一 ノーシュタルトの花嫁④

 ユーリ王子は、夕食の席にも姿を現さなかった。

 ライザックによると、ユーリは出かけているわけではなく、この離宮にはいるらしい。けれどもマルクスの言う通り極度の人ぎらいなユーリは、まだエレナと会う気にはなれないのだろう。

(いつになったら会えるのかしら……?)

 まだ自覚はないが、エレナはユーリのはなよめだ。けつこんする以上、相手がどんな人なのかはやはり気になる。ライザックたちののびのびした様子を見る限り、ユーリはきっと優しい人なのだろう。早く会ってみたい。だが逆に、ユーリがみすぼらしいエレナを見てげんめつしないかどうかが心配だった。

 ぶかぶかのドレスにガリガリの体。れた手足に、いたんでぱさぱさの髪。とてもではないが、大国の王子に嫁げるような外見ではない。

 もしかしたら、こんな女はいらないと怒り出すかもしれない。そう考えると、ユーリが現れないことに小さなあんを覚えてしまって、そんな情けない自分にため息をつきたくなった。

 ぽつんと一人で食事を取るのがさみしくて、また、誰かにきゆうをしてもらうのが心苦しくもあり、ライザックたちにお願いして同じテーブルで食事を取ってもらう。並べられたごうな食事に驚いたが、量が多すぎてどうがんっても半分も食べることができなかった。ミレットは食が細いエレナを心配してくれたが、ライザックとの旅の間に、これでも食べられるようになった方なのだ。もともと一日一食あればいいような生活をしていたエレナである。食べ物にありつけない日もあったほどだ。パン一つあればかなりおなかいっぱいになる。

 エレナがあまりに幸せそうな顔で食事を取るから、そっとなみだをぬぐったミレットが、「明日あしたから奥様の好きなものを用意させますから!」とこぶしにぎりしめて宣言し、マルクスは孫を見るような顔で甘いデザートをすすめてくる。そんな二人にライザックが笑い出して、夕食の席は始終にぎやかだった。

 食事を終えたエレナはケリーとバジルに手伝ってもらって入浴をすませた。かおりのいいシャボンや温かいお湯はうっとりするほどに気持ちよくて、エレナは今日一日でおひめ様にでもなった気分だった。

「本当に、食器を洗わなくてよかったんですか?」

 れたかみをタオルでぬぐってくれているケリーにたずねれば、しよううなずかれる。

「奥様は、どーんと構えているのが仕事です」

「どーんと構えている……」

 それはどんな仕事だろうかとエレナが困っていると、ハーブティーを準備していたバジルがくすくすと笑った。

「そんなにもちなら、さっそくクッションカバーを作りはじめてはいかがですか?」

 さいほう道具はミレットが準備してくれたので部屋にある。うことは得意でもしゆうはほぼしないので時間がかかりそうだ。エレナはすることを見つけてほっと息をいた。

「そうですね。ドレスはたくさんあるから、時間がかかりそうです」

「それから奥様、その敬語は直してくださいね。わたくしたちに敬語を使われる必要はございません。ミレットも言っていたでしょう?」

 敬語を使うなと言われて、エレナはまゆじりを下げる。

「おいおいでかまいませんが、少しずつ直してくださいませ。主人に敬語を使われると、わたくしたちも困ってしまうのです」

 バジルによると、エレナはバジルたちの「主人」にあたるそうだ。奥様と言われても全然実感がなかったが、エレナは本当にこのきゆうの主の妻らしい。

 ケリーがかわかした髪に甘い香りのするオイルをぬって、ていねいくしけずる。たんに月の光のようにかがやきはじめた銀色の髪に、バジルがうっとりと目を細めた。

「奥様の髪は本当におれいですね」

 められてエレナはうれしくなった。この髪は母ゆずりなのだ。綺麗だと言われると大好きだった母を褒められている気になる。

 裁縫道具に手を伸ばしたエレナに、ベッドの準備を整えたケリーがくぎした。

「奥様、ほどほどにしてお休みくださいね」

「用があればベルを鳴らしてくださいませ」

 バジルがだんたきぎをたしたあとで、金色のベルをソファの前のローテーブルの上に置く。

 おやすみなさいませ、と二人が去ると、エレナはさっそく、ピンク色のドレスにはさみを入れた。

 もったいないなと思いながら、チョキチョキとドレスの縫い目をばらしていく。手元のクッションを取って長さを測りながら、布をカットする大きさを決めていく。

「刺繍……どんなのにしようかな?」

 布の色がピンクで可愛かわいらしいので、はながらがいいだろうか? 複雑な模様よりも花の方が刺繍しやすいだろう。

 エレナはしゆうわくに布をセットして、白い糸を通した針を手に取った。すずらんの刺繍にするのである。

 チクチクと針を動かしていく。今日一日でいろいろ混乱してしまったから、針仕事は心を落ち着けるのにちょうどいい。みんなにやさしくしてもらって嬉しかったが、人にかしずかれることに慣れていないエレナにとってはきんちようの連続だった。

