第7話 積年
「今さら戻ってきて、あたしを呼び出したりして」
「……少し話をしたかっただけです。本当に」
「あたしたち、話すことなんて何にもないでしょ。それとも何、恨み言でも言いに来たの?」
彼女の声は刺々しかった。リザはすぐにでも首を振って言い訳をしたくなった。しかし寸前のところで動きを止める。――ああ、そうだ。今までずっとナタリアのきつい口調と視線が怖くて、笑って誤魔化してしまっていたのだ。
リザは曖昧に視線を返しただけで答えなかった。ナタリアは不機嫌そうに靴先で音を立てるから、リザは急かされるままに話を始めた。
「私、七日前からサロメ様の使用人になったんです」
ただの事実だ。ナタリアは少し離れたところに立ったまま、足元を見ていた。
「へえ、本当に娼館行きじゃなかったんだ。おめでとう」
「扱いはあんまり変わらないですけど」
扉の向こうでは足音が忙しなく聞こえている。リザはちらりと振り返って、けれどすぐに彼女の方に向き直った。視線を下げ、何度も瞬きをしながらゆっくりと言葉を紡いだ。
「あの人、びっくりするくらい美人ですよね。でもすごく横暴で最悪なんです。今日も早朝から叩き起こされたし。小物を選ぶセンスがないって罵倒されたし。作ったご飯がまずいって言われて作り直したし……」
「ここで下働きをしていた方が何倍も楽だった?」
「はい」
「あんたにしてはずいぶんはっきり言い切るじゃない」
ナタリアが「はっ」と笑った。
「……ねえ、気分はどう?」
ナタリアは皮肉のように冷たく言った。リザは肩を揺らしたが、少し伏せていた顔を上げた。ナタリアが唇の端を吊り上げるのがよく見えた。
「あたしのせいで、こんなことになってるのよ。気分はどうなのよ?」
「最低です――って言いたいところなんですけど。そうでもないです」
リザはぎゅっと両手を握りしめた。
「あの人は横暴だし、自由奔放だし、浪費癖は酷いし、何考えているのか全然分からないような人です。理解できません。意味不明です。正直、人としてどうかとさえ思います。でも、それでも、あの人はすごく真っ直ぐで、強くて。私とは一生交わらない人だと思っていたけど、あの時ナタリアさんが私を突き飛ばしたから私はあの人と会えました。会えてよかったと思います。だからそういう意味では悪くなかった。……だけど」
リザは息継ぎもしないままま言葉を続けた。ごくりと唾を飲みこむと、乾いた喉がツキンと痛んだ。息を吸おうとしたが、ここで言葉を区切ってしまったらもう二度と言えないだろうと自分で分かっていた。冷静になってしまったらまた怖くなって、子どもみたいに腹の奥がすくんでしまうのだ。
きっと今しかない、今しか言えない。これが最後だ。
リザはナタリアを正面から睨みつけた。
「だけど、私はあなたを許していません」
声はかすかに震えていた。ナタリアは口を薄く開いたままリザを見ていた。切れ長の美しい目は瞬きもせずに固まっていた。何か信じられないようなものを見るような目で、リザを見ていたのだ。しばらく沈黙が続いてナタリアはようやく唇を動かした。
「……は?」
ナタリアが絞りだすようにして言った言葉は、ひとり言のように小さなものだった。しかし怒気をはらんだ呟きは低く、薄暗い部屋に響き渡っていた。リザはびくっと身体を揺らす。彼女は深く呼吸するとゆっくり言い聞かせるように言う。
「あたしがやったって、どこの誰が証明してくれるのよ」
「証明してくれる人は、いません」
「ほら――」
「あの時のことを知っているのは、私とナタリアさんと、あの人だけです」
予想外だったのかナタリアは目を見開いた。リザは続ける。
「今さらどうしようもないことですけど、でも、ちゃんと言っておきます。今まであなたにされてきたこと、何一つ許していません」
「……だから何だって言うのよ」
リザは止まっていた息を吐きだす。
「私は、ナタリアさんが嫌いです」
言い切って、リザは目を逸らさなかった。明るいヘーゼル色の瞳は少しも揺れていなかった。
部屋は静まりきっていた。ナタリアが弾かれたように動きだして、大股で歩いてくる。リザとの距離を詰める。リザは思わず後ろに下がろうとするが背中が何かに当たった。背後は壁でこれ以上後ろにはいけない。追い詰められたリザはひゅっと喉を鳴らした。リザより上背のあるナタリアが目の前に迫っていた。
「…………何よ」
ナタリアの腕が伸びて、勢いよくリザの胸倉を掴み上げた。
「何よ、何よ、何よ……!」
「っ!」
「あんた調子乗ってない? 何様のつもり?」
胸倉を掴まれたリザはろくに動けず、壁に背を付けたまま固まっていた。ナタリアは吐き捨てるようにまくしたてた。
「あたしはねえ、あんたみたいなのを見てるとイライラして仕方がないの! 気弱そうに黙ってニコニコしてたら、周りの方が嬉しそうにあんたのことチヤホヤしてさあ! つつましい女のつもりなの!?」
甲高い怒鳴り声が耳をキンと刺した。首元の布地をきつく締められて、リザは息を詰まらせた。吐き気がしてうっと喉を鳴らすが、彼女の剣幕に飲み込まれて何もできなかった。かかとをわずかに上げたまま目を薄く開いている。そんなリザの顔にさえ怒りがこみ上げるのか、ナタリアはますます声を張り上げた。
「若いから何よ、可愛いから何よ! なんであんたはそんななの? あんたなんて黙ってもじもじしてるだけで何もしてないじゃない! 私なんて誰よりも働いて、誰よりも頑張ってるのに。なのに何もしてない奴がなんで? 何もしてないくせに! 何も、してないくせに……!」
次第に声が掠れてくる。ナタリアは肩で息をしていた。リザは彼女の顔を見て、やはり呼吸を止めた。
「なんで、あんたばっかり優しくされてるのよ!」
石油ランプの細い火がゆらりと揺れている。
襟を掴み上げるナタリアの手にはますます力が入って、リザは息苦しさに顔を歪めた。リザは噛んでいた唇を薄く開くと、はっと短く息を吸いこんだ。
「……勝手なこと、言わないでください……」
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