第2章

第10話 道案内


 サロメ・アントワーヌは気まぐれだ。しかし彼女にも朝のルーティンというものがあって、大抵はそれに従って生活している。


 リザはりんごのジャムを棚から取り出して机に置いた。ついでに顔を上げると、奥でくつろいでいるサロメが目に入った。彼女はもう身支度を終えていて、革張りのソファに身体を沈めていた。見慣れた朝の風景だ。


「ん……?」


 リザはテーブルの前で身をかがめたまま目を凝らす。いつもならサロメが新聞を読んでいる時間だが、今日は違うらしい。手に何か持っているのは見えるが、黒光りするだけでよく分からなかった。


「サロメ様、新聞読まないなら片してしまってもいいですか?」


 鍋に火をかけてからサロメのもとへと歩いていく。足音は絨毯に吸い込まれてあまり響かない。サロメは気付かないのか、手元をじっと見つめているだけだった。


 よっぽど夢中なのか、単にぼうっとしているだけなのかは判別できないが、これだけ近づいても顔を上げないのは珍しい。リザはほんの少しの悪戯心で彼女の背後へと回った。


「サロメ様ッ!」


 大声を上げる。サロメはびくんと肩を跳ねさせた。


「ひゃっ!?」


 思いのほか可愛らしい声が返って来たので、リザは目を丸くしたまま軽く両手を上げていた。サロメにいつもの余裕と優雅さは欠片もなくて、まるで少女のようだ。サロメは勢いよく振り返るとすぐさま口を開いた。


「あなたねえ! 朝から大きい声出さないでくれる!? それから声をかけるときは横からにしなさいよ」

「すみません、以後気を付けます」


 直立したまましれっとした顔で言うと、サロメは眉をひそめた。


「あなた最近図太くなっていないかしら!?」


 サロメはむすっとしたまま両手を膝に置いた。彼女が立腹しているのは見れば分かるが、それが致命的なものではないことも分かっているので、リザはそう縮こまらない。そばに置かれていた新聞を拾い上げた。


「そういえば、さっきから何を熱心に見ていたんで――」


 言いかけてリザは言葉を切った。サロメの膝にある黒光りするものの正体が目に入ったのだ。


「銃……!?」


 リザは後ずさりした。


 銃はずんぐりとしていて、あまり見覚えのない珍しい形をしている。全体が木でできているらしく独特な艶があった。引き金は真鍮のようだ。ところどころに打ち付けたような傷があって、見る限り相当古いものだった。


 サロメは「ふふっ」と笑うと拳銃を掴み、素早く銃口をリザへと向けた。細い指は引き金にかけられている。サロメが目を細めた。


「ひっ!」


 ばさりと新聞が落ちる音がした。リザは悲鳴を上げる。反射的に腕で顔を覆うが、いつまでたっても痛みがやってこないのでリザは恐る恐る腕を下ろした。彼女はおかしそうに笑っていた。


「弾なんて入っていないわよ! 古い型のはあまり手に入らないし、第一使う予定なんてないんだもの!」


 サロメは子供のように笑っていたが、いつまでたっても笑いが収まらないのか、やや俯きながら声を殺していた。今度はリザが唇を曲げる番だ。どうやらサロメなりの意趣返しらしかった。


 サロメは呼吸を乱しながらも、右手をよろよろと伸ばしてティーカップを掴んだ。


「これは千七百年代に作られたアンティークの拳銃よ。護身用に使われていたものね。オークションで落札していたものがようやく届いたの。とても素敵でしょう?」


 リザは軽く身を乗り出すと、サロメの手元をじっと見つめた。


「使うために買ったんじゃないんですか?」

「どうして私が銃なんて使わなくちゃいけないの」

「ドゥミモンデーヌだったら痴情のもつれの末に――なんてことがあるのかなあ、と」

「私の仕事を痴情のもつれって言うのやめてくれる?」


 サロメはふんっと鼻を鳴らすと、ソファの背もたれに深くもたれかかった。それからリザが近づいてきた理由を思いだしたのか、一瞬口を開くと、床に落ちていた新聞を掴んでリザに押し付けた。


「片すんでしょ、新聞」


 リザは両手を伸ばして受け取った。だが新聞の中に何か挟まっていることに気が付いて、軽く首を傾げる。上質な紙に見えたので指でつまんで引っ張り出した。


「カード……?」


 白い紙は窓から差し込む光に照らされて、眩しいほどに反射した。


「このカードは何ですか?」

「あら、そんなところに挟まっていたのね。どうりで見当たらないと思っていたのよ」

「……サロメ様って散らかすのはすごく得意ですよね」

「だって、あなたから仕事を奪ってしまったらかわいそうでしょう?」


 サロメは顔を上げるとリザの手からカードを受け取った。灰色の瞳が文字を追うように素早く動いた。考えるように唇に指を当てる。些細な仕草ですら色っぽいのでリザは肩を力ませた。


