二 ロデニウムの呪われた王子

 ──君のてんは消し去ってきてあげたよ。

 ほこらしそうに微笑ほほえんだ夫を見た瞬間、今まで何も疑問に思ってこなかった現実が、ガラガラと音を立ててくずれていく気がした。

 呼吸も忘れて、ぼうぜんとする。

 夫が何を言ったのか、理解するのに時間がかかった。──いな、脳がその答えをきよするように、事実をなかなかみ込めなかった。

 ゆっくりと目の前が真っ黒にりつぶされていく。

 視界も音も、すべてをしやだんしたくなって顔をおおったのに、夫のみみざわりな声はなおも続いた。

 ──だから、次に期待しよう。

 次って何?

 彼女は手のひらの下でカッと目を見開いた。

 次?

 次……?

 まるでそれがただの物のように──、代わりを用意すればいいと?

 ──だいじよう、次はきっと異能を持った子どもが生まれるよ。

 それ以上、聞いていられなかった。

 顔をあげた先にある夫のがおがぐにゃりとゆがむ。

 心の中で持て余した感情がうずを巻いたそのとき、夫ではない別のだれかの声が聞こえた。

 ──これで無能は消えた。よかったな。

 よかった?

 夫のとなりで無表情にたたずんでいる男のミルクティーのようなにごった瞳を見た瞬間、すべての感情が消え失せた。

 胸の中の感情が強い熱を持ち、反対に頭のしんはすーっと冷えていく。

 この一族は、普通じゃない。

 数時間前に出産を終えたばかりで、ぐったりとなまりのように重たい腕をゆっくりとあげる。

 ──許さないわ。

 すべての感情が消え失せた彼女の声は、氷のように冷たかった。


   ***


「わん!」

 犬の鳴き声がする。

「わん!」

 その声がどこかあせったようなひびきを持っている気がして、エレナはおかしくなった。犬が焦るって、どういうことだ。

「わん! ……いい加減起きろっ」

 犬の声が人間の言葉のように聞こえるなんて、自分はまだ夢を見ているのだろうか。

「おいっ、れんだぞ! そんなぶかぶかな夜着を着やがって! かたから落ちているっ! おいったら!」

「んー……」

 幸せなねむりをさまたげられて、エレナはごしごしと目をこすった。

 誰だろう。男の人のような声がしたけれど──、そう思いながら目を開けると、視界に真っ黒なもふっとしたかたまりが飛び込んでくる。ふわふわして気持ちいい。自分はいつ、こんなにてきなぬいぐるみを手に入れたのだろうか。

(ふふ、幸せ……)

 よくわからないが、このかんしよくは幸せな感触だ。

 エレナは目の前のもふもふにぎゅーっときついて、すりすりとほおずりした。すると、目の前のもふもふがぴしっとこおりついたように固まる。

 どうしたのだろうと、もふもふに抱きついたまま顔をあげると、少し上に金色の二つの目があった。ん? と首をひねって、それからハッとする。

「わんちゃん!」

「……わぅ」

 ものすごくつかれたような声で返事があった。

 起き上がろうとしたエレナの夜着のえりもとを、犬──もとい、おおかみあわてたようにくわえて引っ張る。襟元がずり落ちないようにしてくれたらしい。やさしい狼だ。

「ありがとうわんちゃん。この服大きくて、すぐ肩が落ちちゃうの」

 へらっと笑ったエレナに、狼がまるで人間が肩を落とすかのように首を落とした。

 起き上がってガウンを羽織り、カーテンを開けると、けつで白く濁っている窓を手のひらで軽くこする。窓の外は白みがかっていた。そろそろ夜が明けるのだろう。

 部屋の中はひんやりとしていた。ガウンを羽織っていても寒くて首をすくめる。

「わんちゃん、部屋が暖まるまでそこにいてね」

 エレナは暖炉から少しはなれたところにある箱の中からたきぎを数本とって、暖炉の中にほうり込んだ。暖炉に火をつけるのには慣れている。ダニエルのやしきで使用人あつかいされていたエレナは、冬の寒い朝に、ダニエルたちが起きてくる前に暖炉に火をつけるのも仕事の一つだった。

