第48話

 

「……亜湖」

 亜湖のために作ったものを丁寧にラッピングすると、朝一番に病院へやってきた。彼女のベッドの脇に置かれた椅子に腰かける。枕元にそっと置いたのは、今までで一番良い出来のチョコレートマフィンだ。


 あの日、渡せなかった。彼女を傷つけて泣かせた。だからもう一度、やり直させて。もう妹の夜食になんて、させないでよ。世界で一番おいしい自信があるよ?だからはやく起きてよ。食べなきゃもったいないじゃん。



 朝日に照らされた亜湖はすごく綺麗で、生き生きしてて、今にも起きてきそうだっていうのに。俺は彼女の手を取ると、そっと口付ける。頬、おでこ、瞼。一か所ずつ、唇を落としていく。



「……あいしてる」

 最後に体を屈めて、彼女の唇にキスを落とした。おとぎ話のように、キスで愛する人が目覚めたらどんなにいいだろう。死んだはずの白雪姫は、王子のキスで生き返った。深い眠りに落ちたいばら姫は、王子のキスで目を覚ました。人間になりきれなかった人魚姫は、王子の愛があればそのまま生きていることができた。野獣は美女の真の愛のおかげで、人間に戻ることができた。二人の間に愛があれば、登場人物はいつだってハッピーエンド。


 俺はおとぎ話のなかの王子じゃない。キスで目覚めるなら何度だって、やってあげるのに。


 もしも、彼女がこのままなら――そんな嫌な予感が脳内を駆け巡って、それを振り払うように俺は夢中で彼女にキスをした。



 明るく優しい陽が窓から差し込んで、光の粒が病室の中を舞う。天使が舞い降りる時の光景はこんな感じだろうか。その光の中で、亜湖もいつも以上に綺麗に見えた。


「……亜湖」

 そう囁くように呼びかける。すると――離れた唇がピクリと動いた。


 見間違いかと、目を見張って凝視する。まさか、そんな。本当におとぎ話のようなことが起こるっていうのか。



 ――そう、神様は俺をまだ見捨てていなかった。


 彼女の長い睫毛がふるふると震えたかと思うと、ゆっくりと開かれた瞳。そのまん丸の目に俺が映された。彼女の瞳の中の俺は情けない顔をしている。


「…………うた、くん……」

 今まで目を覚まさなかったのが不思議なくらい、すんなりと目を開けて、起き上った亜湖。「おはよ」といつもお店に来るときのように軽い調子で挨拶した。


「……あ、こ……」

 震える声で、何度も呼んだ名前を呼ぶ。震える手で、何度も触れた頬を撫でる。本物だ、と馬鹿みたいなことを思う。夢じゃないだろうかと、唇を噛みしめたけれどちゃんと痛みは感じた。



「……いい、においがした、から……おきちゃったよ」


 ……ばか。どれだけ食い意地はってんの?


 きょろきょろと視線を泳がせると枕元に置いてあったマフィンに手を伸ばして、ふにゃんと満面の笑みを見せてくれる。俺が見たかった、あの笑顔。


「ふは……っ、おんなじかお、だ」

 俺の顔を見て、笑顔が弾ける亜湖はなにも変わってない。愛おしくて仕方ない、俺の大切な人。


「はじめて会ったとき。わたしが、『すきです』って言ったときと、おんなじ顔してる……」


 初めて会ったあの日、俺がシフトを入れてなかったら。君が好きになってくれなかったら。俺に告白しなかったら。俺は今ごろ、どうしてただろうか?



「うたくん、わたし、いきてるよ」


 弾けた笑顔はいつまでも変わらないでいてほしい。亜湖、俺のところに来てくれて、ありがとう。

「うん……っ」

 温かい涙が頬を伝う。それを拭うように、彼女の手が俺の頬を撫でた。亜湖に出会ってから――俺は酷く泣き虫になったんじゃないか。


「はやく、あたま……なでて?」

 頬に触れていた手を、頭に移動させる。君からの可愛いお願いを、叶えてあげよう。


「……よく、がんばったね」

「うん、やるときはやるんだよ、わたし」


 嬉しそうに笑った亜湖が、俺の手を握る。それを指と指とを絡めて、ぎゅっと握り直した。


「……生きててくれて、ありがと……っ」


「うたくんも、わたしの生きる意味になってくれて、ありがとう」


 好きになってくれて、ありがとう。愛してくれて、ありがとう。



「……いいたいことが、あるの……」

「……うん」

 おでこ同士とくっつけて、見つめ合う。いつもなら恥ずかしがる彼女も俺も……今はもうそんなこと関係なくなっていた。震える声。温かい体温。零れる涙。全てが“生きている”ことを実感させてくれる。


「うたくん、ください……っ」

 感情表現が豊かな君の、コロコロ変わる顔はずっと見ていても飽きないね。泣いたり笑ったり、同時にしている器用な彼女は忙しい。


「うん……っ」

 でもそれは俺も一緒だった。泣いて、笑って……君とはずっと共有していきたい。それが、叶うんだ。

「全部、全部あげるから……っ」

 亜湖の全部を包み込むように、もう二度と離れないように抱きしめた。「くるしいよ」って言われても離さない。きっと亜湖だって、ゆるゆるの顔で喜んでいるでしょ?


「死ぬまで、あんたと恋するつもりだから……っ」


 神様、あんたに俺の命でもなんでもやるって言ったけど、やっぱりあげられないや。俺の全部、亜湖にあげるんだから。


「俺にも……亜湖を、ください……っ」



 ――亜湖も、あんたにはあげないよ。

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