も毒気を抜かれて微笑みを浮かべる。

 しばらくの後、やっと笑いが収まると、彩花は目尻に浮かんだ涙を拭う。

「確認ですが、宗主のお言葉に嘘が無いと断じた時は、わたくしは迷いなくアレを殺しますわよ」

「試みるのは自由ってだけの話よ。その時は、私も全力で止めるから」

「はッ! 無能力のお嬢サマに何ができるのか、見物でございますわね!」

彩花はすっかりいつもの調子に戻った。もう、その目に迷いは無い。

「それによく考えれば、お父様とお母様がアレに殺されたことには違いありません。故意であろうとなかろうと、仇討ちそのものが必要無くなるわけではありませんわね」

「ちょっと、それとこれとは──!」

「まあ、その時は気が済むまでぶん殴ってやりましょう。……その後のことは、その時に決めますわ」

ぶっきらぼうに言い放つ彩花。だがそこには、クロに対する心境の変化がありありと現れていた。

「……はぁ。あんたって奴は」

「宗主相手のボディガードを引き受けるのです、それくらいの権利は与えられるべきでは?」

「ま、そうかもね」

珊瑚はゆっくりと、彩花に向かって右手を差し出した。

「交渉成立。しっかり私を守りなさいよ、彩花」

「貴女こそ、くれぐれも出過ぎた真似をして手を煩わせないでくださいませ。……珊瑚」

最後に小さく、珊瑚の名を呼ぶ彩花。それもまた、二人にとって初めての事だった。

 珊瑚はそれに気付くと、なんとも致しがたいむず痒さに襲われた。口元が緩み、頬が熱くなるのを感じる。だが、決して不快ではない。

「ねえ、彩花」

「……何ですの、珊瑚」

またも照れくさそうに自分の名を呼ぶ彩花に対し、珊瑚は満面の笑みを浮かべて言い放った。

「年下なんだから『さん』を付けなさい」

「テメェやっぱ殺しますわ」




「よもや、尾けて来るとはな」

時は戻り、大龍穴にて対峙する三名。しばしの睨み合いの末に先に口を開いたのは朱赤であった。

「四大で最も探査と追跡に長けた《風》とは言え、ここまで割り出すのは大したものだ。しかし貴様には宗家への帰還を命じたはずだぞ」

蛇睨みとはまさにこの事、視線に晒された彩花は身動ぎ一つすることができずにいる。

「それは……」

「部下の命令違反は咎めるけど、自分の急な計画変更は棚に上げるってワケ? 聞いてた通りの厚顔無恥っぷりね、もはや賞賛に値するわ」

気圧される彩花を背に庇うと、たっぷりと皮肉を返す。そんな珊瑚を、朱赤は不快そうに眉を顰めて一瞥した。

「翡翠の娘か。他色の宗家の人間まで連れて来るとは、気でも狂ったか?」

「お生憎様。連れて来たのは私で、ついて来たのがこいつ。その辺の上下関係を間違えないでもらいたいわね」

不敵な笑みを浮かべる珊瑚。翡翠の名に恥じない堂々とした振る舞いだったが、その実、精一杯の虚勢を張っているだけでもあった。

(まずいまずいまずい! 何なのよこのプレッシャーは!)

 父の陰に隠れてなお凍り付いてしまったほどの重圧を、珊瑚は今真正面から受け止めている。必死に取り繕ってはいるが、足の震えを誤魔化せている自身はなかった。

だけどここまで来て怯むわけにはいかない。確かめなければならないことが山ほどあるのだ。

「朱赤赦豪、あんたの企みは《風》の精霊を通じて聞かせてもらったわ。今すぐ儀式とやらを中断して、その子を解放しなさい」

 指差す先の黒い繭は、既に朱赤の腰辺りの高さにまで成長している。一定の距離がありながら、無能力者の珊瑚ですら繭の持つ莫大なエネルギーを肌で感じていた。

 それほどのものを全身に直接浴びているのだ。早く救い出さなければ、クロの身が危ない。

「その子の処遇は瑠璃家の裁定待ちのはずよ! 翡翠家宗主との約束を反故にすることは、その娘である私が許さないわ!」

 胸を張って言い放つ姿は、宗家の人間としての威厳を十分に感じさせるものである。窮地にあってこそ真価を発揮する、珊瑚の心の強さの表れでもあった。

 しかし朱赤は微動だにせず、その視線を受け流す。むしろその身から溢れる気を更に鋭いものにした。

「知った事ではない」

「何ですって……?」

「口約束など、相手を殺してしまえば全て無効だ。瑠璃に関しても同じ。裁定など、絶対的な力を振りかざしてしまえば何の意味も持たぬ」

 微塵も隠そうとしない剥き出しの殺気に、珊瑚の全身が総毛立った。

「……本気で戦争を起こすつもりなの?」

「戦争など起きんさ。あるのは、黒による一方的な蹂躙だ」

「これは、それを手に入れる為の儀式ってこと? 本気でそんなことできると思っているの?」

「無論。その為に我ら赤の宗主たちは五百年にも及ぶ研究を積み重ねてきたのだ」

 朱赤は天叢雲剣の切っ先を繭へと向け、謡うように語り始める。

「仮説、実験、検証、考察。歴々の宗主に引き継がれて繰り返され、遂に先々代は完璧と言える理論を組み立てた。だが所詮は理屈、実際に成さねば証明できんが、黒はそう易々と生まれるものではない。机上の空論のまま実に百年以上の月日が流れ、漸く此奴が黒を発現した」