 ぱちぱちと薪が音をたてはじめる。確実に火がついたところで薪をさらに追加して、エレナは大きく伸びをした。

「寝すごしちゃったみたい。ベッドがふかふかだったからかな」

「わふ?」

 ベッドの上で狼が首をひねった。

 エレナはノーシュタルトの地ではもっと早くに目を覚ましていた。ダニエルたちおさの家族が起きだす前に仕事をはじめていないとむちが飛んでくる。だから、まだ空が暗いうちから起きているのは当たり前で、今日のように空が明るくなるまで寝ていたことはない。

「みんなもうお仕事はじめてるよね。朝ごはんのたくを手伝えばいいかな?」

 そう言いながらエレナが部屋を出て行こうとしたからだろう。ベッドの上から飛び降りた狼がけ寄ってきて、ぐいっとエレナの夜着のすそんで引っ張った。

「あ、そっか。この姿じゃだめだよね。えなきゃ」

「わんっ」

 そうじゃない! と言いたそうである。エレナが狼を見下ろすと、「こっちにこい!」とばかりにあごをしゃくられた。ついて行くと、ベッドに飛び乗った狼が、前足でタスタスとベッドをたたく。

「座れってこと?」

「わん!」

 エレナがベッドに座ると、満足そうに返事をした狼が、エレナのひざに顎を乗せた。これでは立ち上がれない。

「わんちゃん……」

 動けなくなったエレナがほうに暮れたとき、こんこんととびらを叩く音がした。

「物音がしましたが……、奥様、お目覚めですか?」

 ミレットの声だ。

 返事をすると、ミレットが部屋に入ってくる。

「ずいぶんとお早いお目覚め──って、どうしてここに!?」

「わん!!」

 ミレットがきようがくに目を見開くのと、狼がひときわ大きくえるのはほぼ同時だった。

「わんわんわん!!」

 大声で吠える狼に、ミレットがあんぐりと口をあける。

 エレナが狼の頭をでて「ミレットさんに吠えちゃダメ」と注意すると、狼はなおにおとなしくなったが、じいっと何か言いたそうな金色の目はミレットに向けたままだ。

 ミレットはこめかみを押さえて、「ええっと……」とこんわくした声を出した。

 エレナはそれを、勝手に狼を連れて入ったことに対する反応だと思って、しゅんと肩を落とした。

「ごめんなさい、勝手に家にあげちゃって。でも、を引きそうだったので……」

「え? あ、ああ、大丈夫です奥様。その狼は家の中にいても問題ありません」

「そうなんですか?」

 エレナは目を丸くした。ずいぶんとひとなつっこい狼だと思ったが、もしかしたらこのきゆうで飼われているのだろうか。だから庭にいたのかもしれない。

「わんちゃん、ここの子だったのね」

 追い出されなくてよかったと笑うエレナに、狼は返事をするように「わん」と鳴く。

 ミレットが視線を泳がせた。

「えっと、奥様……。わんちゃん、ですか」

「あ、そうですよね。狼だからわんちゃんはおかしいですよね」

「いえ、そうではなく……」

 ミレットがか頭をかかえはじめた。どうしたのだろうか。きょとんとするエレナの膝から顔をあげて、狼がベッドから飛び降りる。

「わん!」

 まるでミレットについて来いと言わんばかりに顎をしゃくって、狼は勝手知ったる我が家のように部屋の外へ出て行った。

 ミレットもエレナに一言断って、狼を追いかけて部屋を出ていく。

 やがてもどってきたミレットは、疲れたような顔をしていた。

「あの、わんちゃんは……」

「ダイニングでくつろいでいらっしゃいます。あんまり待たせるとうるさ──、いえ、吠えはじめてめんどうくさいので、奥様、早く着替えて下に下りましょう」

(……あのわんちゃん、もしかしてユーリ殿でんの飼い犬──、じゃなくて飼い狼なのかな?)

