第4話 目論見


 サロメの使用人になってから数日が経つと、リザにも分かることがいくつかあった。


 とにもかくにもサロメは横暴だ。


 朝から晩まで働くことは使用人としては当然のことだが、サロメの場合、早朝だろうが真夜中だろうがお構いなしに叩き起こしてくるのだ。それも「自分でやってくださいよ、それくらい」と言いたくなるような些細な用ばかりで。


 あまりにも度が過ぎるから、勢いあまって口を滑らせたことがあるが、「返事は?」と短く一言すごまれただけだった。これが三日前の出来事だ。リザは半泣きだった。


 次にサロメは自由奔放だ。


 一日のスケジュールは大方決まっているはずで、それは初日に学んだことの一つだが、好き勝手に変更してはリザに対応を求めてきた。昨日だって突然「乗馬がしたいわね」なんて言い出すものだから、馬主のもとまで行って事情を話し、頼みこんでやっと許可を取れたらまたアパルトマンに戻って、外に出る支度をして――。リザはへとへとになって、夜は気を失うようにして眠ってしまった。


 横暴で、自由奔放で、その上サロメは――。


「これ、処分しておいてくれる?」


 早朝、鏡台の前に腰かけているサロメが振り返ってリザを見た。彼女が差し出しきたのは髪飾りだった。大粒の真珠がいくつもあしらわれている高級品で、繊細な金細工は触るだけでも手が震えてしまいそうだ。しかしサロメは無情にもくず入れを指していた。


「昨日のつけてらした髪飾りですか」

「処分するのを忘れていたの、うっかりしていたわ。お願いしたわよ」

「わかりました」


 リザは両手で受け取った。丁寧に扱おうとするあまり手首から硬直してしまっていた。彼女の使用人になってから数日たってもまだ慣れない。


 リザはくるりと背を向けてくず入れに向かった。手のひらに乗せた髪飾りを捨てようとするが、手が固まったまま動かなかった。


 サロメが身に付ける装飾品は、どれも趣向を凝らした最高級品ばかりだ。透きとおるような宝石を流行りのデザインで彩った、誰もが喉が出るほど求めるようなものである。だというのに彼女は一度身に付けたものは捨ててしまう。傷一つついていないというのに、必ずだ。


 すなわち、サロメは浪費癖が酷いのだ。


「……これも、捨てるんだ……」


 リザは手の中にある髪飾りを見つめたままぽつりと呟いた。一度はくず入れの真上で手放そうとしたが、落ちていく瞬間、思わず指でつまんでしまう。リザはちらりと後ろを振り返った。サロメは鏡台の自分を見つめながら口紅を塗っていた。


 何も捨てなくたっていいじゃない。


 リザは身をかがめて、髪飾りをくず入れの後ろに隠した。


 髪飾りを壊さないようにそっと置いて、すぐに振り返ってサロメを見る。彼女は前髪を整えているところだった。細い指を繊細に動かしながら呼びかけてくる。


「ねえ、水を一杯持ってきてくれる?」


 リザは全身をびくりとさせた。


「は、はい!」

「何? 急に大きな声を出さないでよ。驚くじゃない」


 サロメが顔を険しくするので、リザは笑顔で誤魔化した。


 髪飾りは後で棚の中に戻しておけばいい。棚には何十個もあるのだから、一つ減っていなかったとしても彼女は気付かないだろう。どうせ一日しか使っていないものだからよく覚えてもいないはずだ。リザはそう思って、彼女のもとへと戻っていった。


 あの女の浪費癖を少しでも食い止めてやったのだ!


 リザはつい笑ってしまいそうになって口元を力ませた。何かに勝利したような気分でいたが、しかしリザの目論見が外れていたことに気づくのは、それから十二時間後の真夜中だった。







 リザは夜になると居間の隣にある部屋で眠ることになっていた。他の部屋よりは圧倒的に狭いが、それでもリザからすれば十分な広さで、ベッドも戸棚も鏡台もきちんと用意されていた。


 唯一にして最大の難癖つけるとすれば、この部屋には鍵がかからなかった。どういうことかと言えば、サロメは何時だろうが好き勝手に入ってこれるのだ。


「起きているわよね? 起きていないのだったら、三秒以内に目を覚ましなさい」


 その日の晩もサロメは扉を開けてきた。有無も言わさぬ強引さにリザはぼやいた。


「せめてノックをしていただけませんか……」

「あら、起きているじゃない。もう十二時を回っているのに珍しいわね」


 何を言っても無駄だ。リザはげんなりとした顔のまま、両手に持っていた本を膝に置いた。ぶ厚い本はリザの数少ない手荷物の一つだった。


「聖書?」


 サロメは扉の前で立ったまま腕を組んだ。


「就寝前のお祈りかしら? 熱心なのね」

「……母が、敬虔なクリスチャンだったので」


 リザは本の表紙を撫でながら静かに返した。リザはどれだけ忙しくとも、眠りにつく前には必ず聖書を読んで祈りを捧げる。リザ自身がカトリック教徒であるのが理由の一つだが、それ以上に、生前の母が毎晩の祈りを欠かさなかったからだ。


