第11話 仕立て屋
彼と別れてから二十分ほど歩いて、リザは足を止めた。目の前には一軒の小さな店があった。店の屋根からつるされた木の看板には「ジュノー仕立て屋」と書かれている。年季が入っているのか、ところどころ字がかすれていた。
この仕立て屋はサロメが贔屓にしている店らしく、今回のドレスもここで仕立てる以外の選択肢はないらしい。想像していたよりも古びた外観の店だが、あのサロメが気に入っているのだから相当のものだろう。
リザは扉のガラスに映った自分を見て、少し乱れた前髪を直してから深く呼吸した。それからトントントンと軽くノックした。
「ごめんください」
言いながら扉を開ける。
扉の向こうはすぐ店内に通じているようで、完成したドレスが何着か壁にかけられていた。木の床には無数の糸や布の切れ端が落ちていて、店内はお世辞にも綺麗とは言えなかった。
まだ昼だから外から光が差し込んでいるが、室内の灯りがついていないので薄暗い。その上人の気配もしない。何かおかしいとは思いつつ、リザは扉のノブを握りしめたまま奥に向かって呼びかけた。
「ごめんくださーい……」
リザは首を傾げながら二、三度声をかけた。だがやはり人がいるようには思えない。
しばらく粘っていると、奥に影が見えた。向こうも暗いのでリザからは顔がよく見えなかったが、背丈は低かった。リザとほとんど変わらない程だ。影は壁から少し姿を見せただけだった。
「……今日は休みだよ」
聞こえてきたのは少年の声だ。まだ幼さを残している声はどこか甘いが、口調はいたって不愛想なものだった。
「外に閉店のプレートをかけておいたはずだけど」
「え!?」
リザはまだ掴んだままのドアノブを押して、半歩外へ身を乗り出した。扉にぶら下がっているプレートを見る。少年の言う通りだった。
サロメの言う通りに来ただけなのに閉店だなんて、とリザは目を見開いた。
普通なら出直すところだが、あのサロメのことだ、どうして仕事ができていないのかとリザを叩きだすに違いなかった。このまま帰るという選択肢は頭から消える。リザはひとまず扉を閉めるとその場で直立した。
「お休みなのにすみません。でも今回はお仕事のお願いをしに来ただけなんです。せめてお話だけでも聞いてもらえませんか?」
真向からお願いしてみる。リザが素直に帰るつもりがないと分かったからか、少年はつかつかと歩み寄ってくると、木のテーブルに手を付いた。
彼はリザよりも二つか三つ年下に見えるが、振る舞いは堂々としたものだった。身に付けている白いシャツには色とりどりの糸くずがついていて、どうやら彼も職人らしかった。
少年は腕まくりしていた袖を戻すと、面倒くさそうにボタンを閉じた。
「今日は師匠――店主もいないし、できれば出直してもらいたいんだけど」
「お話だけですから」
「僕だけで決めるわけにはいかないし」
「今決めていただけなくても、あなたの方から店主さんに伝えていただければ」
「はっきり言うけど、それが手間なんだよ」
「そこを何とか!」
「なんでそんなに食い下がるのさ」
少年はテーブルにもたれかかったまま腕を組んだ。うっとおしがられているのは火を見るより明らかだが、とは言えサロメにアパルトマンを叩きだされるのはもっと困る。リザは深々と頭を下げた。
「どうしても今日でないと困るんです。主人に言いつけられているので。それに納期までに日がないので、早くお話を進めないと――」
リザがつらつらと言葉を並べていると、少年が腕を動かした。木のテーブルは脚の長さが違うのかカタンと音を立てた。
「あのさ。仕事を受けるか受けないのかは別にして、あんたのご主人様の名前を聞いてもいい?」
リザは少年を正面に見たまま、彼女の名を口にした。
「サロメ・アントワーヌです」
沈黙が訪れる。リザは瞬きを繰り返す。少年はわずかに目を見開くと、息を吐ききるようなため息を吐いた。
「またか」
少年はテーブルについていた腕を持ち上げると、靴音を鳴らしながら奥の方へと引っこんでいった。奥には光が届かなくて薄暗いが一枚の扉があった。少年は扉の前で振り返る。
「中へどうぞ。どうせ今回も納期めちゃくちゃなんでしょ。こっちも仕事だからどうにかするけど、請求書は覚悟しておいてよ」