繭に囚われたクロ。誰にも愛されず、名前すら奪われた哀しき少女は、望みもしない力を手に入れてしまったせいで、このような悲劇に巻き込まれた。

「あれから実に十四年。現代に舞い降りた黒の力は遂に成熟を迎えた。これは天啓だ。天が我に使命を果たせと言っている。歴代宗主の悲願、【根底】への接続を!」

「【根底】ですって⁉」

高々に宣言する朱赤に、珊瑚が困惑の声を上げた。その反応に気を良くしてか、朱赤は饒舌に語りを続ける。

「そう、【根底】。龍穴を辿り龍脈を遡った先にあるという、マナの源流。地球という一つの生命体の心臓であり脳であると言われるそれに、今こそ我が──っ!」

 そこまで言いかけ、朱赤は突然咳き込んだ。単純に咽たのとは違う、重く水分を含んだ音。口元を覆った指の隙間から、鮮血が漏れ出た。

 尋常な量の吐血ではない。恐らくは病魔が朱赤の身体を蝕んでいるのだろう。それも手遅れなほどに根深く。

「あんた、身体が……」

「どれだけ肉体を鍛え精神を研ぎ澄ませても、所詮は人の身。老いと病の進行は、遅らせることはできても避けられはせん。恐ろしい。これだけの力を手にしてなお、輪廻に組み込まれざるを得ない運命が酷く恐ろしい……」

 自分の言葉を噛み締めるように、朱赤は血に塗れた手のひらをぐっと握り込んだ。

「だが! それも今日で終わりだ! 肉体という殻を捨て、我は永遠となる! 我という存在は、この星の意思そのものに昇華されるのだ!」

朱赤の瞳には、もう珊瑚も彩花も、クロを包んだ繭すらも映っていない。狂気の瞳が映すのは、間もなく訪れると信じて止まない成就の時ばかりである。

そう、朱赤は狂っているのだ。己の願望の為に人の命を奪うことに、一片の躊躇いも後悔も無い。そんな獣の姿を瞳に移した珊瑚は、恐怖に震えていたはずの自らを、別の感情が満たしていくのを感じた。

(可哀想な男。心を得ることなく、力を求めたがらんどう)

それは、深い憐れみ。怒りでも悲しみでもなく、珊瑚は心の底から朱赤赦豪という男を下に見た。

「……その為に」

朱赤の演説を聞き終えると、珊瑚の背に隠れていた彩花がか細い声を発した。

「その為に、わたくしを利用しましたの? この儀式の時を磐石に迎えるための、その駒として」

そう問いながらもなお、彼女は否定の言葉を待っていた。

幼くして両親を亡くした彩花にとって、朱赤は親代わりとも言える存在だった。団欒の時を過ごしたことは無いが、いつでもその大きく頼もしい背中を見つめ、追いかけてきた。そんな義父の裏切りを、信じたいはずもない。

だが願いも虚しく、朱赤は下劣な笑みを浮かべた。

「漸く気付いたか、馬鹿な小娘め」

 ぎしりと、彩花の何かが軋みを上げた。

「貴様がすっかり騙されてくれたお陰で、大きな弊害無くこの日を迎えられたぞ」

 視界が歪み、全身の血液が凍ったかのように冷めていく。しかしそれに反比例するように、丹田──人間が気を作り出す身体の中心部──から沸騰するような熱を感じた。湧き出る気は瞬時に全身に行き渡り、冷たい身体を熱く燃やした。

「あァ……そうかい。それじゃァもう何も気にする必要はありませんわね」

 内側から溢れた気は、揺らめく緋色の光となって彩花の身体を輝かせる。

 右目の眼帯を乱暴に引き千切る。そこに埋め込まれた水晶の義眼が、彼女の気を幾重にも反射して深く暗い赤に染まる。

彩花の中に棲まう自分であって自分でないものが、それを生み出すきっかけとなった男に向かって牙を向いた。

「ふん。野蛮な犬だとは思っていたが、遂に飼い主に噛み付くか。駄犬はどう躾けても駄犬という訳だな」

「犬は飼い主に似ると言いますからねェ。自業自得ではァ?」

 皮肉たっぷりの彩花の返しに、朱赤はこめかみに青筋を浮かべ、きつく上下の歯を噛み締める。対する彩花も褪めた笑顔こそ浮かべているが、その瞳孔は怒りに開き切っている。

 片や、強大な力を求め続けた赤の当代最強。片や、生まれながらにして強大な力を手にした稀代の天才。対極にある二つの力が、今まさにぶつかり合おうとしている。

 一触即発の空気。しばしの睨み合いの後、朱赤が細い息を吐いた。

「……良いだろう。前座としては面白い余興だ」

 朱色の炎を帯びた天叢雲剣を正眼に構える。程よく全身を脱力させた、受けるも攻めるも自在の『赦豪流』。敵対した時の恐ろしさを、傍で見てきた彩花は誰よりも理解している。

だが、引くつもりは毛頭ない。

(来て──)

 彩花は軽く瞼を閉じて呼びかけた。思念を聞き入れた精霊たちが呼応し、彩花を中心にして風の渦を作る。それは色術によって動かしたものではなく、精霊たち自身が踊るように飛び回ることによって発生する風の流れ。

