対価

『ハルト君……わたし、はじめてだから……』


 灯りを落とした部屋の中、僕の腕に抱かれたクレアが緊張を孕んだ口ぶりで言う。僕の肌と彼女の肌。触れ合う感触は絹のような滑らかさで、それでいてその奥はひどく熱を帯びている。これは期待か、高揚か。あるいは情欲の炎か。


『だから……優しくしてね……?』


 僕の胸の内で爆発的に燃え盛る炎に、薪をくべるようなことを言い出すクレア。恥ずかしそうに目線を外して、だけど未知の体験へのちょっとの期待を込めた彼女の声は、僕を大いに興奮させた。


 六年ぶりの再会を祝して、僕は可憐な成長を遂げた幼馴染みの肢体にその手を這わせる。んっ、と喉の奥から押し殺したような鳴き声を漏らすその姿に、僕の興奮はよりいっそう高まっていく。


『ハルト、くん……』


『きれいだよクレア』


『――誰の夢を見てんのよ』


『えっ』


 僕の手に身を委ねていたはずのクレアから妙に刺々しい声が返ってきて、僕は思わず素に返ってしまった。誰だこの声は。クレアじゃないだろ。偽物か?


 おいおい勘弁してくれないかな。僕はいまからクレアと契りを結ぼうとしているんだよ。想い合う幼馴染み水入らずの時間にどうしてそんな邪魔をしてくれるのか。


『誰だか知らないけど僕たちの邪魔をしないでくれないかなあ』


『――完全に寝ぼけてるわね』


『いや寝ぼけてなんかいないよ。むしろそれは君の方だろう』


 よくも僕たちのメイクラブを邪魔してくれる。


 こうなったら今すぐ起きてこの素晴らしい夢見を邪魔する不埒な輩をとっちめてやらなければならない。そう考えた僕は体を起こそうとして、思うように体が動かせないことに気が付いた。思考と体の挙動が一致しない。おや、まさかこれは。


『ひょっとして夢……?』


『――やっと気が付いたの? 早く起きなさいよ』


 あ、なるほどね。ついさっきまで僕が抱いていたクレアは僕の夢の産物だったわけだ。じゃあこの、耳元から聞こえてくる声の主ってもしかして。




「――おはよう、ハル」


 目を開けて早々、僕の視界に映りこんできたのはフェイの紫色の瞳だった。アメジストもかくやと言いたくなるほど深い輝きを湛えた瞳はいつ見てもやはり変わらず、吸い込まれるように美しい。


「……やあ、おはよう、フェイ」


 さて。フェイの瞳の色はまあいいんだ。正直彼女の瞳の色に気を取られたのは現実逃避も兼ねている。このまま彼女の瞳だけ見つめていられればシンプルでよかったんだけど、そうは問屋が卸さないみたいだ。


 問題は、どうやら僕がベッドの上に寝転んでいるらしいことと、フェイも同様にベッドの上で横になっているらしいこと。ついでに言うと、僕はなぜか服を脱いで生まれたままの姿でいて、正面のフェイも一糸まとわぬ姿の上に軽くシーツを巻いているだけの非常に無防備な姿でいることだ。


 徐々にクリアになってきた頭でまとめよう。いま現在、裸体の男女――僕とフェイがふたり、ベッドの上に並んで顔をつきあわせている。


「…………」


 なんだかじっとりと脂汗が零れ落ち始めた気がする。汗がだらだらと滝のように落ちてきそうな気分。いや落ちてる。


 何があったのかなあ。男女が裸になってベッドの上で寝転んでいるのって、どういうことがあったのかなあ。なんだか腰がちょっと鉛を仕込まれたように重い気もするけど、僕全然わからないなあ。


 僕は胸の内で暴れまわる焦燥感を必死に押し殺しながら、フェイに問うた。


「……し、しつ、質問良いかな、フェイ」


「構わないわよ。可愛い顔して夜はケモノのハルト君」


 フェイの瞳の色に、僕に対する嗜虐心を隠すつもりは毛ほどもない。いやもうこれ半分回答じゃん。でも答え合わせをするまではまだ濡れ衣の可能性もあるからね。うん。


「……怒らないで聞いてほしいんだけど。実は僕、どうしてこういう状況になっているのかわからないんだよ、フェイ」


「あら、そうなの」


 目を細め、笑みを深めるフェイ。やめてよ、君がそんな顔するのってたいてい僕をいじめる大義名分を得たときじゃないか!


