泣かないリリ
尾八原ジュージ
泣かないリリ
ダオさんが私の指を一本欲しいといったとき、私にはその意図が少しもわからなかった。彼は私の左手をとると、小指をくるくると左に回した。小指が手からすとんと抜けた。
もう動かない、何の役にも立たない指を、ダオさんは掌に載せてじっと眺めていた。それからぎゅっと握りしめた。
「ありがとう、リリ。三年間楽しかった」
私は「どういたしまして」と答えた。
ダオさんはスペアの小指を私に装着してくれた。一本だけマニキュアの塗られていないピンク色の爪をつけたまま、私は軍のトラックに乗った。
小指は大事な約束をするときに使う指だという。いわゆる「指切り」というものを知ったのはごく最近のことで、ダオさんがこの指を選んだのには何か理由があったのかもしれない、とそのとき初めて思った。きっとあれは「私たちが再会できるように」という、おまじないのようなものだったのだろう。
今、再び欠けた左手の小指を見て、私はダオさんのことを思い出す。左手は薬指と小指だけで済んだが、右手は損傷が激しい。私は右肩の下のジョイントを外し、右腕を取り外して捨てた。焦げて見る影もない右腕をダオさんは欲しがるだろうかと、ふと意味もなく考えた。
薄暗い空に鉛色の雲が散らばっていた。私がいるこの場所は、ほんの三十秒前までは小さな村だった。すでに打ち捨てられてはいたが、それでもまだ家屋があり、痩せこけて半野生化した鶏が地面をつついていた。今はもう、それらの残骸しか残っていない。
斥候としての単独行動の最中に会敵し、戦闘が始まったのだ。敵の手榴弾がたまたま落ちていた不発弾を巻き込んで爆発し、廃村は木っ端微塵になった。向こうの被害はまだわからない。
私は辛うじて形のある煉瓦塀の後ろにしゃがんで身を隠している。耐熱性と耐久性を備えたスーツは切れ切れになり、顔の皮膚が半分以上溶けている。しかし幸い内部に大きな損傷はなく、センサーが一時の方向に敵影ありと告げた。ついで、それらが人間であることを教える。
最初に戦闘型ロボットが戦場に立ち、それが不足し始めると非戦闘型のものたちが徴発される。生身の人間がやってくるのは最後の最後、つまり相手の敗色は濃厚ということだ。それでも敵に銃口を向けられたら戦わねばならない、と私たちはプログラミングされている。
敵の兵士は三人。全身を灰色の軍服で包み、防塵マスクとゴーグルをつけている。三人とも若年から壮年の男性だろう。元々の服の色と土埃、それに爆発の後であたりがぼんやりと烟っているせいで、彼らは灰色の塊が動いているように見える。およそ個性を持った人間とは程遠い何かのようだ。
彼らは私のように瓦礫の後ろに隠れながら、こちらに旧式のレーザー銃を向けてくる。このタイプの銃が放たれるとき、私の聴覚はるるるるるるるという音を捉える。
るるるるるるるる
るるるるるるるる
るるるるるるるる
煉瓦が弾けて粉々になる。私は煉瓦塀の影から別の場所へと移動することにした。右膝の装甲を吹き飛ばされながら、骨組みだけになったジープの影に移動し、片手でハンドガンを持って撃ち返した。
るるるるるるるる
瓦礫からひょこっと出た頭が一つ消え、敵影が二つになった。
指を失ったせいで狙いが定まりにくい。今当たったのはまぐれだ。
人間が怒ったときに分泌される、アドレナリンとノルアドレナリンの匂いが漂ってくる。そういえば、ダオさんはあまり怒らない人だった。
再びダオさんの記憶が頭を占めたことに、私は意外性を覚える。なぜこんなに彼のことを思い出すのだろう。もしかすると、これが人間のいう「走馬燈」というものなのかもしれない。
ダオさんは私の開発者ではない。育ての親というのがたぶん一番近いだろう。人工知能を育てる仕事、つまり私のようなアンドロイドの情操教育を専門にしている人だった。