 色術士の間では、『精霊を使役する』という表現が使われることが多い。しかし彩花はこれまで一度も──怒りに身を任せている時ですらも──精霊に対して命令や強要をしたことがない。彼女が呼びかければ、それだけで精霊たちは喜んで力を貸す。生まれながらにしての色術士である彼女にとって、精霊とは尊敬すべき協力者であって、従えるべき奴隷ではないのだ。

 そんな選ばれし者のみが体現する超常現象を、朱赤は努めて感情を殺した目で見つめる。

刹那、対峙する両者の気が爆発的に膨れ上がった。

「うわっ!」

 襲い来る衝撃波。小柄な珊瑚を軽く吹き飛ばしてしまうほどのそれは、しかし彼女の身体をすっぽりと覆う半円状の障壁に阻まれた。

「気を解放しただけでこれって……あんたらホントにバケモノ?」

「黙って下がりなさいな、珊瑚。くれぐれも『お守り』の範囲から出るんじゃねェですわよ」

 珊瑚は無言で首肯し、胸元に忍ばせた護符を強く握った。

珊瑚が潤から預かったそれは、潤が何年もの間念を込め続けた一級品。例え三原色の宗主であろうと、その障壁に色術を通すことは容易ではない。

「彩花、たぶん時間が無い。やるならちゃっちゃとやっちゃってよね」

 そう言う珊瑚の視界の端では、繭はさらにその体積を増している。儀式を阻止するため、そして何よりクロを無事に救うためには、一分一秒を争う状況であった。

「心配しねェでも心得てますわよ。一発ぶん殴らなくちゃならねェんです、意地でも救い出しますわ。その為にもあの男を──」


「──ぎったんぎったんにしてやりますわ」

「──ぎったんぎったんにしてやりなさい」


 大きなうねりの中、赤の二雄は射殺すような眼光を交わす。お互いに機を伺い、必殺の間合いを探る心理戦。

永遠にも感じる一瞬の後、煌々と周囲を照らしていた炎が突然その姿を消した。

「っ⁉」

 視界がブラックアウトし、視力による情報はゼロになる。その隙に、朱赤は神速で彩花との間合いを詰めた。

 そのまま天叢雲剣により彩花の喉元に鋭い突きを放つ。例え暗闇の中でなくとも、その一連の動きを視認するのは難しかったであろう。

 しかしその達人の一撃を、彩花は上空へと飛び上がることで回避した。風術士である彼女にとって、視力を奪われるのは視覚情報を奪われることとイコールではない。精霊たちとの交感により、彼女はより多角的に広範囲の状況を把握できる。予見していた突撃ならば、躱すことは容易だ。

「っらァ!」

 間髪入れず、朱赤の背中目掛けて風の刃を叩き込む。しかし全力のはずのそれは、朱色の炎によって燃やし尽くされた。

「破っ!」

 突き出した剣を、朱赤は上空目掛けて振るう。飛び出す炎球はプラズマを纏い、彩花を襲った。

 障壁を展開していても、正面からまともに受けては一溜まりもない。急速に旋回して避ける彩花に対し、朱赤は次々に炎球を放つ。

「こっの、調子に乗るんじゃァ……ねェ!」

 それらを悉く躱しながら、彩花も風の刃を出現させて朱赤目がけて撃ち放つが、彼の身体を覆う炎の障壁に触れた傍から霧散していく。

 決して彩花が術士として劣っているのではない。元より四大最高火力の《火》に対して、最低威力の《風》が正面からぶつかり合うのは相性が悪い。それに加え、両者には決定的な差があった。

(予想はしておりましたけど、神器の威力が凄まじいですわねェ!)

 神器は術士の展開する色術を何倍にも増幅させる力を持つ。彩花が朱赤の技に対抗するには、単純に相手の数倍の精神力が必要なのだ。

(一日に二人の神器持ちとやり合う術士なんて、歴史を遡ってもわたくしだけじゃありませんの?)

 そんな軽口を思い浮かべる彩花であったが、戦況は思わしくない。遠距離からの撃ち合いでも分が悪く、だからと言って接近戦はもっての外である。《風》を駆使しなければ立つことすらままならない彩花に、体術の心得などあるはずもなかった。

 故に苦戦は必至。彩花の基本的な戦法は、朱赤の手の届かない空中で術を往なし、一瞬の隙を突くというものに絞られているのである。

(長期戦はあまり好まないのですが……泣き言言っていられませんわねェ!)

 炎球を掻い潜りながら、彩花は自らの手を朱赤の姿に重ねた。それと同時、朱赤の周囲の空気が薄く緋色を纏う。

(──『握り』なさって!)

