第6話 再会
うっすらと明るさを取り戻し始めた早朝、リザは叩き起こされた。
寝坊したのだと思って飛び起きたのはいいが、窓の向こうを見る限り違いそうだ。リザはベッドの上で目を白黒させていた。まだ覚醒しきっていない脳がぼんやりと記憶を辿る。
昨夜は少し早めに仕事を切り上げて、使用人室で着替えて、就寝前に聖書を読んで――それからサロメが押しかけて来たのだ。そうだ、髪飾りの件で話をした。サロメがあんまりにも馬鹿にするものだから、怒りのあまりつい口を滑らせて――。
「や、やらかした!」
血の気も引くような大失態だ。思わず叫ぶと、人影が勢いよく振り返った。
「今何時だと思っているのよ。静かにして!」
ベッドサイドになぜかサロメが立っていた。ますます状況が分からない。リザは目を見開いたままで固まった。
「あ、あれ……? なんで、ここに?」
「数十秒前の記憶もないの? 私があなたを起こしたのよ」
「すみません、数十秒前の記憶もなくて……」
「何でも謝っておけばいいと思っていない?」
サロメは呆れたように首を振った。彼女は部屋の隅にある椅子を引くと、ゆっくりと腰を下ろす。薄いワンピースが床についた。今日は珍しく寝巻のままだ。
「お着替えは……」
リザが恐る恐る問いかけると、サロメは何てことはないと言いたげに、梳いたばかりの髪を背中に流した。
「一人でコルセットは巻けないから、あなたにしてもらおうかと思って。それと化粧も」
「私が、ですか?」
「同じこと言わせないで。返事は?」
「ウィ……」
「だらしがないわね」
サロメはふっとため息を吐いた。
「昼から出かけるわ」
サロメはそれだけ言って、後は窓の方を見ていた。
サロメが突然予定を変えることは不思議でも何でもなかった。しかしまさか未明から起こされて、サロメの身支度までさせられるとは思っていなかったのだ。
サロメにドレスを着せるのは一苦労だった。劇場の下働きをしていたときも、役者に衣装を着せることがあったから自信はあったのだが、サロメのドレスは比べ物にならないほど高価なのだ。装飾だらけで重いし、どこを持っても破いてしまいそうで怖いしで、サロメが着替え終わった頃には肩で息をしていた。
「何疲れているのよ、これから化粧よ?」
うっ、とリが顔を歪めて、サロメに叱られたのはごく自然な流れだ。
サロメの身支度が完璧に終わったのは一時間半後で、リザの身支度は十分で終わらせた。それから朝食を用意して、食べて、片付けをするのに一時間。休憩を挟むことなく、すべての部屋を掃除するのに一時間。洗濯をするのにまた一時間。なんだかんだと仕事をしているうちに、気づけば昼も近くなっていた。
予告通り、サロメは昼になるとアパルトマンを出た。当然リザも一緒だった。行き先は知らされないままリザは馬車を呼んだ。乗り込んでからサロメが御者に声をかける。
「ポルト・サンマルタン劇場まで」
その時、リザはようやく今日の行き先を知ったのだ。
「……まさか」
「そのまさかよ」
そこはかつてリザが働いていた劇場で、サロメの使用人などになる原因となった場所でもある。馬が短く鳴いて、馬車がゆっくりと動きだした。サロメはにっこりと笑っている。
「動くのに遅すぎることなんてないって言ったでしょう?」
「いやいやいや」と意味もない言葉がリザの口を突いて出た。しかし走り出した馬車から飛び降りることはできなかったので、リザは呆然としたまま座っていた。
劇場が開く時間まではまだだいぶある。知っていながら気にせず扉を開けたサロメのもとまで、人が飛んでくるまでは早かった。
「あの、お客様! 開場のお時間はまだ……」
困り顔でやって来たのは劇場の支配人だった。リザからすれば前職の雇い主で、気まずさから隠れてしまうが、サロメといえば堂々としたものだった。
「あら、ごめんなさいね。来期のためにボックス席を買いたいのだけれど、開演前に見せていただける?」
「は、はい。なるほど、そういうことでしたか。どうぞ、どうぞ。ご案内いたします」
商売の気配がする、と分かったとたん支配人は笑みを張り付け、機嫌のよさそうな声を上げた。両手でネクタイを直すとサロメを連れて去っていった。
ボックス席は他の席と区切られた特別な空間だ。シーズンごとに賃貸する仕組みだから、今日はその下見ということらしかった。
サロメはふと足を止めて振り返ると、リザに声をかけた。
