第44話


「亜湖っ!亜湖……っ」

 俺は今、大切な人の名前を呼んでいる。


 目の前に横たわる、人口呼吸器をつけた彼女は息をするのも苦しそうだ。たくさんの管に繋がれた彼女を見るのは初めてで、どうしようもなく不安になる。ふとした拍子にあっちに行っちゃわないように……必死で何度も呼びかけた。何度だって名前を呼んであげると言ったけれど、俺はこんな風に呼びたかったわけじゃない。



 手術の日を目の前に、急に容態が悪化した亜湖。恐れていた発作が、起こってしまった。緊急手術が行われることになって、ぐったりとした彼女が運ばれていく。


 いつもみたいに明るく返事をしてくれない。いつもみたいに笑ってくれない。「うたくん、だいすきっ」って言ってくれない。──手を握っても、握り返してくれない。


 いつだって俺の言葉に、握った手に、笑顔に、気持ちに……きちんと返してくれた君。それが今、何一つ返ってこなくてまた恐怖が積もった。


 いやだ。いやだよ。……亜湖。俺を一人にしないで。一緒に生きるって決めたじゃないか。


 俺が死ぬまでに君としたいこと、叶えてくれるって言ったじゃないか。まだ全部叶ってないのに、そっちにいくにはまだ早いよ。



 俺の呼び声にうっすらと意識を取り戻したようだったけど、開いた目はいつもの半分くらいだった。

「……うた……くん……」

 俺に向かって伸ばした手を握れば、弱々しく笑う。何を言えばいいのか分からなくて言葉に詰まる。伝えたいことはいくつもあるのに、それを伝えてしまったら“死”というものがより一層近付いてきてしまうようで、何も言えなくなる。


「…………死なない、よ……。うたくんが……いて、くれるんでしょ…………?」

 まるで俺の考えを読み取っているみたいに、確かにそう言った亜湖。涙で滲む彼女の顔が胸を苦しくさせた。俺が泣いてどうするの。苦しいのは亜湖だっていうのに。


「……一緒に大人になろうよ……っ。おじいちゃんとおばあちゃんになっても、一緒に……、生きていこうよ……っ」


 絞り出した声。必死で未来にしがみついて、君が生きている世界を信じた。


「……うん……っ」

 小さく頷いて、涙を流す亜湖。それを最後に、彼女は手術室の暗い中へと吸い込まれていった。


 ……ねえ、亜湖。一緒に生きようよ。笑ってようよ。約束したでしょ?「約束はちゃんと守ってね?」って亜湖が言ったんだよ。



 まだあんたにケーキ作ってないじゃん。最近〈Ree〉のキッチンにも立たせてもらってんだよ。律のおばさんだって亜湖のこと心配してたよ。ほら、またあの店のケーキ食べるんだろ?


 律も泣いちゃうじゃんか。あいつすぐ泣くんだから、はやく笑顔見せてやってよ。



 結婚するって言ったじゃん。幸せになろうって言ったじゃん。「うたくん、だいすき」って言ったじゃん。俺だって大好きなんだって。亜湖がくれた「だいすき」を俺も返したいのにまだまだ返せてないんだよ。亜湖が追いつけないくらい愛をくれてるから……俺は一生かけて返してくって決めてるのに。


 できるなら俺が代わってやりたい。苦しみが半分になるなら、分けてほしいよ。





「──うん、だから明日は行けない。ごめん」

『……うん、ついててあげなよ』


「……泣くなよ、律」


『泣かないよ。泣くわけないじゃん。だって手術は成功するもん。悲しいことなんて何もないよ』

「……うん」


 電話の相手は律。明日のバイトは行けないことを伝えた。状況を説明したら一瞬言葉に詰まったけれど、すぐに元気そうな声を出す。強がりなのは分かっていたけれど、今はそんな明るい律の声が救いだった。


 電話を切ってから、手術中のランプが点灯する扉の前でベンチの腰掛ける。君の生きてきた世界はこんなにも危うくて不安定なのか。分かっていたつもりでも、それが分かっていた“フリ”だと痛感する。そんな局面ではないのに、まるで走馬灯のように思い出が駆け巡る。縁起でもないから止めろと自分を制してもどうにもならないからタチが悪い。




『春がきたらお花見しようね』

 君が言った。


『春だけじゃないよ。夏はひまわりでしょ。秋は紅葉。冬はねえ……イルミネーション!』

 指を折りながら一つずつ未来を語る。どんな気持ちだった?


『はいはい。妄想だけにしときなよ』

 なんて適当な答え方しかしてあげられなかった。


『ま、どこでもいいんだけどね。うたくんがいてくれるなら』

 あの時ほんの少し滲ませた寂しそうな雰囲気は気のせいだと交わしてしまったことを思い出して今更後悔した。


『うたくんが笑ってくれたら、しあわせなの!』

 俺の幸せは、あんたが笑ってることだったのに。亜湖がいなくなったら俺は一生幸せになれないんだよ?君は知らないでしょ。



 好きだよ。大好きだ。亜湖が世界で一番大切なんだ。


 神様、お願いです。亜湖を連れて行かないで。あの子は人を幸せにすることができる。あの子の花が咲いたような笑顔は、みんなを救うんだ。


 どうして亜湖なの?どうして俺の大切な人なの?


「おねがい……っ、生きて……っ」

 膝の上で両手を祈るように組んで背中を丸めた。


 俺の命ならいくらだってやるから。なんだってやるから。亜湖だけは、連れて行かないで。








 二桁を超える時間を要した手術は、結果的に言えば成功だった。絶望的だと思われた彼女の生命力はまだ衰えていないらしい。


 手術が終わって、出てきた亜湖。その顔や見た目からは結果なんてまるっきり分からなくて。ただ、「生きているんだ」ということだけが理解できた。そのあとに出て来た麻生先生は疲れ切った顔をしていたけれど、どこか安堵の色を浮かべていた。


「……先生……」

 亜湖の両親と俺が先生を取り囲むと、何度も頷く。ドキドキと緊張が心臓を刺激した。


「……手術は、終わりました」

 微笑んだ先生の表情に、皆で胸をなで下ろす。


「今までのように命に関わる大きな発作は起こらないと思いますよ」

 分かりやすい言葉にしてもらって初めて心から喜びが湧き上がってきた。


 亜湖が、生きている。その事実が俺を包み込んで、安心感から座り込んだ。亜湖の両親も泣きながら抱き合っていた。震える手で俺の両親や律にメッセージをうつと、トイレに駆け込んで大声をあげて泣いた。


 亜湖と、生きていける。それがただ、嬉しかった。昨日は憎んだはずの神様に、俺は心から感謝していた。







 ──だけど、彼女は笑わない。名前を呼んでも返事をしない。「うたくん、ください!」って言わないんだ。

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