 彼女がその指を握った瞬間、赤き《風》は重力の何十倍もの圧力でもって朱赤を締め上げた。

「ぬ……っく!」

 常人であれば立っていられない……というより、全身の骨を、肉を、血管を粉砕されておかしくない。実際のところ彩花も、文字通り朱赤を圧し潰すつもりだった。

 だが彼は今、障壁による加護があるとは言え、その圧に耐えている。しかもそれだけではない。精霊を駆る彩花の右腕が、徐々に押し返されていく。もう片方の手を添えて念を込めるが、それでもなお押し込まれる。

「ぐっ……ぅ」

 見えない何かにのしかかられているように、前のめりになった朱赤の身体。それが少しずつ背を伸ばしつつあった。

(まさか、跳ね返しますの⁉ 肉体のみによって色術を⁉)

「そんな馬鹿げた真似!」

 彩花は一点に精神力を注ぎ、圧力を強める。そして同時に、四方から風の刃を走らせた。

「弾け飛べェ、朱赤赦豪!」

「おおおおおおおお!」

 だが一瞬早く、咆哮した朱赤が緋色の空気を掃き散らかした。そのまま剣を一閃すると、風の刃たちは力なく燃え尽きていく。

「……化け物」

 憎々しげに歯を噛み鳴らす彩花。対する朱赤は全身に汗を浮かべながらも、不敵に笑って見せた。

「軽いな。所詮貴様とは格が違うのだ」

「っ……なら、これでどうだァ!」

 彩花も追撃の手は緩めない。声を合図に、朱赤の周囲を無数の風の刃が取り囲んだ。彩花の代名詞『鳥籠』である。

「ふんっ!」

 しかし打ち出された刃は、朱赤が生み出した炎の渦に悉く阻まれる。彩花の最大術式といえど、神器の前には歯が立たなかった。

(それでいい! 手を止めてるんじゃねェ!)

 だが、彩花もこれで決定打になるとは考えていない。真の狙いは別にあった。

 いくら朱赤と言えど、鳥籠の手数の前に晒されれば防御に専念せざるを得ない。そして神器を用いるには膨大な精神力を必要とする。ならば戦いをなるべく長引かせれば、朱赤を疲弊させることができる。隙を突くのが難しいのであれば、隙を生み出しやすい状況に陥らせようという魂胆だった。

 だが、その認識すら甘かったことを彩花は思い知ることになる。

「埒が明かんな。ならば、これで──!」

 依然として障壁を展開し続ける朱赤であったが、その手の天叢雲剣を地面に突き立てると、両手で複雑な印を結んだ。

「今ですわァ!」

 新たな術式展開の際に生まれた隙。これを好機と見た彩花は全力で緋色の風を叩き込む。超音速の陣風が、爆音を上げながら朱赤目掛けて一直線に突き進んでいく。

(取った!)

 しかし、今まさに朱赤を轢き殺さんとした陣風は、それ以上の熱量によって瞬時に掻き消える。

 地中から発生した巨大な火柱が、周囲の空間ごと緋色の風を呑み込んだのである。

「なんっ……ですのォ⁉」

 予想を遥かに上回る大型術式の展開に、彩花は思わず叫びを上げる。それもそのはず、一本だけでも制御が難しいであろう巨木の幹のような火柱、それが八本も同時に展開されたのだ。

「『獄炎』。我が奥義にて身を焼かれる事を光栄に思え」

 天を衝き燃え盛る八つの火柱は、距離を置いても肌を焼く。その姿は上空にいる彩花に、神話の怪物である八岐大蛇(やまたのおろち)を連想させた。

「行け」

 たったそれだけの言葉を合図に、火柱たちはそれぞれ彩花目掛けて襲い掛かってくる。体をくねらせて進む姿は蛇そのもの。それも、群れで獲物を追い詰める捕食者だ。

「くっ、この……!」

 対する彩花も《風》を操り、空中を縦横無尽に飛び回って火柱の魔の手から逃れようとする。しかし、各々の直径が彩花の身長の三倍近くはある火柱が八本。いくら逃げようとも追いすがり、振り切ることが出来ない。

「ちょこまかと……だが、これで終わりだ」

「──しまった!」

 そして遂に、周囲を火柱たちに囲まれた。まさに八方塞がり、逃げ出す隙間は微塵もない。

「さらばだ、緋乃彩花」

 人間の身体など瞬時に蒸発させてしまうだろう炎の蛇が、一斉に咢を開けた。

「彩花!」

「──、──!」

 轟音。

珊瑚の悲痛な叫びと彩花の最期の言葉は、虚しく掻き消された。

 眼前で花火を破裂させたかのような閃光。その眩い爆発は、術式を展開した朱赤本人ですら目を覆うほどのものであった。

「馬鹿な小娘め。逆らわなければ死なずに済んだものを」

 獄炎の直撃を受けて無事で済むはずがない。そんな者がいるとしたら、神器を持つ翡翠と瑠璃の宗主くらいのものだろう。いくら彩花が天に愛された術士であろうと、神器の圧倒的な力の前には無力であった。

「さて、残るは翡翠の娘だけだ」

 無能力者など脅威にはなり得ないが、目の前を飛び回る蠅が目障りであることに変わりはない。彼は天叢雲剣を引き抜き、珊瑚の姿を探すため『獄炎』の眩い光に背を向けた。

 ──それは、朱赤が見せた今日初めての隙でもあった。

「っ⁉」

 突然背後で膨れ上がった殺気に、超人的な反応速度で朱赤はその場を飛び退く。同時、その空間を風の刃が鋭く薙いだ。

「何だと⁉」

 緋色の輝きを纏うそれは、間違いなく彩花の色術。確実に息の根を止めたと思った彩花からの反撃に、朱赤は柄にもなく上ずった声を上げた。

(直撃だぞ⁉ 何故生きている⁉)