ダオさんの育てたアンドロイドは、多くの観光施設や裕福な家庭で活躍していた。つまり実績のある人だったのだ。彼の元で育ったアンドロイドのうち、売り物にならなかったのは私が知る限りただひとり、この私だけだった。普通のアンドロイドが半年ほどで彼のもとを旅立っていくのに、私は三年もダオさんのところにいた。
ダオさんは私に映画を何本も何本も見せた。本を何冊も何冊も読ませた。
何ヘクタールもある広大な花畑を見せた。
車で何時間もかけて星空を見に行った。
私は映画のタイトルと、キャストやスタッフをいちいち紐づけて記憶している。読んだ本すべての内容をさらうことができる。花畑で育てられていた植物が何と何と何であったか覚えている。夜空で見た星座の名前と、それに関する神話を諳んじることができる。
ただ私はそれらを見て笑うことも、涙を流すことも、ただの一度もなかった。
私がダオさんの元にいる間に、何人かの私の後輩たちが訪れ、泣いたり笑ったりできるようになって、去っていった。私は彼女たちを迎え、見送った。
ダオさんは、私を一度エンジニアの元に戻したことがある。故障を疑ってのことだが、あいにく異常は発見されなかった。
「笑ったり泣いたりするための機能が、これでちゃんと動いてるはずなんだがなぁ。まぁいいや、ゆっくりやっていこう。リリは何色が好きかな?」
たまたまダオさんの瞳が目に入ったので、私は「青色が好きです」と答えた。何をするのかと思っていると、彼は私の手を取って、爪をマニキュアで青く塗った。
「おっ、よく似合うね。きれいだ。リリはお姫様みたいにきれいだね」
私は自分の指先を眺めた。その深い青色は、なるほど「きれいなもの」かもしれないと判断できた。だからといってどうということはなかった。
「ありがとう」
私はマニュアルに従って応えた。
あのとき無理にでも口角を上げ、笑ったように見せておけばよかったのかもしれない。今はそう思う。
軍の備品として徴収されてから、私の体はあちこちの部品を交換され、戦場に適したものになった。私にその判断はつかないけれど、きっともうお姫様みたいにきれいではないだろう。今の私が笑ったとしても、ダオさんはあまり嬉しくないかもしれない。
戦火はいくつもの国を巻き込んで広がっていった。ダオさんと暮らしたあの静かな街も、今は戦時下にあるという。彼のアパートメントはまだあるだろうか。それとも瓦礫になってしまっただろうか。ダオさんは私の指をどうしたろう。
るるるるるるるる
私は姿勢を低くしたまま移動を開始する。強度と柔軟性を備えた足は、極端な前傾姿勢での走行を可能にする。瓦礫の山の影に走り込み、動く砂の塊のような灰色の人影を、十二時の方角に捉える。
ハンドガンを持ち直し、口で左手首を咥えて照準を安定させ、引金を引く。
るるるるるるるる
発射のために頭を瓦礫の影から出したため、私の頭部の装甲が吹き飛び、引き換えに敵がまた一人消えた。
次に頭部を撃たれたら私は完全に破壊され、人間がいうところの死を迎えるだろう。状況は楽観視できない。もしかすると今が「泣くとき」、そういう状況なのかもしれない。
そう思ってみても、私の目は一粒の涙も流さない。後輩のアンドロイドたちは、泣くときは「喉が塞がるような感じ」がすると言っていたが、それも感じなかった。点検の際には発見されなかったけれど、やっぱり私にはどこか異常があるのかもしれない。
「リリ、どうか泣いてくれ」
私の徴発が決まった日、ダオさんが悲鳴のような声でそう言ったのを、私は一言一句漏らさず覚えている。
「君に『感情がある』ということを証明できれば、戦争に行かなくて済むかもしれないんだ。もうじき軍部から人が来る。彼らは、感情を持つロボットは戦場では使いにくいと考えているんだ。頼む、リリ。彼らの前で、行きたくないと言って泣いてくれないか」
戦況は逼迫していた。私のような非戦闘型アンドロイドが徴発されることからして、それは明白だった。私のような機械が敗戦の色濃い戦場に行けば、無事に帰れることはほぼない。それを知っているから、ダオさんは辛そうな顔をするのだ。
