第8話 決着
リザは力のこもらない右腕をゆっくりと持ち上げて、二人の身体の間に滑り込ませた。胸倉を掴むナタリアの手に重ねる。ナタリアの手はピクリと跳ねたが、上から抑え込むように掴んだ。ナタリアは吠えるように口を大きく開けた。
「何するのよ、離しなさいよ!」
「私が何もしてないから、何なんですか……」
「はあ?」
「私ばかり優しくされてる? チヤホヤされてる? そんなの、私には全然関係ないことじゃないですか!」
リザも負けじと声を張り上げた。
「私は誰かに優しくしてほしいなんて言ったことはありません! あなたの言うことは全部私とは関係のないことじゃないですか! 私にどうしろって言うんですか!?」
リザの短く切り整えられた爪がナタリアの肌に触れて、その瞬間、リザは無理やり手を引きはがした。
「きゃっ……」
「っ!」
不安定な体勢だったから思い切り体重がかかって、ナタリアは後ろにのけぞった。重心を支えきれなかった片足が滑って、彼女は「あっ」と声をあげた。ナタリアがひっくり返る。服の端を掴まれたままのリザも引っ張られて、リザは覆いかぶさるようにして前に傾いていった。
激しい物音がして、二人はもつれこむようにして倒れていた。
「つ……」
派手な音の割に痛みがあまりない。リザが恐る恐る目を開くと、自分は座りこむようにしてぺたんと腰をついていた。しかし床にしてはあまりに柔らかい。
リザの下敷きになるようにして、ナタリアが仰向けに倒れていたのだ。呻いている彼女を見て、リザの全身からさっと血の気が引いた。
「ナタリアさ……、頭打って……!?」
「うるさい!」
慌てて身体を起こそうとするが、わずかに身体を持ち上げたナタリアは腕を振るう。また胸倉を引っ張られたリザは前かがみになった。馬乗りになったままで身動きが取れない。
「何もしてないあんたが、あんたばっかり、なんで好かれるのよ……」
しゃくりあげるような細い声が聞こえる。すぐ目の前にあるナタリアの顔が歪んでいて、彼女の目は鋭くリザを憎悪していた。リザは息を呑むが、名前を呼ぶよりも早く、彼女は呪うように繰り返す。
「嫌い、嫌い、嫌いなの……。あんたが嫌い! 黙ってるだけで優しくされるあんたが嫌い、何もしてないくせに、笑ってるだけで心配されるあんたが嫌い。嫌いなのよお……」
まるで愚図る子どものようだ。泣き出しそうな声で何度も「嫌い」と言うのに、その声はあまりにも弱々しい。リザは今さら傷ついたように目元に力をこめたが、しかしナタリアがそうするように、彼女の服をきつく掴んだ。
――あなたはどうしたいの?
サロメの灰色の目が、誰よりも真っ直ぐ、リザのことを見つめていたのだ。
「私、もう黙っているつもりはありません……」
リザは大口を開けた。
「聞こえないなら何回だって言ってやります。私だってずっとあなたのことが嫌いだった! あなたは誰よりも真面目に仕事をして、私よりずっとちゃんとしている人のはずなのに嫌がらせばかりして! どうして!? どうしてそうなるんですか!?」
「は……あ?」
「私のことが気に入らないなら、もっと別な方法があったでしょう!? なんで自分から嫌な人になっちゃうんですか!」
「嫌な人……?」
「思いたくなかったけど、思うしかないじゃないですか!」
床に倒れこんでお互いに胸倉を掴みあったまま沈黙が流れて、リザは勢いよく顔を上げた。
「言っちゃだめだと思ってた……。言ったら、本当になってしまうみたいで嫌だった。とっくに本当なのに。だからずっと馬鹿みたいに気づかないふりしてた! いつか変わるんだって! でもやっぱり駄目だった。私がいくら目を逸らしてても何にも変わらない。ナタリアさんはずっと嫌な人のままだった!」
リザはナタリアの服をきつく握ったまま、揺さぶるように手を動かしていた。もう自分が何をしているのかもよく分からなかったが、それでも口は感情を吐き出すことをやめなかった。今まで降り積もらせた分が、雪崩を起こしてリザを飲み込んでいるのだ。
怒りと悲しみと悔しさがリザの体内を蝕むように巡っていった。まるで毒のようだ。
自分では押さえようのない感情がリザを突き動かしていて、もう止まりたいのに止まり方も分からなくて、リザは怒鳴るだけだった。リザは呼吸を乱しながら訴えていた。
――どうしよう、どうしよう、どうしよう。
そんな言葉さえも一瞬で掻き消えていった。頭の片隅は冷え切っているはずなのに、熱に侵されてゆだりそうだ。頬が、耳が、口の中が、頭が、熱い。熱くて熱くてたまらない!