 だが、さすがは赤の最強術士。困惑する思考を置き去りにし、空中で体勢を整える。そして着地と同時に天叢雲剣を正眼に構え直す──いや、直そうとした瞬間、朱赤の身体はバランスを崩して片膝を着いた。

「何……?」

有り得るはずのない転倒。崩れた左脚に視線を向けたところで、朱赤はやっとその原因に気が付いた。

「う、うおおおおおおお⁉」

 なんと朱赤の左膝から先は、飛び退く以前の場所にぽつんと取り残されていた。鋭利な切り口から鮮血がしとどに流れ、地面を濡らしている。

「ぐ、うう……!」

 これまでの人生、朱赤は数えきれないほどの窮地に立たされ、数多の傷を負った。しかし四肢の一つを失う痛みは、これまで経験したどれとも違う。

 彼を今支配するのは、痛みではなく恐怖。

先代との息詰まる継承戦でも、その顔に傷を刻んだ忌々しい妖魔との戦いでも、怒りはあれど恐れを感じたことなどなかったというのに。

「あらァ? 存外いい声で哭なきますのねェ、宗主?」

 未だ燃え盛る『獄炎』の残滓が、渦巻く風によって力なく散らされた。その中心には、傷一つなく宙を漂う彩花。

「彼の冷血の朱赤赦豪も、脚を失えば喚きますか……ふふ、ふふふふふふふ。これほど良い見世物もありませんわァ」

「あり得ん……何故、何故だ」

 恍惚の笑みを浮かべ、不気味な鳴き声を漏らす狒々。その姿を視認し、朱赤は驚愕に目を開く。

「何故、貴様がそれを⁉」

いや、正確にはその視線は彩花ではなく、その手に抱えられたものを捉えていた。

「珊瑚の護符と同じように、わたくしも翡翠様から『お守り』を預かっておりましてねェ」

 不敵に朱赤を見下ろす彩花。先程より一層眩い緋色の気を纏う彼女の手元には、一枚の鏡が握られていた。

「神器の力、お貸しいただきますわよ。翡翠様」




「これを持っていけ」

 病室を後にしようとする二人を呼び止め、潤は珊瑚に向けて一枚の護符を差し出した。

「これは?」

「守護の護符だ。これなら例え朱赤であろうと、色術によってお前を傷付けるのは難しいはずだ」

 何気なく受け取る珊瑚であったが、驚愕を浮かべているのはその隣の彩花であった。

「何ですの、この馬鹿みたいな濃度の気は。翡翠様、貴方これにどれだけの祈りを捧げまして?」

「日に三度、珊瑚が生まれて十九年の間ずっとだ。一日も欠かしたことが無いぜ」

 こんなこともあろうかとな、と誇らしげに胸を張る潤ではあるが、触れずとも感じる強力な気は尋常なものではない。恐らく回数だけでなく、その一回一回に相当な念を込められたはずだ。その積み重ねを思うと、彩花は眩暈すら覚えた。

「子煩悩もここまで行くと、なんというか、その……」

「気持ち悪いでしょ」

「有り体に言えば」

 ティーンエイジャー達の歯に衣着せぬ物言いに、潤が露骨に肩を落とす。親の心子知らずとはまさにこの事。……行き過ぎた愛であること自体は否定できないが。

「冗談よ。ありがとう、お父様。大事にします」

「お、おお。そうしてくれ」

 素直な感謝の言葉に、潤はぱっと表情を明るくする。そしてその視線を、隣の彩花へと移した。

「緋姫ちゃん」

「翡翠様、いい加減その呼び方は──」

「君には、これだ」

 そう言うと潤は祝詞を上げる。翡翠の輝きがその手元に収束し、八咫鏡が顕現した。

「ほら、持っていけ」

「「はぁ⁉」」

 気でも違えたかのような潤の行動に、二人は全く同じ反応を見せた。それもそのはず、宗主にのみ伝わる偉大な神器を他人に──それも他色の術士に──渡すなど前代未聞、言語道断の行いである。

「バッカじゃないの⁉ いくら朱赤を相手取るからって、そんなホイホイ他人に渡していいものじゃないでしょ! 翡翠を廃家にするつもり⁉」

「それは金銀財宝とも比ぶるべくもない、人類最高の至宝でございましてよ⁉ わたくしが邪心を起こしたらどう責任を取るおつもりですの⁉」

 しかし白熱する二人を、潤は「まあまあ」と宥めてみせた。

「そう怒るな、珊瑚。何も正式に継承するわけじゃねえ、貸すだけだ。仮に緋姫ちゃんが八咫鏡をちょろまかそうなんて考えたら、その力を賜ることはできないだろうさ。既に契約者のいる神器の協力を得られるのは、契約者と神器の両方が認めた者だけだからな」

