第47話

 

 ――少しだけ、昔話をしよう。


 ケーキ屋の息子である俺は昔から甘い匂いに囲まれて育ってきた。甘いものなんて珍しくもなくて、好きとか嫌いとか、そんな概念すらなかった。


 今ではあこちゃんに「チャラい」なんて言われるけれど、昔は全くそんなことなくて。クラスでも大人しい、控えめな子だった。



 あれは暑くも寒くもない、心地よい風が吹く春の日だった。小学校からの帰り道。いつもなら真っ直ぐ帰っていたんだけれど、普段よりも下校時間が早かったこともあって家の近くの公園で少し寄り道をしていた。遊具で遊んでいる子もいなくて、閑散とした静かな空間。それが心地よかった。



「……ねえ、きみ、甘いにおいがするね」

「……え?」


 ベンチに座って何となく空を見上げていると、不意に声をかけられて振り向く。そこにいたのは目が真ん丸で長い髪を二つにくくった可愛らしい女の子だった。


「なんで?」

 興味津々な目で、俺の顔を覗き込む。不意に近付いた女の子の顔に思わずのけ反った。

「おうちがね、ケーキ屋さんだからかなあ」

「え!ケーキがたくさんあるの!?」

「うん、いっぱいあるよ」

「いいなあ」

 羨ましがられるなんて思ってもいなくて。そのまま他愛のない話をする。初めて会ったのに、話しやすくて人見知りだった俺がすぐに打ち解けたのは、相手があこちゃんだったからだと思う。


「わたしは、あこ」

「ぼくはりつ」

「りっちゃんね!」

 自己紹介をして、あっという間に呼び名が決まる。あまりにも馴れ馴れしいと、思わず笑ってしまった。どこか自分は大人びていたのだろうか。無邪気で子どもらしい彼女を見て、もっと君の事を知りたいと思った。


「けーき、すきなの?」

「だいすき!」


 ニッコリ笑ったその顔が眩しい。今でも鮮明に思い出せるくらいだ。そのケーキに対する「だいすき」が、まるで俺にかけられているみたいに錯覚して何故だか胸がドキドキしたことも。


「じゃあ今度あそびにおいでよ」

「いいの?」

「うん、もう友だちだもん」


 あまりにも偶然できた友だち。でも俺はこれを偶然じゃなくて運命だと思うことにする。彼女につられて俺も笑ったら、あこちゃんはまたその大きな目を見開いた。


「……りっちゃん、わらった顔かっこいいね」

「え」


 初めて言われた“かっこいい”という言葉。これから先、正直飽きるほど言われたセリフだけど――そう言われて嬉しいのは、今でも君だけ。この日から、かっこよくありたいと思ったのも、君のためだ。


「うん、すごく!」

「……へへ」

 自分の笑った顔なんて好きでもなんでもない。だけどあこちゃんが“かっこいい”と言ってくれたから、これからも大事にしようと思った。


「わらっててね、ずっと」

「……うん、あこちゃんもね」


 俺はこの日から、たくさん笑おうと決めた。俺が笑ったら君まで嬉しそうに笑う。それがさらに嬉しくて、馬鹿みたいにずっと笑っていようと決めたんだ。



 ――『りっちゃんはいつも笑ってるね』


 その理由をくれたのは、君だった。あの日から、俺は多分、君が好きだったよ。君が俺の親友を「だいすき」だと言ったあの時から――もうこの気持ちは胸の奥にしまい込んだ。君の隣で笑っているだけで十分なんだ。たとえ恋人になれなくても、君の愛する人になれなくても、“世界で一番大好きな親友”っていう唯一の場所をくれたんだから。


 ――『りっちゃん、だいすきだよ』


 君はもう覚えていないかもしれない、俺の幸せな宝物のような記憶。

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