 敬虔なクリスチャンだった、という過去形でサロメは察したのか、亡くなった母について聞いてくることはなかった。代わりに組んでいた腕を解くと、わざとらしく片手をひらりと振る。


「私には祈ることなんて何にもないわね。だって神の加護なんて見た覚えはないもの。私の成功はすべて私のものなんだから、感謝なんてする必要がないわ」

「それ、神父様の前では言わない方がいいと思います。拳で殴られますよ」

「私のことを殴る人間がいたなら、その蛮勇を讃えながら簀巻きにしてセーヌ川に流してやるわよ。どんな手を使ってでも必ずね」 

「二、三回したことがありそうで怖いです」 


 リザが小声で呟くと、サロメは可愛らしく首を傾げた。


「何のことかしら?」

「……したことがあるんですか?」

「うふふ」

「したことがあるんですね!?」


 リザが勢いよく振り返ったから、腰かけていた椅子が大きな音を立てた。リザはすっころびそうになりつつも体勢を整えた。皺の寄ったドレスを撫でて座りなおす。


「あんまり酷いことをしていたら地獄に落ちてしまいますよ……」


 サロメは少しだけ目を見開くと、ゆっくりと瞬きをした。


「別に構わないわ。落とすなら落とせばいいのよ。私、地獄の底にでも行ってあげるわ」


 リザは今度こそ椅子から身を乗り出していた。カトリック教徒がほとんどのフランスでは冗談で済まされない。だと言うのにサロメは平然とした顔だった。


「地獄に落ちたら、業火で永遠に苦しむことになるのに?」

「知っているわよ、そのくらい。でも永遠の苦しみなんて私には脅しにもならないの。そんなものは死後謹んでお受けするわ。……だから私に手を出そうなんて不届き者には、現世にいるうちに私がこの手でしっかり教育してあげるのよ!」


 結局簀巻きにはするらしい。


 リザが一人でどたばた音を立てているのを、サロメは無言で見ていた。いつもなら「騒がしい」だの「品よくいなさい」だの言ってくるのに、今夜の彼女はとがめることさえなかったのだ。リザは妙に居心地が悪くて伺うように尋ねた。


「それで、あの、ご用はなんですか?」


 ようやく本題だ。サロメは「用?」と繰り返した。


「心当たりくらいあるんじゃないの?」

「え?」

「え、じゃない」


 サロメは髪をかき上げた。


「今朝、私、あなたにお願いをしたことがあるのだけれど」


 サロメはゆっくりと言い聞かせるように言った。今朝、お願いしたこと――すぐに浮かんできたのはあの髪飾りのことだった。言わんとすることを今になって悟ったたリザは、背筋に悪寒が駆けていくのを感じた。


 彼女はリザの裏切りを責めに来たらしい。


 隠した髪飾りは回収して棚の奥の方にしまっておいた。何十個もある髪飾りにまぎれてしまって、リザですらどこに入れたか分からなくなるほどだった。なのにサロメは気が付いている。しまった、という気持ちが顔に出ていたのか、サロメは大げさにため息を吐いた。


「心当たりがあったようで何よりだわ」


 サロメは扉を開けっぱなしにしたまま、くるりと背を向けるとどこかへ行ってしまった。だがすぐに戻ってきた。手にはあの真珠の髪飾りがあった。


「私、この髪飾りは処分しておいてと言ったはずなのだけれど。私の勘違いだった?」

「そ、れは……」

「それともフランス語が通じないのかしら」

「通じます……」


 青ざめた顔のままか細い声で言う。サロメは灰色の瞳でリザを見ていた。


「そう。次はないわよ」


 彼女はヒールの音を響かせながらリザの目の前までやってきた。リザの手首を握ると、そっと持ち上げて髪飾りを握らせた。わずかに触れた指先は冷たかった。


 サロメは命令に従わなかった理由を聞くことはなかった。しかしくどくどと責め立てるようなこともしなかった。


 ただ淡々と、事実を確認するように質問をし、今度こそ正しく行動するように釘を刺しただけだ。三十秒もかからないやりとりである。なのに誰に叱られたときよりも怖くて、リザは身体を強張らせた。


「……あの」


 怖かったはずだ。しかし気づけば口が動いていた。

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