「奥様奥様……マリアンナ様のような感じ?」

 この離宮の主人の奥様らしいエレナは、どういう行動をとればいいのだろうかと考えて、ふとバネッサの母である義母マリアンナを想像し、首を横にった。エレナはマリアンナのようにはなれない。人に命令することに慣れ、人を傷つけることにためらいのないマリアンナは、エレナとは対極にいる存在だ。どうやったって真似まねできないだろう。エレナはこわくてむちを持つことすらできない。

 奥様が何なのか理解できないまま、エレナはもくもくと手を動かす。布のすみに鈴蘭の刺繍が出来上がったので、今度は裏面に使う布に刺繍をほどこしていく。表の鈴蘭は花を多めに、裏は葉を多めにするのだ。

 無心で手を動かしていると、パチパチと薪のぜる音が心地ここちよく聞こえてくる。せいじやくが心地いいと思ったのは久しぶりだった。温かい室内に、優しい離宮の人たち。エレナは久しぶりに、暴力におびえることなくおだやかな時間がすごせることを神に感謝した。

 クッションカバーが一つ出来上がると、エレナはケリーに「ほどほどにしてお休みくださいね」と言われていたことを思い出して針と糸を片づける。

 あかりを消して大きなベッドへもぐりこんだエレナは、あまりのふかふかさにびっくりした。マットレスはエレナを優しく包み込み、とんはお日様のいい香りがする。

 エレナは反射的に手をばして、ベッドサイドのたなにおいた小箱を手に取った。母の形見の木製の小箱だ。

「お母様、どうしよう……、わたし、ちがいなところに迷い込んじゃったみたい……」

 無能と言われ続け、死んだところでだれも悲しまない価値のない自分が、こんなにこうたいぐうを受けていいのだろうか。

 このままねむって、目が覚めたら全部夢だったりしないだろうか。

 急に不安になって、エレナはぎゅっと小箱を握りしめる。不安を覚えたせいかまったくけそうもない。

 エレナは小箱をまくらとなりに置いて、ごろんとがえりを打った。

 寝付けないならもう一つクッションカバーを作ろうか。だが、これ以上起きていたらケリーにおこられるだろうか。ベッドの上でごろごろしながら「うーん」とエレナがうなったとき、ドサッという音が聞こえて、おどろいて飛び起きた。

 音は外から聞こえた気がする。屋根から雪が落ちたのだろうか? それにしては、大きな音だった気がするが。

 エレナは起き上がり、そっとカーテンを開いてみたが、暗くてよく見えなかった。

 だが、外からはまだ物音と、わずかだが唸り声のような声が聞こえてくる。

(……誰か、いる?)

 外は雪が積もっている。夕食の時に雪が降りはじめていたから、さらに積もっているだろう。外にいたらこごえてしまう。

(近くの町まで歩いて一時間って言っていたし……、誰か迷い込んじゃったのかな? 大変、このまま彷徨さまよっていたら死んじゃうわ……!)

 夜だと方向もわからないだろう。早くやしきの中に入れてあげないと凍え死んでしまうかもしれない。

 心配になったエレナは、夜着の上にガウンを羽織って部屋を飛び出した。

 夜おそいので、ミレットたちを起こさないようにそっと足音を殺して中央階段を下りていく。ろうげんかんには小さな灯りが灯されているから足元がおぼつかないということはない。

 エレナが玄関とびらをそっと押し開けると、途端にびゅっと冷気がき込んできた。首をすくめて、エレナはそろそろと外へ出る。

 外にもオイルランプが点灯しているから、くらやみでもうっすらと様子がわかる。

 それでも夜のやみに包まれた周囲は不気味だった。針葉樹の森は何か得体の知れないものが飛び出してくるのではないかと思うほどに暗いし、かげ自体がゆうれいのようにも見える。

 エレナは早くも邸の中へ帰りたくなったが、外に誰かがいるのかどうかを確かめるまで帰るわけにはいかない。

(確かこっちの方から……)

 エレナはずぼっと足がまるほどに積もっている雪の中をしんちように進んでいく。音が聞こえた方に向けて歩いていくと、遠くに真っ黒い影が見えた。

(ひっ!)

