第5話 特別
「……っ、すみません。何でもありません」
「何よ。言いかけてやめないでちょうだい」
「いえ……」
リザは力なく首を振った。火に油を注ぐことはしたくないし、なぜ言おうとしたのかも分からない言葉だ。このまま飲み込んでしまった方がいい。
どんな理不尽を突き付けられたって、黙ってへらりと笑っていることで上手く生きてきたのだ。
しかしサロメがここで許すことはなく、鋭い視線でリザを射抜いていた。だんまりを否定する表情にリザは唇をぴくりと動かした。その一瞬を見逃さないとばかりにサロメは追い打ちをかけてくる。
「言いなさい」
「……わざわざ怒りを買いにいくほど馬鹿じゃありません」
「そうやって言いたいことを飲み込んで、やり過ごしたようなつもりになっているほうが、よっぽど馬鹿じゃないの?」
「それが普通です」
「あなたも、みんなも、ずいぶん窮屈な生き方をしているのね」
リザはぎゅっと両手を握りしめた。彼女の言うことはすべて本心だ。言うべきでないことを言わないでおくことを本気で窮屈だと思っているし、馬鹿だとも思っている。それが分かるからこそリザはいっそ腹立たしいとすら感じた。
きっとサロメ・アントワーヌという女は、人並みの苦しみを味わったことがないのだ。だからそのような甘いことが言えてしまうのだ。
「――る」
リザはぽつりと呟いた。
「何? 声が小さいのよ」
「………っ」
「口もきけないの?」
サロメが甘い声で小馬鹿にしたように笑う。愚かな生き物を眺めているような顔だった。
あまりにも屈辱的だった。今までに持ったことのない強すぎる感情に、リザの顔はカッと熱くなっていた。喉の奥から何かがせり上がってくる。駄目だ、と誰かが言ったような気がした。これ以上を口にしてはいけない。だが我慢ができないのだ。それを吐き出したのはほとんど衝動だった。
「馬鹿げていると言ったんです」
リザははっきりと言い切ると顔を上げた。一度口にしてしまえば、堰を切ったように流れ出してきた。リザは立ち上がる。椅子が倒れる音が派手に響いた。
「みんながみんな、あなたみたいな人間じゃないんですよ」
「……どうして?」
「言いたいことを言って、上手くいくような人生じゃないんです。叩き潰されるんです。どこかで必ず報いを受けるんです! だから黙っていなきゃいけないんです。そういうものなんです。……あなたは特別で。私みたいな何でもない人間は、黙っていないといけないんです! こんなの、あなたには一生分からないでしょ? 何もかも持ってるあなたには分からないでしょ!? 分からないくせに勝手なこと言わないでください!」
耳に痛いほどの声が反響した。暗闇の中で蝋燭の火がゆらゆらと揺れた。
リザは一息に言い切って、肩を軽く上下させながらサロメをきっと睨みつけた。唇はまだ怒りで震えていた。握りしめた手が痛い。こんな風に感情を爆発させたのはいつぶりだろう、もう記憶にない。
リザは腕をだらんと垂らした。
そしてゆっくりと青ざめる。
今度こそ何もかも終わった。
リザは荒く呼吸しながら思った。全身が熱いのに、頭のどこかがやけに冷静だった。リザは暴言を吐いておいて許される立場ではない。一度はサロメの気まぐれで助かったというのに、自ら幸運を手放すようなことをしてしまった。馬鹿なことをしたと思う。
リザは顎を下げた。雑にまとめている髪がさらりと揺れた。ふっと息を吐いてサロメを見る。彼女もまた微動だにすることなくリザを見ていた。
「……そう」
サロメは小さく呟いた。静かな部屋に響き渡る声に、リザは身体を強張らせる。しかしサロメの口から出たのは怒声ではなかった。
「言えるじゃない、あなたも」
サロメは目を細めていた。隙間風で彼女の髪が小さくなびいた。彼女にはやはり怒りの気配はない。それどころか唇に笑みを浮かべていて、顔つきはどこか穏やかだ。
リザがぽかんとしたまま立ち尽くしていた。
「何、が……」
「何って」
サロメは一歩、二歩、足を進める。ヒールの音が鳴る。部屋の中に入ってきて、彼女はリザの目の前で足を止めた。腕を伸ばせば触れられる距離だった。
「人に突き飛ばされて、一万フランをふっかけられても、私諦めがいいんですって顔で笑ってるだけだったのに。ちゃんと思ってることを言えるじゃない」
