第34話


 しばらく羽汰くんの後に続いて歩いていれば、小綺麗なホテルに辿り着いて彼は躊躇なく入っていく。


「ちょ……っ、うたくんっ!?」

「俺が泊まるとこだから平気」

 そのままエレベーターに乗って13階までノンストップで上っていった。普通のホテルだけど、何故だか大人になった気分だ。


 エレベーターの扉をするりと抜け、一室の前で立ち止まる。カードキーを翳してガチャッと音がすると、緊張感が高まった。


 羽汰くんはどうしたいのか、なんて。期待と不安が交差しては脈が速くなっていく。もう心臓の音が羽汰くんにだって聞こえてしまいそうだ。


「……逃げるなら、今だけど」

 視線だけでこちらを見た羽汰くん。思わず俯くと、私を掴むその手が――震えていた。それがどんな意味を持っていたとしても、なんだか私にはとても愛おしく感じる。


 立ち入ったことのない未知の世界に胸がバクバクするけれど、怖くはなかった。もちろん、「嫌だ」なんて思うわけもない。


 顔を上げて羽汰くんと目を合わせる。彼の瞳に映った私は、決意の籠った……まさに“生きています”といえるような顔をしていた。


「……うたくんじゃなきゃ、いやだ」


 それだけを言えば、ちゃんと私の気持ちは伝わったはず。羽汰くんが唇を噛みしめて、ドアノブを握った手に力を籠め――勢いよく、扉を引いた。



 ドアが閉まった音を確認する前に、壁に押しつけられた身体。背中の痛みなんて感じない。掴まれた手首が少しだけ赤みを帯びていたけれど、そんなのだってどうでもいい。

「……ごめん」

 見上げた羽汰くんの顔。伏せた目がかっこ良くて、どこか憂いを帯びている。じっと見ていれば、なんだか泣いてしまいそうにも見えた。


 もう何も謝らなくってもいいのに。だって今、世界で一番幸せなのはきっと私だもの。

「……もう、我慢できない、かも」

 彼の言葉にまたぎゅうっと胸が締め付けられる。これ以上ときめいたら、爆発してしまいそうだ。

「……がまん、しなくていいよ……」

 “羽汰くんになら何されても構わない”って前にも言ったでしょ?彼は本気にしていなかったようだけど、私は本気だったよ。羽汰くんが触れてくれるその手も、大好きだから。


 目が合ったその瞳は、欲情と愛情に満ち溢れていた。


「……亜湖」

 頬を包まれて、食むように口付けられる。息つぎだってできないほど、何度も何度も、苦しいくらいに。頑張って応えようとするけど、羽汰くんが激しく角度を変えて唇を重ねるから、もう追いつけない。空気を吸い込もうと薄く口を開けたら、その隙間から温かい何かが入ってきて、おかしくなってしまいそうだった。それが羽汰くんの舌だって認識したのは、彼が唇を離して息をついた時。


「……すき」

 その大人びた表情に見惚れて、もう伝えることもないと思っていた言葉を告げる。

「亜湖……」

 羽汰くんの顔に驚きの色が浮かんで、その後すぐにホッとしたように笑う。その表情から、これからは何度だって言ってもいいんだと分かる。


「うたくん、だいすき……っ」

 過去形なんかじゃなく、あなたに告白するよ。だって知ってしまったもの。あなたとの恋がこんなに甘くて幸せなものだって。辛くて苦しい思いを何度繰り返しても、あなたの隣で笑っていられる権利がもらえるのなら無駄なことだったとは思わない。


 休日の朝、温かい布団を頭まで被っていつまでも微睡んでいられるような。そんな平凡でも在り来たりでもいい、幸せな恋が未来に待っていると分かったなら。


 たとえ死んでしまう身体だと諦めていても、羽汰くんが好きだって言ってくれたから……私はずっとずっと生きていたいって思ったの。


「……それ、ずっと、聞きたかった……」

 羽汰くんの目に、薄い膜ができていく。私が感じた幸せを、隣で羽汰くんが同じように感じてくれている。


 ああ、幸せだなって。それ以外に言葉がないのが惜しいくらいに、幸せだ。


 羽汰くんがそっと私の身体を抱き上げて、ふかふかのベッドへと運んでくれる。寄り添った彼の胸から聞こえてきた羽汰くんの心臓の音は私と同じくらい、大きく鳴り響いていた。


「……俺も、だいすきだよ」

 羽汰くんのその言葉に、苦しいくらい胸が締め付けられる。私が見上げた羽汰くんの微笑みにきゅんとして……私は彼の首に腕をまわした。



 あなたの触れる指先や心地よい温もり。訳が分からなくなるくらいの快感に、少しの痛み。全てが嬉しくて、幸せだった。


「……もうわたし、死んでもいいかも」

 涙が出そうなくらいの喜びを噛みしめている私に、もう一度ちゅっと口付けてその唇を塞ぐ。彼の腕の中、甘く蕩けるキスで私まで溶けてなくなってしまいそうだ。


「……ばか。俺のために死なないでいてよ」

 ……そんなこと言われたら死ぬわけにはいかないじゃない?頷く以外の選択肢なんて、私は持ち合わせていない。大好きな人が“死んでほしくない”と思ってくれる。“ここにいてほしい”と願ってくれる。それが私にとってどれだけ大きな意味を持つか、他の誰にも分かりはしないだろう。

「……うん、わかった」

 そう答えれば、目を細めて安堵の表情を浮かべる。

「……約束、だから」

 優しい手つきで触れる彼の指先が私の髪を撫でて、また幸せが積もった。

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