「しばらくしたら戻るわ。あなたは好きにしていなさい。同僚と積もる話もあるでしょうし」
「は、はあ」
サロメは軽く手を振ってから本当に行ってしまった。リザを連れてくるだけ連れてきて、あとは我関せずといった様子だ。
「どうしろって言うの、これ……?」
リザは棒立ちになったまま首を傾げた。機会だけ与えられてもどうしようもない。
「言わんとしていることは分かるけど……」
機会を生かすも殺すも自分次第よ、なんて言葉が彼女の声で再生されそうだった。どちらにせよ広間に突っ立っているわけにもいかず、リザは下働きたちのもとへと向かった。
「リザ! こんなところに、どうして!?」
休憩室のドアを恐る恐る開けてみれば、すぐにこれだった。第一声に、部屋にいた下働きたちが一斉に振り返ってリザを見た。誰もが驚いたように手を止めていた。リザの顛末は噂になって一瞬で駆け抜けただろうから驚くのも無理はない。リザはもじもじと手先をいじった。
「サロメ様がここに用事があったみたいで……。少し時間をもらえたので、ここに顔を出しておこうと思って。この前はろくに挨拶もできなくてすみませんでした」
リザはぺこりと頭を下げる。
ちょうど昼休憩の時間だからか、集まっている下働きの数は多かった。狭い部屋には荷物が散乱していて、下働きたちは各々の場所を確保しながら急いで食事をしていた。テーブルが空いていなくて、床に座りこんでいる者も多い。
顔なじみの下働きたちはスプーンやフォークを持つ手を止めると、火が付いたように口々に声をかけてきた。狭い部屋はあっという間に盛り上がって、リザはあちこちを向いては丁寧に答える。使用人たちのなかにはあのアロイスもいて、彼は心底心配そうな顔で尋ねてきた。
「食事はちゃんととっている? 仕事はつくらない?」
「大丈夫ですよ」
「君はどんなに仕事を抱えていてもそう言うから……。でもリザの顔が見られてよかったよ。安心した。どのくらいまでここにいられるの?」
「サロメ様が下見から戻ってくるまでです」
「サロメ・アントワーヌには優しくしてもらえている?」
一瞬言葉に詰まってしまうが、すぐに口を開いた。
「あの人は――」
リザが言い切るよりも早く、遠くからベルの音が響いてきた。耳にするや否や、下働きたちは手早く私物を片付け始めた。休憩が終わる合図だ。片付けをしながらもだらだらと会話を続けていると、扉が音を立てて開いた。
「休憩はもう終わり! ベルが鳴ったでしょう、早く仕事場に戻って!」
声が響く。半分開いた扉から見えたのは、忘れもしない彼女の顔だった。
「ナタリア、さん」
小さな声で名前を呼んだ。ナタリアのはっきりとした目元は動揺で震えていた。
「――リザ?」
「……はい」
それ以上に何を言えばいいのか分からなくて、リザは短く返事をしただけだった。ナタリアも何も言えないまま固まっていた。顔色は悪くて、頬の赤みが消える。
きっとお互い二度と会いたくないと思っていた相手だろう。
「なんで、あんたがここに」
「ナタリアさん。仕事、お手伝います。……少しだけ話しませんか」
だからリザがそんなことを言い出すなんて、リザ自身でさえ想像していなかった。
ナタリアが「仕事だから」と断ることは十分に予想できたことだった。それでも彼女が首を縦に振ったのは、ひとえに周りの目のせいだった。やっと顔を見せたリザがそこまで言うのだから、と誰もが思ってるのだから、すげなく断るなんてことはできなかったのだ。それに彼女が想いを寄せるアロイスだって二人のことを見ていた。
「……分かったわ。じゃあ、荷物を運ぶのを手伝って」
ナタリアが折れる形になって、二人だけで別室に移動した。通路を歩いている間は二人とも黙りきっていて、痛いほどの沈黙が続いた。距離はそんなになかったはずだが、どこまでも続くのではないかというほど遠く感じてリザは俯いていた。
ナタリアに連れられてやって来たのは衣裳部屋だった。
衣裳部屋はドレスや小物が所せましと並んでいるから、足の踏み場は少ない。色とりどりの衣装に囲まれながら、二人とも静かに立っていた。
先に口を開いたのはナタリアだった。
「……あんた、今さらどういうつもりなの?」
彼女は棚にもたれかかると、睨むようにリザを見た。
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