「じゃあ丁寧に教えてあげるわ、ハル。昨晩、アンタはべろんべろんに酔っぱらってこの家の扉を叩いたのよ。聞いても「クレアに男がいた~」って泣くだけでね」


「…………うっ」


 フェイの口からクレアの名が出てきて、僕は昨晩のことをおぼろげに思い出してきた。


 夕やけの林檎亭でクレアと再会したまではよかった。でもそこで、僕はクレアがすでにライナスというパートナーを得ていることを知ってしまったんだ。やばい、気分悪くなってきた。


 六年の間も顔を合わせていなかったわけだし、クレアの成長ぶりを考えれば当然の結果といえば結果なんだけど、けっこうショックだったんだよ本当。なんか小さい頃の大事な思い出に砂をかけられて壊されちゃったような、そんな感覚。


 いやでもあの大人しかったクレアに男がいるって……あのわがままボディを好き勝手にできる男がいるって、なんだかすごいショックだ。あっ泣きそう。


「その顔だと思い出したみたいね。おおかた、幼馴染みにフラれてヤケ酒呷ってたんでしょ?」

 

「まあそんなところだよ……」


 クレアが店を後にしてから、僕は心にぽっかり空いてしまった穴を埋めるためにひたすら酒を飲んだ。店にいる冒険者どもに飲み比べを挑んで、勝ったり負けたりしながらひたすら酒を呷った、はずだ。


 その後、酒場の閉店時間になって店を追い出された僕は、酔っぱらいながらも寝床を探して、自分の生家でもあるこの家にやって来たのだろうか。


「やっぱりね。で、泣きわめいていたアンタに水を飲ませてあげたり話を聞いてあげてるうちに、泊まるところがないから泊めてほしいって泣きつかれたの」


 何をやってるんだ僕は。外で寝てればいいのに。


「元カレの頼みだし、フラれた直後だろうし可哀想だから、頼みを聞いてあげるのもやぶさかではないと思ったのよね」


「それは……ありがとう」


 持つべきものは元カノだなあ。僕はしみじみ考えて、いや違うだろとツッコんだ。


「……その節はお世話になったみたいだけど、それでどうしてこんな状況になるの!?」


「酔ったアンタが「人肌が恋しい」と言ったから、あたしも言ったわ。「対価次第で抱かせてあげてもいいわよ」ってね」


「対価……」


 その単語を耳にして、僕の背筋は凍えるがごとく寒くなった。


 フェイと対価。僕が知る限り、この組み合わせはだいぶヤバい。だって、王国騎士の高給取りのくせして、貴族の家に忍び込むほどの金の亡者なんだよこのひと。


「……あの、フェイ、それで僕はなんと?」


「いくらでも払うから僕の寂しさを埋めてくれ、って」


 僕はバカだ。まごうことなきバカだ、僕は。 


 いくらクレアのことがショックで、酔っぱらって正常な判断をなくしていたからって。このフェイに、不良騎士フェイ・シンクレアに、金の弱みを握られるのはどう考えてもまずい。


「恋人関係だったら、無償の愛を捧げてあげるのも悪くはなかったんだけど。残念ながらあたしたち、今は元恋人の関係性を持つに過ぎない他人同士じゃない?」


 全然残念に思ってる顔をしていないフェイが言う。


「すみませんフェイさん……まったくその当時の記憶がないのですが……」


「記憶はなくても痕はあるわよ」


 そう言って自分の身体やベッドのシーツに視線を向けるフェイ。つられて僕も視線をやって、フェイの言が嘘ではないことを悟り呻いた。ダメだこれ。言い逃れができない。


「だから、あたしが捧げた愛の分はしっかり対価を払ってね、ハル?」


「……ふぁい」


 くすり、と笑って立ち上がり、フェイは僕の額に口づけを落とす。


 床に散らばっていた肌着を身に着けて寝室を出ていく彼女の背を見送ったあと、僕は己の愚かさを呪った。


 この際、フェイに対価を求められるのはもういい。過ぎたことだし酔っぱらっていた僕が悪い。だが同じ対価を払うにしても、フェイの乱れっぷりを覚えているか覚えていないかでその価値が違うというのに、なぜ僕は何も覚えていないんだ……!

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元剣聖の小間使い、故郷に戻りヤバい女と邂逅す 国丸一色 @tasuima

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