リザは手をピクリと動かした。彼女が劇場での出来事を言っているのだとすぐに分かった。リザは胸元で手を握った。
「なんで、知って……」
「分かるわよ。あの時のあなたの顔と視線を見ていれば、簡単に」
サロメはぴしゃりと言い切った。
「あなたはあの下働きに突き飛ばされて、ワインを私のドレスに引っかけることになった。それも事故じゃない、故意だったわ。だから責められるべきはあなたじゃないわよね」
「……全部知っていたんですか?」
「私、本当はドレスなんてどうでもよかったの。あんなの、その日に捨てたわよ。一万フランだって私にとってははした金。あなたのしたことなんて私からすれば些細なことよ。だったらどうしてあなたを使用人にしたかって――今思ったわよね?」
サロメは右腕を持ち上げた。白く細い腕がリザに向かって伸ばされた。リザは逃げるように身体をよじったが、彼女から目を逸らすことはできなかった。サロメは瞳の奥をきらめかせる。
「あなたのその態度が気に入らなかったからよ」
彼女の手が顎にかかった。くいっと顎を上げられて、あの日の夜のように無理やり視線を合わせられた。美しい顔がすぐ目の前にある。サロメは艶やかに口角を上げた。
「自分は悪くない、自分は上手くやっている、それなのに周りが自分の頑張りに応えてくれない。世界が自分に優しくないだけ――そんな甘えたことばかり思っているあなたが気に入らないのよ。この世の誰よりもね」
冷えた指先がリザの肌をなぞった。リザは首を振ろうとして、それができないことに気が付くととっさにサロメの手首を掴んだ。思っていたよりもずっと華奢な腕だ。力をこめれば折れてしまいそうで一瞬ひるんだが、しかしリザは掴んで離さない。
「そんなこと、思っていません!」
「嘘をつかないで。分かるのよ、あなたがどれだけ甘い気持ちで生きているかくらい。そのくせ自分だけが恵まれていないなんておかしな話よね。私が特別? そんな冗談ちっとも笑えないわ」
「……でも実際、あなたは私とは違うじゃないですか!」
「ええ、違うわよ」
サロメは手のひらに力をこめた。
「私はあなたみたいに腑抜けていないの。私は自分の力でここまで来た。やっとここまで来て、まだ上に行きたいの! 邪魔なものはこの手で払いのけるわ。何を犠牲にしてでも。私にはそれだけの覚悟がある」
サロメは静かに息を吐いて、そしてリザの瞳の奥を覗きこむようにじっと見つめた。
「自分のために動けない人間は、どこまでも落ちていくわよ」
その言葉こそがサロメという人間のすべてなのだとリザは悟った。リザは無意識に息を止める。苦しいのにサロメの視線から逃れられない。身体の奥が、心が、震えるようだ。
「……あなたはどうしたいの?」
サロメの問いかけはたった一言だ。
「私、私は……」
リザは言葉を詰まらせた。一度でも吐き出してしまえば、心の奥底にしまい込んだものが溢れてきてしまいそうで怖かった。今までずっと諦めてきたのだ。諦めて、見ないふりをすることで心穏やかであれたのだ。だからこの感情を認めてしまえば、押し込めていた分だけ激情に飲まれてしまう。
リザは唇を強張らせた。戸惑う子供のように視線をさ迷わせる。サロメは仕方がなさそうに眉を下げると、親指でリザの唇を優しく撫でた。
「……っ!」
甘美な熱にリザの肩が跳ねた。彼女の指が唇をつーっと艶やかに伝っていく。まるで恋人にするような仕草にリザは目を見開いた。瞳を震わせて、はっと息を吐きだした。
どうしてだろう、サロメを前にすると嘘が吐けそうにない。
彼女の目は何もかもを見透かそうとしているようだった。もうどこにも逃げられないと知って、リザは瞬きを繰り返した。そして観念したように唇を開いたのだ。
「ナタリアさんがやったんだって、言ってやりたかった……。私に嫌がらせばかりする人なんだって、やめてって、はっきり言いたかった……」
リザは泣きそうになりながら、消え入りそうな声で言った。目元はほのかに赤く染まってた。子どものような表情にサロメは目を丸くしたが、やがてはにかむように笑った。
「動くのに遅すぎることなんてないのよ?」
彼女は囁くように言う。
「奪われたなら、それ以上を奪い返すだけだわ」
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