 エレナは悲鳴を飲み込んで立ちくす。

 エレナの視線の先にいるのは、大きなけものだった。おおかみだろうか。真っ黒い毛並みをしていて、金色のそうぼうが闇の中でぎらぎらと光っている。

 獣はエレナを見つけて驚いたのか、ぴょんと背後に飛んで、それから上体を低くして唸り声をあげた。

 エレナはきようでガチガチとふるえながら、邸の中へげようとしたが、雪が深くて足がとられ、思うように動けない。

 獣はエレナに向かってとつしんしてくると、大きくちようやくした。そのままエレナを押したおすようにして、彼女の上に着地する。

 ぼすん、と背中から雪に埋まったエレナは、そのまま大きく目を見開いた。

 金色のひとみが、じっとエレナを見下ろしている。

 恐怖のあまり呼吸すら忘れて、エレナは震えながらその双眸を見返した。獣に会ったら、目を合わせてはいけない──昔、母がそのようなことを言っていた気がするがそんなことはすっぽりと頭からけ落ちていた。

 見つめ合うこと数十秒。獣はゆっくりとエレナの上から退いて、エレナのガウンのえりもとくわえてぐいっと引っ張った。立て、と言われている気がして、エレナはびくびくと立ち上がる。

 獣はやはり狼だった。エレナの身長よりも大きな狼だ。つやつや光る毛並みは黒曜石のようだと思う。ずいぶん美人な狼だった。狼に美人と思うのはおかしいだろうか。

 どうやらおそってくる気配はないので、エレナの恐怖は少しずつおさまっていく。

 ぽけっと狼を見つめていると、やがてチッと小さな舌打ちが聞こえた。誰かいるのかとエレナが周囲をうかがっていると、また、チッと聞こえる。舌打ちは狼から聞こえた。

(……狼が、舌打ち……?)

 狼は舌打ちができるのだろうか。狼には会ったことがないが、犬ならば知っている。少なくともエレナが知る犬は舌打ちなんてしなかった。同じような見た目なのに、狼はできるらしい。はじめて知った。

 すごい、と小さな感動がエレナの胸に広がる。

 もう一回しないかなと期待を込めて狼を見つめていると、金色の瞳がすっと細まった。

「……わん」

 どこかあきらめたような声で、狼が鳴いた。わん、なんてまるで犬だ。可愛かわいい。

 エレナはきらきらと瞳をかがやかせた。見た目はちょっと怖いが、この狼は可愛いかもしれない。

 エレナはその場にしゃがみこむと、そっと狼に向けて手を差し出した。

「わんちゃん、どこから来たの?」

「…………ワン!」

 今度の声はなんだか不満を言っているようだった。何か気に入らないのだろうか。エレナは自分の手を見て、ああそうかとうなずく。

「わんちゃんごめんね、おやつは今持ってないの」

「……わん……」

 今度はつかれたような声で鳴く。感情豊かな狼のようだ。ますます可愛い。

 エレナがずっと手を差し出したままでいたら、狼が諦めたように近づいてきて、その手の上にぽすっと頭を乗せた。

(かわいいっ!)

 エレナはうれしくなって、もう片方の手をそのもふもふした首元に伸ばす。驚くほどひんやりとした艶々の毛並みは、エレナがでるとふわっとした。きしめたい。

 エレナが撫でまわす間、狼は諦めたようにおとなしくしていた。なんておとなしい狼だ。けれども、すっかり体の冷えたエレナがくしゅんと小さくくしゃみをしたしゆんかん、狼は顔をあげてぐっとエレナのガウンのすそんで引っ張った。

「わ、わわっ」

 裾を噛んで引っ張ったまま、狼はすたすたと歩いていく。

 エレナは雪に足を取られないように注意しながら、引っ張られるままに足を動かした。

 やがて狼はきゆうの玄関までやってくると、器用にもドアノブにまえあしをかけて玄関扉を開ける。

「わん!」

「入れってこと?」

「わん!」

 どうやら正解らしい。エレナが離宮の中に入ると、狼もついてきた。狼を邸に入れていいのだろうかと不安になったが、外は寒い。外に出すのは可哀かわいそうだ。エレナは明日ミレットにめんどうを見ていいかどうかたのんでみようと考えて、狼といつしよに自分の部屋にもどる。

 部屋に入ると、まだだんは燃えていて、ぽかぽかと暖かかった。

 エレナはバスルームからタオルを持ってくると、雪まみれだった狼の毛をていねいにぬぐっていく。しばらくおとなしくしていた狼は、エレナがぬぐい終わると、当然のように彼女のベッドに飛び乗った。

「ふふ、ベッドでるの? 広いからいいよ」

 エレナはガウンをいでベッドにもぐりこむと、とんをあけてぽんぽんとたたく。狼はおとなしく隣にもぐりこんできた。かしこい狼だ。エレナがうでばして抱きしめても、されるがままになっている。

「おやすみなさい、わんちゃん」

 エレナがそう言って目を閉じると、狼はしばらく金色の瞳で彼女のことをじっと見つめていたが、やがてそっとまぶたを閉じた。

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