「まあ、それはそうだけど……」

「そして緋姫ちゃん。今の口ぶりからすると、君にそんな邪な考えは一切ないことが伺える。だからこそ預けるんだ。受け取ってくれ」

「……はぁ、そこまで仰るのであれば」

 依然納得いかない様子の彩花だったが、押し切られる形で八咫鏡を受け取る。初めて手にした神器は思いの外軽く、それでいて何とも言い表せない荘厳さを讃えていた。

 実際に手にすることで、その行為の重さを改めて思い知らされる。彩花が受け取ったのは神器だけでなく、潤の想いそのものであった。

「有り難くお預かりいたします。必ず無事で返しますわ。神器も、珊瑚も」

 深々と礼をする彩花。それに倣い、珊瑚もまた頭を下げた。

「君の力が正しく揮われれば、八咫鏡は必ず応えてくださる。自分を見失うなよ」

「心に刻みます」

 その返事に満足げに頷き、潤は二人を見送る。

「二人とも、絶対に無事に帰ってこい。約束だぞ」

そう言う潤の顔は宗主のそれではなく、ただの一人の父親であった。




「正直、死を覚悟しましたわ。本当に八咫鏡がわたくしに力を貸してくださるかどうか、やってみるまで半信半疑でしたもの」

 彩花は緩やかに地上に舞い降り、蹲る朱赤へと言葉を投げる。

「翡翠様に感謝しなくてはなりませんね。お陰で、貴方に鉄槌を食らわせることが出来ます」

「……もう勝った気か? 随分と余裕だな」

 顔中に脂汗を浮かべながらも強気の姿勢を取り繕う朱赤。しかし舌戦では、彩花が幾段も上を行く。

「それは勿論。隻脚の神器持ち同士、これで条件は同じですわ。……ああ、目についてはおまけいたします。年齢差を考慮すればハンデを差し上げるのは当然ですからねェ」

「貴様!」

 朱赤の周囲に発生した複数の炎球が、彩花に襲い掛かる。しかしそれらは悉く、風の障壁に阻まれた。

「あら、随分と集中を乱しておられるようですね。術に力がありませんわよ?」

「小娘が……っ!」

 憎々しげに呻く朱赤。押さえた左膝からは、未だに血が滴り落ちている。

 条件は対等と言ったが、朱赤は精神面で圧倒的劣勢にあった。精神力の強さが術式の強さに直結する色術において、それは敗北を意味する。

「終わりです、朱赤赦豪。貴方の──」

「あんたの負けよ。今すぐ儀式を中断しなさい」

 勝負は既に決した。そう見立てた珊瑚が、身を隠していた木の陰から姿を現わした。

「……ちょっと貴女、何もしていないくせに美味しいところだけ持っていくつもりですの?」

「あーはいはい悪かったって。でもあんた、ここで私が割って入らなきゃこいつのこと殺してたでしょ」

「それは、まあ……」

「まだ終わったわけじゃない。私たちの目的はクロを助けることなんだから」

 そうやって彩花を制すると、珊瑚は朱赤を力強く指差した。

「命まで奪うつもりはないわ。さっさとクロを解放しなさい!」

「偉そうに……無能力者如きが……!」

 だが、他ならぬその無能力者に自分は見下されている。これ以上ない屈辱に、朱赤は全身を震わせた。

「こ、この朱赤が、きさ、貴様如きにぃ……ッ!」

 怒りを露にしながら、朱赤は再び吐血した。血だまりの上に、更に鮮血が舞い散る。

「グッ……畜生め。急がねば、羽化する前に繭を、儀式を成立させねば……!」

朱赤の顔面は遠目に見てもわかるくらいに蒼白で、発される言葉はもはやうわ言のように力無い。

「死なれちゃまずいわね……仕方ない、足だけでも止血をするわ」

 儀式の中断方法を知っているのは朱赤しかいない。珊瑚は止血帯代わりに使うため、自らの服の袖を引きちぎりながら、朱赤へと駆け寄っていく。

 だが、それは明らかに浅慮な行為であった。

(馬鹿め。やはり戦いを知らぬ餓鬼よ!)

 近づいてくる珊瑚の姿を横目で確認すると、朱赤は天叢雲剣の柄を密かに強く握り直した。

 朱赤の中には、無能力者である珊瑚に見下されたという屈辱が煮えた食っていた。自分を恥辱に晒したこの女を生かしておくわけにはいかない。溜飲を下げるためには、その命でもって償わせるしかないのだ。

(その次は緋乃、貴様だ。……殺す、殺す殺す殺す殺してやる!)

 彩花が制止の声を上げるが、それでも珊瑚は止まらない。スローモーションのように感じる視界の中、一歩、また一歩と珊瑚が近づき──遂に間合いへと入った。

「ぉおおおああああああああああ!」

 獣の慟哭。恥も外聞も無く、怒りを撒き散らしながら力任せに振るわれる剣。それが瞬きの間も無く珊瑚の眼前に迫る。

 今からでは彩花の障壁は間に合わない。そして、守護の護符はあくまでも色術に対抗するためのもの。物理的な衝撃に対しては何の効果も持たない。

(死んで詫びろ、翡翠の娘!)

