第45話


 手術から一週間。亜湖は、目を覚まさない。いくら調べてもその原因は分からなかった。すぐに目を覚ますと思っていた。だけど、先生から伝えられたのは“目を覚ますかもしれない”という期待と「もう二度と目覚めないかもしれない」というあまりにも真逆な絶望。もしかしたら明日、「おはよ」って言って何事もなかったかのように起き上がるかもしれない。だけどどれだけの時間が経っても、彼女は目を覚まさないかもしれないのだ。


 あまりにも無情な結果。いつだって神様は一度喜ばせておいて、奈落の底へ突き落とすんだ。どうして素直に幸せにしてあげないの。あの子は誰よりも幸せになるべき子じゃないか。神様に恨み辛みを並べても、届くわけはない。現状が変わるわけでもない。




「……ねえ、亜湖」

 ベッドの縁に座って、眠っている亜湖の頬を撫でる。こうすると、いつも気持ちよさそうにすり寄ってきていた。今はなんの反応もなくて、俺も恥ずかしがることなくその綺麗な肌に触れ続けた。


 彼女の肌はまだ温かくて、生きているのが実感できる。心臓は動いているし、時々指先がピクリと動くこともある。だけど、亜湖は目を覚まさない。


「……はやく、おきなよ……」

「うたくん」って呼ぶ声を聞きたい。


「はやく、笑ってよ……っ」

 幸せそうに笑う顔が見たい。


 ──『手術が成功したら、頑張ったねって頭撫でてね?』


 楽しみだなって笑ってたでしょ?目を覚ましたらすぐ撫でてあげるから。はやく、起きなよ。


 おでこにかかった髪を払いのけたら、そのきめ細やかな肌に唇を落とした。


 ……キスしたら、大喜びするじゃん。「もっとして!」って無邪気に誘ってくるくせに。




 ふと枕元に視線を向けたら、枕の下から何かがはみ出ている。


 なんだ、これ?

 出ている端っこを摘まんで引き出せば、それは可愛らしい花柄の封筒だった。


「……しかも多っ……」

 無遠慮かもしれないけれど枕の下に手を入れてみれば、次から次へと……合計10枚ほどの封筒が出てきた。


「──これって」

 手に取った一枚目は『お父さん、お母さんへ』と書かれていた。もしかしなくても、これは手紙だろう。それも、きっと──俺が見たくもないもの。


「これが、律宛て……これが、学校の友だちか……?」

 あとは『すうちゃんへ』とか『麻生先生へ』とか。


 ……なんで男に宛てたものばっかりなんだよ。

 嫉妬に駆られて破ってやろうかとも思ったけれど、目を覚ました彼女に怒られてしまうだろうからやめておいた。……もっとも、彼女が目覚めたときにはこれは必要ないのだろうから、破っておいても構わなかったとは思う。


「……っ」

 ないわけがないと思っていたけれど、いざその文字を目にしてしまうと涙腺が弱まっていくのを感じる。


「…………『うたくんへ』……」


 封を切って、中から便箋を取り出す。一番上には『遺書』と書かれていて、当たってほしくなかった予感を見事的中させた。


 彼女はまだ生きている。だからこれを読む必要なんてなかったわけだけど……。逆を言えば、彼女は必ず目を覚ますと信じているからこそ、これはきっとお蔵入りになるものだろうから今読んでおかないともう二度と読めないと思っての行動だった。


「……亜湖、読むよ?」

 ……一応許可を取って。文句は受け付けないよ。はやく目を覚まさない亜湖が悪いんだからね?




 “――拝啓、うたくん。いかがお過ごしですか?”


 少し畏まった文章にクスリと笑ってしまう。今彼女が起きたら確実に怒られちゃうな、と思いながら続きへと目を走らせた。



 “ありきたりかもしれないけれど、もし手術が失敗して死んでしまったときのために、遺書を残します。お父さんやお母さん、すうちゃん、友だちや、りっちゃんにもそれぞれ書いたから渡してくれると嬉しいなあ。


 あのね、うたくん。私が死んだら、してほしいことがあります。


 火葬するときにはお気に入りのぬいぐるみを一緒に入れて欲しいの。あと、うたくんにもらった物も全部持っていきたい。写真もいっぱい入れて欲しいな。あっちでも退屈しないように。


 うたくんには毎年とは言わないけど、たまにお墓参りに来てほしい。どんどん大人になっていくうたくんを見るのは辛いかもしれないけど、あなたに会えるなら私はあっちでも幸せな気がするから。


 いつか、あなたの妻となる人と一緒にやって来るかな?いつか、うたくんに良く似た可愛い子どもとやって来るのかな?考えると嫉妬で涙が出ちゃうけど、ちゃんと待ってるから。


 祟ったりしないから、ちゃんと来てね?

 お土産は、そうだなあ……。今度こそ、チョコレートのマフィンがいいな。


 あと、りっちゃんは泣き虫だから、私が死んだあと、いっぱい泣くと思うの。だからそばで慰めてあげてね。



 あとはね……そうだなあ。自分が死んだ後のことなんてわからないからさ、本当はどうだっていいんだけど。これが、最後のお願い。



 幸せに、なってね。いつでも笑っててね。健康で、お金もいっぱい稼いで、苦しいことも嬉しいことも一緒に乗り越えていけるパートナーと出会ってね。

 私のことで、いっぱい傷つけちゃったし苦しめちゃったし、悲しませちゃったから。私があげられなかった分の幸せとか喜びとか楽しさとかたくさん与えてくれる人と一緒になって欲しいなあ。


 お願いだからさ、うたくん。私のことは“いい思い出だった”ってぐらいで、頭の片隅に置いておく程度で構わないから。私のこと、忘れないでいてね。


 あなたのいる大好きなケーキ屋さんに通う時、私の世界は、人生は輝いていたよ。あなたの世界が輝く、その時に……私がいることはできたでしょうか?



 うたくん、生まれてきてくれてありがとう。あなたが生まれてくれたこと、〈Ree〉で働いてくれたこと、私と出会ってくれたこと全てに感謝するよ。

 幸せをくれてありがとう。すきって言ってくれてありがとう。


 いっぱい笑って、いっぱい泣いて、いっぱい喜んで、いっぱい苦しんで、いっぱい嫉妬して、いっぱい幸せで、いっぱいうたくんを愛したから、私は一生分、もう生きた気がするよ。うたくんのおかげだね、ありがとう。


 もう一回だけ言ってもいい?うたくん、だいすきだよ。──”





 端っこには薔薇の花と可愛らしいカップルのイラストが描かれていて、亜湖は絵が上手なんだと初めて知った。お互い知らないことも、まだまだあるっていうのに。25輪の薔薇の花をそっと指で撫でた。


 手紙はもう、形を変えていた。握った手の力があまりにも強くてぐちゃぐちゃになっている。字は涙で滲んでもう見えない。


 ……亜湖。俺はあんた以外と恋する気も、結婚する気もないんだけど。



 何度だって言ってよ。こんなところに書かないで、直接言って?

 ――『うたくん、だいすきっ!』


「何度言わせるの……っ。俺はあんたじゃないと、幸せになれないんだって……っ」



 俺は“遺書”という名の手紙を小さく破り捨てた。怒られたって構わない。いらないよ、こんなの。


 俺一人の幸せを願う言葉なんて欲しくない。俺は亜湖と一緒に幸せになりたいんだから。

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