その顔を見るだけで、今が「泣くとき」なのだろうと私にもわかった。でもそれだけだった。後輩たちに教えてもらった「喉が塞がるような感じ」もしなかった。
「頼むよ、泣いてくれ。僕のために」
そうしようとすれば無理に涙をこぼすことも、表情を取り繕うこともできたかもしれない。でも灰色の軍服を着た人たちがやってきたとき、私は無表情のまま彼らを見つめていた。
きっと私は欠陥品なのだろう。ダオさんが三年間頑張ってもこうだったのだから、これからもずっとこのままだろう。現に私よりよっぽど泣きそうな彼の顔を見ていても、私の「心」は少しも動かない。
ダオさんは、別のアンドロイドを育てることに注力した方がいい。そうするべきだ。
ダオさんは私の様子を注意深く見ていたが、やがて深いため息をつき、肩を落とした。
「そうか、リリ。すまない。それならもう、僕にできることは何もない」
それに続いた言葉は、私の想定を超えていた。ダオさんは「君の仏頂面が好きだったよ」と言ったのだ。
「最初は戸惑ったけど、君が出荷されずに、ずっと傍にいてくれることが嬉しかった。でも、僕がいくら『リリはそのままでいい』と言っても、それではもう駄目なんだ」
ダオさんはひどく憔悴して見えた。私はせめて対人型アンドロイドらしく、落ち込んでいる人間に対して手助けをしようと思った。
「何か私にできることはありませんか?」
そう尋ねると、ダオさんはうつむいて少し考えた。
「なら、いつかもう一度君に……いや、いい。リリの指を一本ほしい。大切にするから」
そしてダオさんは、青いマニキュアをした私の小指を、新しいものと付け替えた。
徴発された私は改造ののち戦場に立ち、何度目かの戦闘で敵国の「捕虜」とされた。プログラムが書き換えられ、かつての味方に銃を向けることになった。私と同型の後輩たちとも戦った。
結局、彼女たちの「感情」も、徴発を数ヶ月先延ばしにしただけだったのだ。ダオさんはそれを、どんな目で見ていただろうか。
なぜだろう。今日はどうしてこんなにもダオさんのことを思い出すのだろう。
るるるるるるるる
私を守っていた瓦礫が吹き飛び、破片が頬を叩く。
十二時の方角にひとり。私はもう一度ハンドガンを持ち直す。
レーザーの音は続かなかった。私はほんの少し待った。(弾切れではないか)と思ったそのとき、瓦礫を越えて何かが放り込まれた。手榴弾だった。
とっさに飛び出したが、左脚の膝から下を失った。私は膝をつき、よつん這いで方向転換した。千切れたコードが地面に擦れて火花を散らした。
物陰から人影が立ち上がり、こちらに走ってくる。やはり弾切れだ。破れかぶれになったのだろう。私は左手のハンドガンを彼に向けた。
るるるるるるるる
私の二メートル前方で、ぱっと削り取られるように敵の頭部が吹き飛んだ。二、三歩歩いた後、体が崩れ落ちた。
もう人の気配はなかった。物音もしない。重苦しい色の空を、静かに雲が流れていくだけだった。
私は、撃ち殺したばかりの死体の軍服の胸ポケットから、何かがはみ出しているのに気づいていた。蓋が焼けたポケットから、中身が飛び出してきたのだ。それは小さなものでありながら、私の注意をひどく惹きつけた。
私は死体に近づいていった。色味のない灰色の軍服に、花を添えるように落ちているそれは、指だった。
人間のものではない。女性型アンドロイドのものだ。おそらく左手の小指。爪を青く塗っている。
「ダオさん」
返事がないことを私は知っていた。なのに呼びかけた。なぜそうしたのか、自分でも不思議だった。
きっと今が「泣くとき」なのだろうな、と私は思った。
泣かないリリ 尾八原ジュージ @zi-yon
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