 必殺の一撃。だが、剣が珊瑚の身体を刻む寸前。とん、と朱赤の手首が押された。

「⁉」

 剣は軌道をずらされ、珊瑚の髪の毛を微かに薙ぐ。勢い余った朱赤であるが、片脚だけでは踏ん張りも効かない。そのままでも前のめりに倒れ伏すところだったが、急速に世界が反転したかと思うと、背中から勢いよく地面に叩きつけられた。

「かっ、は……!」

 何が起こったのかさっぱりわからない。はっきりとしているのは、強かに打ち付けた背中と未だ血を流す左膝から感じる痛みだけだ。

「ったく、色術が使えないからって舐められたもんね。これでも一応、宗家の一人娘だっていうことを忘れてない?」

凛とした一声。その主である珊瑚は、埃を払うかのように軽く両手を叩いて見せた。

 朱赤の奇襲を受けた珊瑚は、咄嗟に手刀を入れてその一撃を回避。投げ出された腕を引き寄せ、唯一の支えである右足を払った、運動エネルギーを最大限に活用した投げ。それにより、朱赤を地に転がしたのである。

 色術の適性は無くとも、一通り以上の鍛錬は積んできた身である。加えて、その運動センスは父親譲り。体術につけては、同世代の術士では相手がいないほどである。

「全力のあんたならいざ知らず、要介護状態なら敵じゃないわよ。気遣ってくれた相手を騙して不意打ちとか、あんた本当に最低の嘘吐きね」

 顔色一つ変えずに言ってのける珊瑚。奇襲を難なく往なす体捌きは見事と言うほかなかった。

対する朱赤は立ち上がることができず、それを黙って見上げるしかなかった。恐らく先程背中を打った際、骨にダメージを受けたのだろう。

「おっと?」

そうして睨み合いを続けていると、珊瑚の身体が緋色の風に包まれて浮き上がり、強制的に後方へと引き寄せられた。

導かれた先で憮然と腕を組んでいる彩花は、珊瑚を眼前に下ろすと、勢いよくその頭をはたき込んだ。

「いったぁ⁉」

「こンの馬鹿! 何考えてやがりますの! 命が幾つあっても足りねェですわよ!」

「この通り大丈夫だったでしょうが! 殴る必要ある⁉」

「そんなの結果論でございましてよ! 痛い目見ねェとわからないお馬鹿さんには、これくらい必要です!」

「現代の教育現場で鉄拳制裁はご法度よ! 体罰体罰! メディアに面白おかしく取り上げられて炎上しろ!!」

 この状況にありながら、喧々囂々(けんけんごうごう)と二人は口喧嘩を始める。相性が悪いのは相変わらずであった。

 だが、いつもとは違っていることが一つ。

「──でも、ありがとうね。心配してくれたんでしょ」

「……別に、翡翠様との約束ですから」

 彼女たちの間には、間違いなく信頼が芽生え始めていた。

「──クッ。ハハッ、ハハハハハ……!」

 そんな二人のやり取りを余所に、俄かに朱赤が笑い声を上げ始める。焦点の合わない瞳は虚空を覗き、口の端からは血混じりの涎を垂れ流している。

「……何? 遂に気でも狂った?」

「嘘吐き。そうか、嘘吐きか。貴様の言う通り、確かに我は嘘吐きよ! ハハハハハハハ!」

 何がそんなに面白いのか、朱赤はのたうちながら狂ったように笑い続ける。敵と断じたものの、長年父の様に信頼した相手である。その醜態を眺める苦々しい表情からは、彩花の複雑な胸中が見て取れる。

「ハハハ、ハ、ハァ……。なあ緋乃よ、覚えておるか? お前を見舞ったあの日の事を」

 暫時そうしていたかと思うと、朱赤は一転して穏やかに話し始める。その躁鬱とした様子は、どこか彩花に似ていた。

「ええ勿論。ですが、それがどうかいたしまして?」

「貴様らの言う通り、我はそこで嘘を吐いた。茜を取り潰すため。そして貴様を操り人形とするために」

「テメェ……」

 懺悔のつもりでもあるのだろうか。淡々と語る朱赤と対照的に、神経を逆なでされた彩花の怒りのボルテージは上昇していく。

「だがな、緋乃。──我の吐いた嘘が、それだけだと思ったか?」

 思いも寄らない台詞に彩花は硬直する。対する朱赤は、依然として気味の悪い笑みを浮かべている。

「彩花、まともに聞いちゃダメ。相手にしないで」

 この窮地において朱赤が語るとすれば、それこそ嘘か、そうでなければ自分にとって都合の良い真実である。何かうそ寒さを感じて忠告をするが、彩花は朱赤の言葉から耳を離せずにいる。

