第35話

 

 ――『……亜湖ちゃん、手術が決まったよ』


 私が小さい頃から診てもらっていた主治医の麻生先生。とてもお世話になっていて、定期健診の時には愚痴も聞いてもらったり。そんな先生の声色がいつもと違っているってことくらい、勘でわかった。


 羽汰くんと愛理さんの仲睦まじく話す姿に嫉妬して逃げ出した日。麻生先生から電話がかかってきたかと思ったら、開口一番に告げられた言葉。それはまるで余命宣告のように、私には重すぎるものだった。


「――もう、その時が来ちゃったんですね……」

 その手術の日程は思ったより近くて。ああ、もうタイムリミットなんだと確信した。


 いつか来ると思っていたその日が、覚悟していたはずでも、受け入れるにはまだ私は幼すぎたんだと思う。


 真っ先に浮かんだのは、羽汰くんの顔だった。真っ先に心の中で助けを求めたのは、羽汰くんだった。

 いつか死ぬんだと思っていたのに、羽汰くんに逢って私は初めて“生きたい”と思った。初めて自分の運命を呪った。



「……ねえ、麻生先生」

 あの電話を受けた次の検診日だった。すうちゃんと待ち合わせした、あの日。私が羽汰くんに“さよなら”をした日。


 約束の時間から3時間も過ぎていたっていうのに、怒りもせず待っていてくれたすうちゃん。目を真っ赤にして現れた私に、驚いたように目を見開くすうちゃんは何も聞かずに病院へと連れて行ってくれた。


 診察室の、個室に入ると迎えてくれた優しい微笑みの先生。小さい時の記憶から全く変わらず若々しい麻生先生は、私の顔を見て困ったように眉を下げた。


「……なにか、あったんだね?」

 先生の問いかけはいつでも丁寧で穏やか。言いたくないことは無理に聞かないし、聞いてほしい話は真剣に聞いてくれる。


「……うたくんが」

 羽汰くんに恋していることだって、先生には伝えている。嬉しかったことや悲しかったことは全部、彼と共有していると言っても過言ではないかもしれない。

「ケーキ屋さんの彼?」

「……うん」

 先生は私を不思議そうに見る。だって、羽汰くんの話をする時はいつだって私の表情は輝いていただろうから。


「……うたくんに、ばいばいしてきた……っ」


 俯くと零れてしまった涙に、先生は驚きの声を上げた。そしてその理由を問う先生に、私は声を震わせて答える。


「わたし、なんで死んじゃうんだろうね……?なんでこんな体なんだろうね?」

 先生が悲しそうにする。先生のせいなんかじゃ決してない。誰のせいでもないのに、私は一体なにを恨んだらいいんだろう。何のせいにして怒りをぶつけたらいいんだろう。


「生きたい……。もっとうたくんと生きていきたかったよ……。たとえ、彼女になれなくっても……友だちだっていい。ただのお客さんだって……!うたくんが笑うその時にはいつだって、そばにいたかったよ……」


 一度吐き出した弱音は、止まることはなかった。いつだって明るく努めて、誰にも心配をかけないようにして、笑っていればよかった。そうすればみんな安心してくれるから。だけど、今はもうそんな余裕すら生まれない。


 膝の上に置いた拳をぎゅっと握る。これが私の運命だと思っていた。皆と同じではないんだって、理解しているつもりだった。だけどこんなにも、皆と同じでありたいと願ったのは初めてだった。

「いっぱい諦めてきた。運動会はいつも見学。スポーツはできない。調子が悪いと食事も制限される。ペットも飼えない。バイトもできない。友だちと遊びに行くのも限られてる。結婚だって、無理だって諦めた」


 みんなが言う“普通のこと”ができない。みんなの“当たり前”が当たり前じゃない。“当たり前じゃない”ことが、いつしか私の“当たり前”になっていた。

「彼と逢ったときもね、いっぱい悩んだの。諦めようって何度も決心しようとした。

 ……それでもね、諦められなかった。諦めたくないって初めて思ったの」


 諦めきれたらどんなに良かっただろう。止められたらどれだけよかったのか。だけど私は人生で一度くらい、本気の恋をしようって思ったの。その相手が羽汰くんでよかったと、本当に思ったんだよ。



「……せんせ、わたしは、恋することもできないんですか……?」

 泣きすぎても涙は枯れなかった。ただ、声が掠れて目は腫れる。心臓の痛みはちっとも慣れないし、和らぐこともなかった。

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