リザは何度も頭を下げてから、小走りで少年のもとへと向かった。
「それで、希望の納期は?」
少年はメモを片手に正面の椅子に腰かけた。
店の奥は作業場になっているようで、縫いかけのドレスがいくつか立てられている。漂う独特の匂いは染められたばかりの布があるからだろうか。
少年に勧められるがまま木の椅子に座ったリザは、膝の上に手を置いた。サロメからメモを渡されているので、少年に聞かれたことを読み上げるだけだ。リザは弱々しい声で、少年の顔色をうかがいながら言った。
「……それが、言いにくいんですけど、ケルビーニ家の夜会に間に合わせていただきたくて」
少年は眉をピクリと動かす。
「あの女は馬鹿なのか?」
少年はしまったとでも言いたげな顔で固まると、咳ばらいをした。ゆるく首を振ってからメモにペンを走らせる。
「失礼。デザインはどういうものを?」
「基本的にはお任せしますがいくつか条件が。色は赤。バックの大きく空いたもの。スカート部分は大きく広がっていて、レースを何層にも縫い付けてあって――」
「やっぱりあの女は阿呆なのか!?」
少年は握りしめた左拳で机を叩いた。机の上に乗っていたペンが宙を跳ねてカランカランと音を立てる。机は鈍い音を立てながら軋んだ。
感情に任せて拳を振るったのはいいが、存外痛かったのか少年は「うっ」と声を漏らして拳をさすった。背中を丸めたまま上目遣いでリザを見る。焦げ茶の瞳はわずかにうるんでいた。
「……っ、とにかく。仕事は受けるし俺から師匠に伝えておく。納期には何としてでも間に合わせるから、あんたは安心していいよ。あの女にもそう伝えておいて」
「ありがとうございます!」
「でもちゃんと言っておいてよ。こんな馬鹿げた納期を提示してくるような奴は、今までお前しか見たことがないって! ふざけるなって……!」
「善処します……」
リザは苦笑いのまま頷いた。この少年はずいぶんと立腹しているようだが、リザも命が惜しかった。
少年はメモを机の上に放り投げると、両肘をついたままリザをじっと見つめた。
「あんたも大変だね。あの女の使用人じゃ、ずいぶんと苦労しているんじゃないの?」
「まあ、それなりには……。こちらのお店にもご迷惑をかけたりしたんですか?」
「迷惑なんてもんじゃなかったよ」
少年は髪をかき乱した。
「毎回毎回、無理難題押し付けるし。あの女の一言でこっちは何日も徹夜だし。そのくせ金払いはいいから腹立つし。ほんっとうに迷惑極まりない!」
少年はわざとらしくため息を吐くと、乱れてしまった髪を軽く整えた。
サロメの無理難題に迷惑している人たちはこれまでにも多く見てきたが、目の前の少年のほど分かりやすい人はいなかった。幼さ故だろうかと思うが、もしかすると彼の性格そのものなのかもしれない。
だがリザに愚痴を言われたところで、彼女の手綱を握っているわけでもないのでどうしようもない。身体を小さくさせたまま視線をさ迷わせていると、少年はもう一度ため息を吐いた。
「僕はジル・カナール。ここの弟子。一応覚えといて。たぶんあの女の使用人なんてあと数ヵ月でやめることになると思うけど。……今までで一番長続きした人だって半年だったしね」
少年は頬杖をついたまま視線を逸らした。それは暗にやめるなら早いうちだ、と忠告してくれているのだろうと分かった。彼なりの親切心はありがたいが、リザはかぶりを振った。
「使用人をやめることはないです」
リザは今日初めてはっきりと言い切った。
「私はあの人に一万フランの借金をしています。一生かかっても返せませんから」
リザは薄く笑みを浮かべる。ジルは頬杖を崩すことはなかったが、目元を動かすと素早く瞬きを繰り返した。
「一万フランなんて、あの女からすればはした金なのに。なんの気まぐれ?」
「私のことが気に入らないそうですよ」
「……一体何やらかしたのさ、あんた」
ちょうど一時になったのか、壁時計が軽快な音楽を流し始めた。
ジルが眉をひそめたのは、疑問と同情によるものだったに違いない。
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