第3話 アパルトマン


 パリのボーヌ通りに面したアパルトマン。その三階に住んでいるらしいサロメ・アントワーヌのもとへ、重い足取りで向かった。


 高級娼婦ドゥミモンデーヌは裕福な男たちによって養われ、住居を与えられることが多い。サロメの場合は集合住宅アパルトマンの数室だったらしい。


 アパルトマンへやって来て初めてわかったことだが、サロメは三階の半分を所有しているらしかった。家賃は想像もできない。さすがドゥミモンデーヌを名乗るだけのことはある、とリザはごくりと唾を飲み込む。


 リザが通路を歩き始めたのと同時に、サロメの部屋である三〇八号室のドアが開いた。


 出てきたのはサロメではない。恰幅のいい三十代くらいの男だった。身なりが良くて、質のよさそうなジャケットを身に付けている。一目みただけで相当の地位にいる男だと分かった。


「あれがサロメを囲ってる貿易商の男……?」


 サロメの部屋から出てきたということは、今までサロメと会っていたということだろう。時間からして一夜を過ごした後――リザは思わず想像してしまって一人俯いた。


 三〇八号室の扉の前までやってくると、リザは深呼吸を繰り返した。早まる呼吸を沈めるように、手を胸のあたりにやって目を閉じた。なかなか決心がつかなかったが、いつまでも棒立ちになっているわけにもいかず、恐る恐る扉へと手を伸ばす。


 握りこぶしを作ってノックを四回。控えめなそれに返事は早かった。


「ドアを開けて中に入ってきなさい。でも玄関から一歩も動いちゃ駄目よ。私、まだ支度ができていないからそこで待っていなさい」


 サロメの艶のある声がかすかに聞こえてきた。色っぽくて女性らしくて、なのにどこか可愛らしさを残した声だ。リザは汗ばむ手で扉を押し開けた。戸惑うようにきょろきょろと辺りを見ながら、リザは薄暗い玄関へと足を踏み入れた。


 指示に従っただけのように思ったが、廊下の奥から飛んできたのはサロメの怒声だった。


「返事をしなさいよ!」

「はいっ!」


 リザはもはや反射だけで叫んでいた。長年下働きをしてきたリザは怒鳴られることに慣れきっていて、とにかく素早く大声で返事をするという技術を身に付けているのだ。おかでサロメの怒りは収まったようだが、彼女のぼやきが聞こえてきた。


「まったく、主人の言葉に返事もしないなんて、どうなっているのかしら。一から教育が必要なの?」


 リザは口をつぐんだままで冷や汗をかいていた。――あの晩、自分に囁きかけてきたサロメとはまったく違う。


 思わず膝をつきたくなるような圧には変わりがないが、今は単純に恐ろしい。まだ顔すら合わせていないのに怒声を飛ばされたのは初めてだ。もしや大変な人の使用人になってしまったのではないか、と気がついたが、今さらどうこうできる立場でもない。


 結局玄関で二十分立たされていたリザは、ほとんど泣きそうだった。やっと玄関に顔を見せたサロメは眉をひそめていた。


「……私、あなたを殺して食べるとでも言った?」

「殺して食べるんですか……?」

「生憎人肉には興味がないのよね。今のところは」


 光は遠くから差し込むだけで、サロメは逆光になっている。それでも彼女の美しさに陰りはない。鮮やかなレモン色のドレスをまとっているサロメは、ゆるく腕を組んだ。


「ごきげんよう、リザ・ルーセル。こちらに来なさい」


 サロメはくるりと身体の向きを変えて、廊下の奥へと引っこんでいった。それがついてこいという意味だと分かったので、リザは足音を立てないようにしながら背中を追いかけた。


 廊下を抜けると居間に繋がっていた。居間といってもリザの知っているそれとは広さが違っていて、サロメが小さく見えるほど奥まで続いている。サロメは革張りのソファに身体を沈めた。手招きされたのでリザは彼女の傍に立つ。彼女は横髪をかき上げた。


「改めて名乗るわ。私はサロメ・アントワーヌ。この街のドゥミモンデーヌよ。今日からあなたは私の使用人になるわけだけれど、いくつか確認しておきたいことがあるの」


 サロメはすっと目を褒めた。


「あなたは一万フランを私に借金しているのと同じ。つまり一万フラン分の働きをするまで、あなたは私のもの――いいわよね?」


 リザはこくんと頷いた。サロメはうっすらと笑みを浮かべながら、指先で髪を遊ばせる。赤みのかかった髪がさらりと揺れた。


「当然、口答えすることは許さない。私の言うことは絶対よ。もし逃げでもしたら分かっているわよね。娼館に連絡を取るなんて、手間がかかるからやめてちょうだいね」


 リザはまた頷いた。


「それと、あなたはこの部屋に住みなさい」

「え?」

「え、じゃない。返事はウィ(はい)だけよ」

「ウ、ウィ……?」


 リザが曖昧に答えると、サロメはすぐさま睨みつけてきた。リザは慌てて背筋を伸ばし、大声で彼女が望むように答えた。


「ウィ!」

「よろしい」


 サロメはふっと息を吐く。


 普通、アパルトマンの最上階はすべて使用人室になっているから、リザは当然そこに住むものだと思っていた。主人の居住スペースを狭める必要はないからだ。なのにどうして、とリザは疑問符を浮かべていた。


「どうでもいいけれどあなた、案外顔に出るのね。いい? 使用人室は七階。ここは三階。夜中に呼びつけるときに困るじゃない」

「夜中によびつけるんですか!?」

「呼びつけるわよ」

「な、何の権利があって」

「だってあなたは私のものなんだもの。どう扱ったって自由じゃない!」


 リザは目を見開いた。彼女の言い分は横暴にもほどがある。待遇で言えば使用人以下だ。


「何よ、その顔。文句があるっていうの?」


 しかしサロメにそう問われて素直に吐くほどの勇気はなかったので、リザはぶんぶんと首を振った。


「いえ、まったく。一つも」


 サロメは「そう」と短く言って、肘置きに指を這わせた。


「朝食を取りたいのだけれど、準備してくれるわよね?」


 サロメは靴先で絨毯を叩いた。しっかりと学習したリザに「ウィ」以外の答えはなかった。

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