「そこまで」
扉の向こうから女性の声がして二人はぴたりと動きを止めた。
混乱していたはずなのに、たった一言で熱が冷めて我に返ったのだ。そのままの姿勢で動けずにいると、ノブの回る音がして扉がゆっくりと開き始めた。
自分を制したのはサロメだとすぐに分かった。部屋に光の筋が伸びて華美なドレスの裾が揺れるのが見えた。
「私の使用人に乱暴をするということは、このサロメ・アントワーヌに対する侮辱に他ならな――」
サロメの声はいつもと変わらず、やはり毅然としたものだ。しかし床でもつれあっている二人の恰好を見て、サロメはドアノブを掴んだまま立ち尽くしていた。
「……リザ、どうしてあなたの方が馬乗りになっているのよ」
どうやらサロメの期待した光景とはずいぶん違うものだったらしい。サロメはため息を吐くと緩く首を振った。
「確かに煽ったのは私だけれど、まさかこうなるとは思っていなかったわ……」
サロメはヒールの音を鳴らしながら近づいてきた。まだ動けずにいる二人の傍に立つと、少し身をかがめてリザの二の腕を握った。そのまま大して力もいれずに引っ張る。リザが腕を振りぬけばすぐに解けただろうが、抵抗することなくち上がった。
「先に手を出したのはどちらにしろ、この状況じゃ駄目ね」
サロメはリザの方を見遣った。リザの襟が乱れているのを見つけると、無言で整えた。そしていまだ床に腰をつけたままのナタリアを見遣った。
「ねえ、そこのあなた。私の使用人があなたにずいぶんと乱暴をしたみたいね。でもあなただって手を出したのだから、都合の悪いこともあるでしょう。ここは痛み分けということでいいかしら?」
「…………?」
「お互いなかったことにしましょう、と言っているの。返事くらいしてちょうだい」
ナタリアはしばらく放心していたが、我に返ったように肩を揺らすと、素早く頷き返した。三回頷いたところでサロメは片手を上げて制した。
「あなたが聞き分けのいい人で良かったわ。面倒は嫌だものね」
「……っ、申し訳ございません、お客様」
「ええ、いいのよ。今の私はお客様としているわけではないから。私はドゥミモンデーヌで、あなたの元同僚のご主人様なの」
サロメは目を細めた。
「今日のことは忘れていいけれど、でも一つだけ覚えておいて。リザ・ルーセルはもう私のものよ。そして私のものに手を出す人間は、誰であっても許さないわ」
彼女はナタリアを見下ろしている。その表情は見えなかったが、声はひどく淡々としている。
「逃げたって無駄よ。パリのどこへ行ったって私が、この私があなたの手を引いて、セーヌ川のほとりまで連れて行ってあげる!」
ナタリアは青い顔で頷き返したが、彼女の言わんとしていることが分かったのはリザだけだろう。
――次はおまえを簀巻きにしてセーヌ川に流す。
至極丁寧な言葉で告げたサロメは唇に笑みを浮かべていた。今までに見たどんな女性よりも美しくて、純真で、なのに艶やかで、燃え盛る炎のように苛烈だった。
「行くわよ」
「は……はい!」
くるりと背を向けたサロメは一瞬だけ視線を投げた。しかしリザを待つつもりはないのか、扉を開けさっさと出て行ってしまった。ドレスをひるがえしながら去っていく彼女の背を、リザは駆け足で追いかけた。
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