「貴様は事件のことを欠片も覚えておらんのだったな。だからこそ我に利用された」

「黙りなさい、朱赤」

「だが、忘れて当然だ。若干四歳の童べには、あれだけの衝撃的な事実を受け止めろというのは酷すぎる」

「黙れってのよ! さっさと儀式の中断方法を──!」


「貴様の両親を殺したのは他ならぬ貴様自身だよ、緋乃彩花」


 しん、と周囲が静寂に包まれた。

「……は?」

「何度も言わせるな。緋乃、貴様がその手で両親を殺したのだ」

「何を、仰いますの……?」

 怯えるように己の身を抱く彩花。その指先が小刻みに震えている。

「目の前で突如引き起こされた黒の暴走は、さぞかし恐ろしかっただろうな。貴様は咄嗟に反撃の術式を展開した」

「騙るな! 彩花、こんなの嘘に決まってるわ! 耳を貸すんじゃない!」

「だが悲しきかな! 風の刃は、身を投げ打って我が子を守ろうとした貴様の両親を貫いたのだよ!」

「彩花!」

 彩花の身体が力なく膝から崩れ落ちる。その脳裏には、奥底にしまい込んだはずの朧げな記憶がチラついていた。

「あ……」

 かけっこをしていた二人。突然蹲るあの子。

「あ、ああ……!」

 膨れ上がる未知の力。襲い来る黒い嵐。驚きに放った風の刃。

「────っ!」

 そして──傷を穿たれた、愛おしい背中。

「うわああああああああああァ!」

 声の限り、彩花は咆哮する。空気を劈き、こだまとなって山を揺らす。

「ハハッ! 思い出したか緋乃! 罪深き己の行いを! 親殺しの大罪を!」

「黙れえええええええええェ!」

 朱赤の身体をぐるりと囲うように無数の風の刃が出現する。彩花の必殺の術式、『鳥籠』がその牙を剥いた。

「彩花! 落ち着いて!」

 咄嗟に止めるが、聞き入れるはずがない。怒りに身を任せた彩花は、風の刃を──殺意の塊を、機銃の掃射の如く一斉に発射した。

「死ねえええええええええェ!」

「ハハハハハハハハ……!」

 依然として笑い狂う朱赤の身体が、瞬く間もなく刻まれていく。腕を、足を、胴を、頭を裁断し、砕き、すり潰す──

 そうして現代最強の赤の術士は、この世界から塵も残さず姿を消した。

「アアアアアアアアアアアア!」

 しかしそれでも彩花は止まらない。影すら無くなった朱赤に向けて、次から次へと術式を展開しては際限なく叩き込む。

「もう止めなさい! 彩花!」

「離せェ!」

抱き縋る珊瑚を突き飛ばそうとするが、そのままもつれるように倒れ込む。それでも駄々をこねる幼児のように、彩花は見境なく刃の嵐を周囲にばら蒔いた。

「うわぁ! ああああああああああ!」

「彩花! もう止めて!」

(駄目だ。儀式を止める方法もわからないのに、彩花がこの調子じゃ──!)

必死に肩を押さえて呼びかけるが、パニック状態の彩花は止まらない。地表は抉られ、木々は切り倒される。

そして風の刃の一つが、見上げるほどの大きさにまで成長した繭に深々と突き刺さった。

その瞬間、荒れ狂う緋色の嵐が嘘のように鎮まり返った。しかし彩花は未だに叫びを上げながら手足を振り回しており、自ら術式を停止させた様子はない。

──どくん。

鼓動の音が大きく空気を揺らす。繭はその内に秘めた熱量を抑えきれず、今にも暴れ出そうとしている。

「……まずい」

──どくん。──どくん。どくん。どくん、どくんどくん──

空気を震わす繭の鼓動か、それとも珊瑚自身の心臓の音か。加速度的に跳ね上がり、限界へと向かっていく。

──どくん!

一際大きな鼓動を鳴らし、再び静寂が訪れる。すると繭の表面を、傷の周囲からぴしり、ぴしりと亀裂が走り始める。成長した雛が殻を破るように少しずつ、けれど確実に羽化の時を迎えようとしている。

やがてその亀裂を突き破り──ぬるり、と。

黒く巨大な腕が、その姿を現した。

「……なに、これ?」

もがくように身をよじらせると、もう片方の腕が隙間を縫って窮屈そうに這い出てくる。そして力を溜めるように腕全体を緊張させると、一気に残りの繭を破り捨てた。

蹲ったソレはゆっくりと──というより、もったりとした動作で立ち上がる。

真っ黒なマナで構築された、全身タイツを身にまとった人間のようなシルエット。顔となる部分は目や口などのパーツは見当たらないが、キョロキョロと周囲を伺うように首を動かしている。身の丈は二階建ての建物ほどで、何よりも特徴的なのはその腕。肘が地面につきそうな程に長く、太さは胴の部分とほとんど変わらない。

腕の長い異形。珊瑚はその化け物の正体に心当たりがあった。

「……でいだらぼっち」

この地に伝わる伝承で、山に棲み憑き、空を曇らせ作物を枯らせ、人々を襲ったと言われる怪物。果ては旅の僧侶に退治されたと伝えられているが、それを彷彿とさせる姿である。

 でいだらぼっちは、感情の無い動きで一歩を踏み出す。地面を通して伝わる揺れから、見た目以上の質量を持つことを感じ取れた。

 踏み出す足元からはマナが滲み、水たまりの様に広がっていく。彩花によって切り倒された木の幹が、それに触れると瞬く間に燃え上がる。

「…っ彩花! ひとまず逃げるわよ! 彩花!」

 きつく抱き寄せた肩を揺するが、彩花は反応を示さない。一通り暴れた彩花はぐったりとしており、その目は虚ろであった。

「彩花! ……ああクソッ!」

 呼びかけても無駄だと判断し、珊瑚は救命時対応の訓練を思い出しながら彩花の身体を肩に担いだ。

(どこか安全なところ──そんなのある⁉)

 彩花は決して大柄な方ではないが、珊瑚に比べて頭一つは身長が高い。それを抱えながらの山道の移動は、想像以上に苦しい。緩慢な動きのはずのでいだらぼっちにすぐに追いつかれてしまう。

 振りかざされる右腕は、雲の隙間から顔を覗かせた月を隠す。

 背中に感じる危機。しかし珊瑚は振り向くことなく前に突き進み続ける。どんな窮地にあっても諦めない。ほんの少しの可能性でも暗中を模索し続ける。

(お願いお父様、私たちを守って!)

 ぐっと握られた護符は、珊瑚を中心に半球状の障壁を展開する。

しかしそれはいとも容易く打ち破られ──珊瑚たちは、黒い海の中に沈んでいった。

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