第36話
「――亜湖ちゃん」
麻生先生の声がして、はっと我に返った。
先生に的外れな八つ当たりをしたあの日のことも、ずいぶん昔のように思える。今では笑って振り返ることができるようになった思い出。そう、羽汰くんと再会して、また恋ができるようになったんだから。
「……はいっ、麻生先生」
慌てて笑顔を向けるとホッとしたように微笑む先生。
「……元気になったみたいだね。もう吹っ切れたのかな……?」
……ああ、そっか。先生には言ってなかったんだ。あの泣きじゃくって弱音を吐いた日から何度も診察してもらったけれど、先生はその話を掘り返すことはなかった。私に気を遣ってくれたんだろう。
「……せんせ」
先生はいつもの優しい笑みで首を傾げる。そんな先生に私はとびきり満面の笑みで声高らかに宣言した。
「わたし、もう一度……恋をしてみようっておもうの」
それを聞いた先生は驚いたように目を見開いて、それからすぐにふにゃっと笑った。
「……“うたくん”と、お幸せに」
先生って、何でも分かるのかな?すごいや。
相手が羽汰くんだなんて一言も言っていないのに。いつだって私の話を親身になって聞いてくれた先生。「恋愛経験あんまりなさそうなのに相談してごめんね」って冗談交じりに言ったら、「多くはないけど一応大人だからねっ」と拗ねていたことを思い出す。
「……先生、わたし、恋してもいいのかな……」
少女漫画のような恋に憧れた。いつか王子様が現れてくれないかと思ったりもした。だけどどれも幻影にすぎなくて、高望みしても「あり得ない」と乾いた笑いが出るだけだった。
先生、そんな私に大好きな人ができました。
大人になれないかもしれないと言われていた私。手術が失敗すれば死ぬと言われた私。手術をしなくても死ぬと言われた私。手術が成功しても、死ぬかもしれないと言われた私。結婚なんてできないと思った。未来がないのなら、恋しても意味がないと思った。
だけどね、先生。この気持ちは、手離したくなかった。私は羽汰くんに恋をして、例え未来がなくても、そばにいたいと思えるようになりました。こんな私でも、恋ができたんです。
先生なら、応援してくれますよね。背中を押してくれますよね?
「……亜湖ちゃん?君は普通の女の子なんだから、恋したっていいんだよ。いっぱい笑っていっぱい泣いて……幸せになっていいんだよ。亜湖ちゃんの笑顔は人を幸せにするんだから、笑って生きて」
反対されるなんて思ってはいなかったけれど、予想していたよりずっと温かい言葉に喉が詰まる。いつだって先生は私の意思を尊重してくれた。先生に「恋をしてもいい」って言われて、私の中の重い何かが弾けた気がした。誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。
……いいんだね、私。羽汰くんに恋しても、いいんだ。
「君が幸せを見つけたのなら、僕は嬉しく思うよ。小さいころ、呼吸することすら難しくて、生きることに一生懸命だった君が……こんなにも大きくなって、こんなにも一生懸命恋をするようになったんだね。」
優しく笑ってくれる先生に、また涙が溢れて止まらない。誰よりも私の近くで励まし続けてくれた。先生を責めるような言い方をしたあの日を、何度も後悔した。
「……あの日、怒鳴ってごめんね……」
そう言うと、先生は「今君が幸せなら、いいよ」と微笑んだ。
「ありがとう……っ、せんせ……っ」
この「ありがとう」にはたくさんの意味が込められている。少しでも多く、伝わっていればいい。
先生に出会えてよかったと心から思う。それはこの病気で得た数少ない大切なもの。病気になって感謝したことはないけれど、先生と出会えたことだけは――ありがたいと、思う。
それを伝えれば照れたように頭をかいた。その目が潤んでいたのは、気のせいだということにしておこう。
私の病気はよくなったわけじゃない。現状なにも変わっていない。だけど“病は気から”なんてよく言ったものだと思う。
“生きたい”と願った私の未来に、一筋の光が見えた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます