第46話

 

 ――そうだ。俺はやり残していることがあったじゃないか。亜湖のためにと胸をときめかせていたあの日々を思い出す。甘酸っぱくてキラキラと輝いていた。家族じゃない誰かのために、と明確に行動したのは初めてだった。宝物のような大切な記憶の中から、ある苦い思い出を取り出す。……まだ、亜湖に謝ってない。謝って、やり直さなきゃいけないことがあっただろ?


 涙を拭いて、立ち上がる。大きく息を吸うと、俺はある決心をした。君との約束を、果たそう。君が目を覚ました時、とびきりの笑顔が見たいから。


 愛しい人の顔を目に焼き付けて、もう一度髪を撫でる。そして亜湖のお母さんがやってきたのと入れ違いに、俺は病室を飛び出した。





「――おばちゃんっ!キッチン貸してください……!」

 息を切らして駆け込んだ〈Ree〉。律のお母さんでもあり、この店のオーナーに頭を下げる。勢いよくやって来た俺に驚いて、目を見開いていた。


「……え?いいけど、なんで……」

「亜湖にっ……」

 おばちゃんの声に被せるようにして言葉を発する。急がなきゃ、いけないから。だって彼女はいつ目覚めるかわからない。目が覚めたその瞬間、俺がそばに居たいんだ。


「亜湖が目を覚ましたときに、食べてもらいたいものがあるんだ……っ」

 そう言えば、オーナーは何かを悟ったように微笑んで、キッチンを快く貸してくれた。



「……あこちゃん、いい子でしょ」

 まるで自分の娘のように誇らしげなオーナー。“いい子”?そりゃあもうね。


「……はい、世界で一番大切です」

 と答えると無言で頷いて、次第にその目に涙が溜まっていく。


「……運命なんて、くそくらえだよ」


 そのどこか暴力的でもある言葉には温かさも含まれていて。律のお母さんらしいなと思う。


「はい、ぶっ飛ばします」

 俺は微笑んで――どこか物騒な言葉で返した。


 エプロンを着けて、キッチン台の前に立つと、深呼吸をして作業に取り掛かった。亜湖はこのエプロンが世界で一番俺に似合うって言ってくれてたっけ。どんな褒め言葉だよって今更ながらにちょっと笑ってしまった。



 手際よく材料を入れてかき混ぜていく。ケーキに比べたら決して難しい料理じゃない。見栄えなんていくらでも誤魔化しがきく、初心者にだって作れるスイーツだ。だけど亜湖は「すごいね」と何度も称賛の言葉をくれた。こっちが恥ずかしくなるくらいに。


 ……俺は亜湖を幸せにしたい。


 漠然とそう思ってきた。それは自分の正直な気持ちだったし、嘘なんてこれっぽっちもない。だけど、大切なことを忘れていた。



 “亜湖を幸せにしたい”

 一番最初にそう思ったのはいつだった?



 ――そう、亜湖がケーキを食べて、笑ったのを見たときだ。


 いつかあの子が俺のケーキを食べて、幸せそうに笑うのを見たいって。俺の手で、幸せにしたいって。そう思ったのが最初だった。その小さな夢も、まだ叶えていないんだ。




「羽汰」

 ふと声がして、すぐそばに律が来ていることに気付く。あまりにも集中していたらしい。ぱっと我に返ったように律を振り返った。

「……律」

「あこちゃんの?」

「……うん」

 俺の手元を覗き込んで「おいしそ、味見しようか?」といつものようにおどけて笑う。なんだか俺の中の緊迫した空気と肩に入っていた力が抜けたようだ。


 調理台の近くにおいてあった椅子を近付けて、そこへ座る。頬杖をついて、記憶を手繰り寄せるようにポツリポツリと話し出した。


「俺のね、お客さん第一号は、あこちゃんなんだよ」

「え?」

 懐かしむような目をして遠くを見る。俺も一旦手を止めた――といっても、もうオーブンに生地を入れて焼いているからすることは片付けくらいなんだけど。


「むかーし、小学校低学年とかだよ?初めて作ったクッキーを食べたのがあこちゃん。幸せそうに食べるんだよ。今と変わらない、“あの顔”」

「……想像できる」

 その時から甘いものが好きなのか、とか本当に小さいころから仲がいいんだな、とか。思うところはいろいろあったけれど、あの顔を思い浮かべたら頬が緩む。そんな俺を見て、律が口を四角にして笑った。


「……あこちゃんの誕生日!」

「……え」

 突然切り替わった話についていけなくて首を傾げたら、律は人さし指をぴんと立てて俺の目の前に突き出した。

「ケーキ、作ってあげて」

「……なんの話?」

 突拍子もなく広げられていく話に、最初から説明してくれと頼んだ。そうしたらまた遠くを見て、大きく息を吸う。


「夢なんだってよ。世界で一番大好きな人が、自分だけのためにケーキを焼いてくれること。ちなみにこれは羽汰と出会う前から言ってた」


 変なの!と笑う。なんだか上手くは笑えていないようだったけれど。寂しそうな横顔が印象的だった。


「だから、叶えてあげてね」

 こちらを見たその瞳はとても真剣で「任せたよ」と言われているみたいだった。


「律」

「ん?」

「亜湖の誕生日」

「……うん?」

 律の真似をして、俺も言葉を小出しにする。やっぱり律も俺と同じように意味不明だとばかりに首を傾げるから、なんだかおかしかった。


「一緒に、ケーキ作ろっか」

「……え」

 眉間に皺を寄せて「何言ってんの?」と言う。律だって知っているはずだよ。亜湖の“だいすき”にはたくさんの意味が込められているだろ?


「亜湖の世界で一番大好きな“親友”はお前じゃん」


 そう言うと、ぐっと言葉を詰まらせて、肯定も否定もしない。少しだけ間があって、震えた小さな声で「……喜んで、くれるかな」と言った。


「ばか、喜んでもらうために、作るんだよ」

「……そ、だね」

 俺と律は小さな約束を交わした。亜湖、君は俺にとっても律にとっても、いつまでも変わらない、たった一人の大切な女の子だから。

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