「これは招待状なの」


 サロメは指の間に挟んでひらひらと振った。


「ケルビーニ家で夜会を開くそうよ」


 両手で持っている新聞の上に、カードをぽんと乗せられた。触っていいのかいけないのか分からなくて、リザはそのままの体勢で直立していた。


 夜会とは地位ある人間――その多くは貴族である――が邸宅に人を招いて行うものだ。今回は狩猟クラブの関係者が招待されるものらしい。


「ええと……ケルビーニ家というのは有名なんですか?」


 サロメはため息を吐く。


「私の使用人なら少しは勉強しておきなさい。ケルビーニといえば子爵家よ」

「子爵家!? そんな人から招待状が届くんですか?」

「正確には私じゃなくて、あの人――サイモンに届いたものだけれどね。サイモンが顔を出しておきたいと言うから私が付き添うのよ」


 リザはなるほど、と呟いた。


 サイモンは彼女をドゥミモンデーヌとして囲っている貿易商である。初日にすれ違ってから数回顔を合わせたことがあるが、ふくよかなお腹を上下させながらにこにこと笑う彼は、人当たりがよい。リザのことも可愛がってくれる。商人としての才覚も目を見開くもので、同業者の中でも一、二を争う勢いだ。彼もさらなる利益を求めて人脈を広げたいだろうし、招待状があるなら喜び勇んで向かうだろう。


 サロメはにこりと笑った。


「そういうわけで、リザ。今日の仕事だけれど、仕立て屋に行って話を付けてきてちょうだい。ドレスを新調するわ」

「ええ……」


 まだ朝だと言うのにまた仕事が増えた。リザはげんなりした顔で肩を落とした。






 一人きりの外出は嫌いではなかった。サロメに気を遣わなくていいし、怒られもしないし、何より周囲の人目を気にしなくてもいいのだ。これほど気楽なものはない。


「自由だ……」


 リザは人混みにまぎれるように道の隅を歩いていた。今日は急ぎでもないからのんびりと歩いて行ける。リザは街並みを眺めた。


 高い建物がずらりと並んでいて、バルコニーは洒落たデザインの柵で彩られている。道にせり出しているカフェのテラス席は人でにぎわっていた。テーブルの上に乗っているサンドウィッチや珈琲を見ていると、吸いこまれてしまいそうだ。ちょうど昼時である。


 思わずよそ見をしながら歩いていたせいか、気づけばすぐ目の前に人影があった。


「あっ……!」


 足はもう踏みだしていた。もう遅い。ドンッと肩同士が勢いよくぶつかって弾かれる。リザの背中が反り返って、引っ張られるように後ろへと倒れていった。


 とっさに目をつむって数秒。上から声が降ってくる。


「すみません、お嬢さん。大丈夫ですか?」


 リザは閉じていた目をうっすらと開いた。下は舗装された道――腰に痛みが走るかと思っていたのにやってこない。代わりに腕と腰のあたりに熱を感じる。むしろなぜか目の前に男性の顔がある。リザは一息置いて、自分の状況を確認した。


 右腕を掴まれて、腰のあたりに腕が回されている。まるでダンスをしているかのような格好で、リザの身体は受け止められていた。抱きしめられるように顔が近い。リザは口をぱくぱくとさせながら、男の顔を見上げた。


「あ、あ、あの……すみませんでした!」

「いえいえ。ご無事で何より」


 男に引っ張り戻されて態勢を整える。両足をしっかり地面につけて、リザは手の指を組んだ。顔が赤くなっているのが自分でも分かるくらい熱かったし、全身がそわそわとしてしまう。


 とは言え男の方はまるで何も気にしていないらしく、にこにこと朗らかに笑っていた。


 男が身にまとっているのは軍服だ。軍人らしいということは一目で分かるが、時々見かける軍人のものとは違うデザインである。モールの肩飾りや胸元に光る勲章からして、階級が高いのかもしれない。だがそれにしてはずいぶんと穏やかな人間に思えた。口調も丁寧だ。


「ところでお嬢さん、ぶつかったついでに道をお聞きしてもいいですか?」

「え?」

「ここなんですけど……」


 男はポケットの中から折り曲げられた紙を取りだした。リザはのぞき込むと素早く目を走らせた。簡単な地図らしきものが書かれていて、乱雑な印は目的地を指しているようだ。


 リザは少し考えてから顔を上げると、眉を下げた。


「この通りは向こうの方ですね。でも、だいぶ遠いです」


 馬車を使った方がいいかもしれないです、と付け加えると、男は肩を丸めた。


「ああー……そうですか。逆方向に歩いてきていたみたいですねえ。俺は知らない場所を歩くのが苦手でして」


 彼は肩をすくめた。


「お嬢さん、お名前は?」

「リザ・ルーセルです」

「リザさん、助かりました。俺はオリヴィエといいます。見ての通り軍人ですから、この街で何か困ったことがあれば、俺までよろしくお願いしますね」


 オリヴィエは「それでは」と手を振ると、背を向けて立ち去っていった。リザはぺこりと会釈をしてから彼の背中を見送った。


 ふわふわとした空気をまとう人間に会ったのは久方ぶりで、少し話しただけなのにリザも癒されていた。オリヴィエは軍人のはずなのに、荒々しさを一切感じさせない不思議な人間だったのだ。リザはやや柔らかくなった表情で道を歩き始めた。

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