第39話
目を開けたら、そこは何度も見たことのある病室。小さいころは入退院を繰り返していたから、特に驚くこともない見慣れた部屋だ。視線を横にずらせば、泣き腫らしたお父さんとお母さんの顔が見えた。
…また私は大切な人を泣かせたのか。バレないように小さくため息をついた
。
「亜湖…っ、よかった…」
お母さんは心底安心したように私の顔を覗き込んで、お父さんは慌てて医師を呼びに行く。今回の発作はいつもより酷くて、両親は覚悟を決めるように麻生先生から告げられていたらしい。どれだけ元気ぶっていても、幸せを感じていても、「生きたい」と強く願っても私の身体を蝕むものは消えてなくなったりはしない。着々と、タイムリミットを刻んでいるんだ。
麻生先生が眉を下げて病室に入ってくると一通りの診察を行う。今のところは落ち着いているらしいけど、またいつ発作が起こるかは全く分からないって言われた。まだ少し先だった手術の日を早めなければいけない、とも。溜息を吐いたら幸せは逃げて行くって言うけど、物心ついたころから病気と闘ってきた私にとって溜息なんてお友だちも同然。だからもう幸せなんて残っていないのかもしれない。
…うたくん、ごめん。私やっぱり、あなたと生きられないかもしれない…。
あなたと生きると決めた残りの人生も、もうあと僅かかもしれない。やっぱり私にはあなたのそばにいる資格は持っていないんだと自覚する。せっかく下した「生きる」決断も、簡単に崩れてしまいそうだ。やっぱり私が幸せなまま、笑って生きていくことなんてできやしないのだ。
「──馬鹿亜湖」
「…すうちゃん…」
暗い顔をした私に喝を入れるように、おでこをバチンとたたくすうちゃん。いつの間に入ってきたのか。だけど汗を滲ませて息を切らす彼に、急いでやってきてくれたんだと痛感した。もう発作は落ち着いていたからそれを見てホッと胸を撫で下ろしていた。
ふとすうちゃんの手元を見れば片手にスマホを持っているから、大好きな彼には心配掛けたくなくて「うたくんには言わないで」って言ったけど「もう遅い」って返ってきたから項垂れる。
「…どうせまた、あいつから離れようとか思ってるんじゃねえの?」
すうちゃんってエスパー?
驚いて分かりやすく目を見開いた私を鼻で笑った。だって羽汰くんに、私が死ぬまでの幸せな記憶に付き合わせるわけにはいかないもの。
「あいつから離れようとしても無駄」
どういう意味なのか首を傾げたら「言うなって言われてたのに…」なんて頭をかく。だけど、すうちゃんが言い出したんだよ、と問い質せば話し出してくれた。
「──“うたくん”が頭下げて俺に頼んだんだよ」
すうちゃんは私の居場所を教えるつもりはなかったと。病気のことだけを告げて、せいぜい後悔すればいいと。そう思っていたのに、羽汰くんがあまりにも切実そうに頭を下げたんだって言う。私が知らなかった事実はまた彼を愛おしくさせる。
「あいつ、泣きながら言ったんだ」
――『亜湖に、なんにも言えてないんです…っ。傷つけてごめんって、泣かせてごめんって…。好きだって、伝えてないんです…っ。亜湖は俺にいっぱい幸せをくれたのに、俺は何にも返せてない…。たとえ死んじゃうとしても…っ。亜湖が笑ってくれるなら、それだけでいいから…!だからお願いします…。もう一度、亜湖に会いたいです…っ』
流れた涙は温かかった。胸は熱いくらいに焦がれていた。私は“死んでしまうから”と全てを諦めていたけれど、羽汰くんは違った。“死んでしまったとしても”──私のいない未来という結果は同じだったとしても、それまでの“幸せ”の数はきっと違う。だけどその分彼に降り掛かるの“辛さ”や“悲しみ”はもっと増えてしまうだろう。それを覚悟してくれる。そんな人がどれだけいるっていうのだろう。
「…あいつに、会いたくなったろ?」
意地悪く笑ったすうちゃんに、悔しいけど首が取れてしまいそうなほど頷いた。
「そういや、もう一人いたよ」
思い出したように言ったすうちゃん。言葉の意味が分からなくて首を傾げる。
「…もうひとり?」
「あのケーキ屋に。チャラそうな男」
“チャラい”の一言でピンと来た。思い当たるのはたった一人だ。いつも口を四角にして笑う、子どもっぽくて時々大人びた顔をする魅力的な男の子。「イケメンだね」って褒めれば「ありがとう!」ってお礼が言える素直な人。「馬鹿じゃん」って貶しても「ありがとう!」って笑う可愛い人。
「…りっちゃん?」
「ああ、あれが噂のな」
…そうか。りっちゃんにも伝えたのか。それなら少しは彼にも覚悟はできるだろう。突然私が「死んだ」と聞かされたら、りっちゃんはどうなってしまうのか。それが心配だったから。
「言わない方が良かったか?」
「…ううん、いいよ」
すうちゃんはきっと私の思いをわかっている。だから敢えてりっちゃんにも伝えたんじゃないか、なんて私の推測でしかないけれど。
「…りっちゃん、泣いてた?」
最後までなにも伝えられなかった親友を思う。一番心残りなのは、りっちゃんと会えずに死んでしまうかもしれないこと。誰よりも感謝しているんだよ、りっちゃん。それだけは、伝えたかったなあ。
「…大分な」
泣き虫な彼のことだから、今でも泣いているかもしれない。単純なやつだから、もう私のことなんて忘れてるかな?
「りっちゃんにもわるいことしたなあ…」
羽汰くんと出会うまでは誰よりも大切な男の子だった。病気のことなんて何にも知らないのに、りっちゃんを見ているとエネルギーが湧いてくる。生きる気力をもらっていた。私が明るく努めるそのお手本になってくれた人。悩みなんて無さそうに、純粋に笑っているりっちゃんを真似ていたんだよ。よく「二人は雰囲気が似てるね」って言われた。それはりっちゃんの影響。絶対本人に言ってやらなかったけれどね。
「私が死んだら──“ごめん”って伝えておいてね」
「…自分で言えよ」
分かった、とは言ってくれないすうちゃん。意地悪だなあ。
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