 ミレットが狼に対して敬語を使うので、もしかしなくともえらい狼なのかもしれない。どうしよう、昨日はその偉い狼を抱きまくらにしてしまった。

(ユーリ殿下に会うことができたら、謝ろう)

 ミレットがサイズちがいのドレスを何とかえよく着せようとふんとうしている中、エレナはぼんやりとそんなことを考えていた。



「わ……、わぅ」

 エレナがダイニングに入ると、じゆうたんの上にそべっていた狼が顔をあげて、それから何とも言えないみような顔をした──ように見えた。

 しばらく固まったように動かなくなった狼を心配してエレナが近寄ると、ふいっと視線をらされる。

 どうしたのだろうと首をかしげるエレナに、コーヒーを飲んでいたライザックがぶはっとき出した。

「あはははは! エレナちゃん、だいじようだよ、そいつはエレナちゃんのドレス姿に困惑してるだけだから」

「ワン!」

 こうするように狼が鳴く。

 ドレス、と言われてエレナは自分の格好を見下ろした。狼がエレナのドレス姿に困惑するとはみような話だが、狼もおどろくほどにひどい格好なのだろう。

 ぶかぶかのこんいろのドレスは、ミレットが白いリボンでウエストをめて、何とかずり落ちないように調整してくれたが、やっぱりぶかぶかだ。

 大きく開いたえりぐりからは、エレナの真っ白いかたやはっきりとき出ているこつが見える。首は軽く力を入れただけでぽっきりと折れてしまいそうな心もとなさだ。部屋の中は暖かいので、首元があいていても寒くないが、やはりこの不格好な姿で歩き回るのはよろしくないらしい。

「あ、あの、わたし、食事は部屋で……」

「ああ、そうじゃない! そういうことじゃなくて……」

 ちらりとおおかみに視線を向けたライザックはぷくくくとまだ収まらない笑いをかみ殺しながら、エレナに席をすすめた。

 狼はふいっと顔をそむけて、くされたように絨毯の上でごろごろしはじめる。ごげんななめらしい。

 エレナが席に座ると、しつのマルクスが朝食を用意してくれた。昨夜と同じようにいつしよに食事を取ってくれるようにお願いすると、マルクスとミレットがしようしながら座ってくれる。

 ユーリ王子の姿が見えないが、彼はまだエレナのことをけいかいしているのだろうか。

 朝食のとろとろのオムレツに感動していると、絨毯の上に寝そべっていた狼がのそりと起き上がって、エレナのとなり椅子いすに飛び乗った。

「わんちゃんもごはん?」

 狼の機嫌がなおったのがうれしくてエレナが話しかければ「わふ」と鼻にけるような声で返事がある。

 エレナが自分のオムレツを一口スプーンにせて狼の口元に持って行くと、「ぐぅ」とうなり声をあげたあとで、しぶしぶといった様子で口を開け、ぱくっと器用に食べる。あまりにれいに食べるものだから感動したエレナが次々に狼の口に食事を運んでいると、ライザックがけたけた笑い出した。ライザックは笑い上戸らしい。

「エレナちゃん、そいつは『わんちゃん』じゃなくて『ユーリ』だよ」

「わんわんわん!!」

 狼が大声で鳴いた。

 ライザックはにやにやと狼を見ている。

「ユーリ、ですか? ユーリ殿下と同じ名前なんですね」

「わ……ぅ」

「ふふ、ご主人様と同じ名前なんて嬉しいね、ユーリ」

 エレナがにこにこ笑ってユーリの口元にオムレツを近づけると、それを口に入れながら狼──もとい、ユーリはじっとりとライザックをにらみつけた。

「あっはっはっ」

 バシバシとダイニングテーブルを叩いて笑うライザックに向かって、ユーリがチッと舌打ちする。

(やっぱり舌打ち……! 狼って舌打ちできるんだ!)

 すごいなぁときらきらした目をユーリに向ければ、ユーリはため息をつくようにテーブルの上に顎を乗せた。

「……わふ」

 エレナが次はベーコンを食べるだろうかと、ユーリのために一口サイズに切り分ける。

 そんなエレナとユーリを、ミレットとマルクスは困惑した顔で見つめて、どちらからともなくたんそくした。

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