第9話 激情


 従業員用の薄暗い通路をゆっくりと進むサロメは、場に似つかわしくないほど優美だ。背がピンと伸びていて、一歩踏みだしても身体の軸が揺れることはない。ふんわりとした赤毛を揺らしながら歩いている彼女は、思いだしたかのように声をかけてきた。


「あれじゃ駄目ね」


 何の話をしているのか分からなかったリザは無言のままだった。サロメは振り返ることなくため息を吐いた。


「ドゥミモンデーヌとしては下策も下策だと言っているの。感情を晒すことは構わないけれど、感情に支配されているようでは、まるで話にならないわ」

「私、ドゥミモンデーヌじゃないです……」

「あなたの主人はドゥミモンデーヌよ。価値観くらい合わせて話を聞きなさい」


 ぴしゃりと言い切る彼女だったが、声色はいたって落ち着いたものだった。怒っているわけではないと分かったリザは、ほっと胸をなでおろした。分かりやすく身体の緊張を解いたものだから、見てもいないサロメにさえ伝わったのか、彼女はくすくすと笑みを零した。


「もし私があなただったら、そうねえ。一度手を出させた時点で人を呼んで、暴行を理由に後から制裁を加えたのに」

「……性格が悪い!」

「なんて?」


 不意に振り返ったサロメが満面の笑みを浮かべていたので、リザの全身に鳥肌が立った。


「いえ、何でもありません」


 サロメは従業員用の通路を抜けると、そのまま大広間の方へと向かっていった。出口とは真逆の方へ曲がるから、リザは思わず声をかけた。


「どこへ行くんですか?」

「決まっているじゃない、劇場よ」


 サロメの声はいつもより高かった。


「ボックス席を買ったのよ」

「買った!?」

「今日は下見だけのつもりだったけれど、思っていたよりもずっと良かったから、ついね。せっかくだから今夜の回を観ていくことにしたの。ついでにあなたも来なさい」


 中央の大階段の前までやってきて、リザはぴたりと足を止めた。着いてこないのを不思議に思ったのかサロメも立ち止まって振り返った。無言のまま促すが、リザはやはり動けなかった。


 大階段の広間は広々としていて天井も高い。輝くような金色に彩られた壁や、何層にもわたる彫刻、天井から釣り下がる透明なガラスのシャンデリア。


 リザは思わず自分の全身を見下ろした。


 地味な色の地味なドレス、ところどころ擦り切れそうになっている裾。腕まくりをするせいでほつれそうな袖。リザは視線を逸らしたままだ。


「何よ、早く来なさい」

「……私、今はあなたの使用人です。連れて歩くのはあまり……」

「それがどうしたって言うのよ」


 彼女は腰に手をやった。頭から光を浴びながら、堂々とした佇まいでリザを見つめていた。


「あなたのその卑屈そうな顔の方がよっぽど惨めよ」


 淡々とした声で言ってから、しかし自分の言葉を反芻するように彼女は首を傾げた。


「でもそうねえ、見た目が気になるのは確かよね。いいわ、日があるうちに店を回りましょうか。いい加減その服にも見飽きていたところなの、私がドレスを見立ててあげる」

「あの!? そうじゃなくてですね、私を連れて行くのをやめるだけで全部解決――」

「返事は?」


 久しぶりに聞いた言葉だ。リザは諦めたように「ウィ」とだけ答えた。


 そして数時間後には、リザの全身はサロメによって塗り替えられていた。


 主人から服を譲り受けることはあっても、主人から服を買い与えられることなどそうないことだ。だと言うのにサロメが選んできたのは、大商人の娘が着ても遜色がないほどの品ばかりだから、もはや悲鳴も出なかった。


 着せ替え人形みたいだ、とリザは全身をぐったりさせながら呟く。卑屈さから彼女の意見するのは二度とやめておこう、とたっぷり後悔した。


 休む暇もなく劇場へと戻った二人は、今度こそ奥へと進んだ。買ったばかりだというボックス席への扉を開けて中へと入る。席までには少しの通路で隔たれていて、コートをかけておくクロークがあるし、休憩用の小部屋も用意されていた。


 サロメは上着を脱ぎながら、鏡に似映るリザを見て笑った。


「いいじゃない。私が選んであげただけのことはあるわね」


 リザもまた鏡へと視線をやった。シンプルなデザインだが、肌触りのいい生地とさりげない刺繍が洒落ていた。


「服に着られているような気がするんですけど……」


 リザが身体の前で組んだ手をもじもじとさせていると、サロメは肩をすくめた。


「そりゃあそうよね。さっきまで着ていた服と桁が三つ違うんだもの」

「み……っ!?」

「だから、そのドレスが似合う人間になりなさい」


 サロメはリザの腕を掴むと、軽く引いた。着いてこいと言わんばかりの仕草にリザは黙って足を動かした。


「使用人にこんなものを買い与えるなんて……。もっといいお金の使い方があると思います」

「そういえば言っていなかったけれど、あなた、私がただの金遣いの荒い女だと思っているでしょ」

「……ま、まあ」

「違うわよ」


 サロメは小部屋の前でぴたりと足を止めた。振り返ることなくぽつりと零した。


「私は浪費しなくちゃいけないの」


 彼女は音もたてずに扉を開けた。


「浪費は義務よ。だってドゥミモンデーヌは、男の金をちり紙のように使う女だから。目の前に詰まれた札束に火をつけて、揺れる炎を楽しむの。誰からみても正気に見えないわよね。でもそうでなくちゃならないの。悪い女だからこそ、みんな私のことを好きになるんだから。清廉だとか誠実だとか、そういうものはいい妻になれても、いい愛人にはなれないのよ」


 彼女は手招きをした。リザは誘われるままに扉の前に立ったが、背中をとんと押されて小部屋の中へと押し込まれた。つんのめって、振り返ったときにはサロメがすぐそばにいた。


「あなた、地獄に落ちるのが怖くないのかって訊いたわよね」

「……はい」

「私はドゥミモンデーヌよ。私が私であるためなら、地獄に落ちてもいいし、狂ってもいいわ」


 サロメが距離を詰めてきた。リザは戸惑いながらも後ろへ下がっていく。しかし数歩歩いただけでもう壁だ。リザは「え、え」と声を漏らすが、サロメは真顔だった。壁際に追い詰められたリザは視線を惑わせた。


「私を見なさい」

「あの、だいぶ近いんですけど……!?」

「ねえ、知ってる? ボックス席って逢引にはぴったりな場所なの。こうやって部屋にもつれこんでキスをすれば、誰だって劇そっちのけで夢中になるんだから――」


 サロメの顔が近づいてくる。「あ」と声が出ただけでリザは両目をぎゅっとつむったまま、身体を硬直させた。ふふ、と柔らかい笑い声が降ってきた後、額に何かが触れたような気がした。


「初心ねえ。リザ、あなたはドゥミモンデーヌには向いていないわ」


 遠くで拍手の音が響いている。リザは耳まで真っ赤にしながらサロメを軽く睨みつけたが、彼女は気にした様子もなく機嫌よく笑みを零していた。


「まだ何でもないあなたは、一体何になるのかしら」


 すっと身体を離すサロメの肩から、赤毛が一筋流れ落ちた。視線を逸らせずにリザは両手を握りしめた。リザは生まれ変わってもドゥミモンデーヌになれそうにないが、それでも、彼女の何気ない言葉を裏切ることもできなかった。


 何になりたいかなど分からない。狂ってでも自分らしくいたいなんて思えるほどの激情も宿っていない。


 ただ、サロメ・アントワーヌという女に認められたい――それだけは確かだったのだ。


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