第32話


 しばらく思う存分泣き喚いて、少しはスッキリしたような気になる。だるい身体を持ち上げて、スカートについた砂を払った。澄んだ空気の中で身体は幾らか良くなった気がするけど、どうしても気持ちが重くて……いつものポジティブな私は向こうの街に置いてきてしまったようだ。


「いちばんの、ばかやろーは……わたし、だよ……」

 ポツリと呟いた声もまた、波音が連れて行った。


 もう、諦めなきゃ。どうせ私は死ぬんだから。そう思い込もうとして、一か月。羽汰くんに会えない辛さになんて慣れるわけもなく。こうやって週に一度、弱音をここに吐き捨てて、お父さんたちの前では必死で元気いっぱいな私を取り繕った。


「うたくん……」

 そう呼べば返事をしてくれていたのにね。当たり前だけど、返ってこない返事。もっと、呼びたかったな。

「うたくん、うたくん……」

 何度も何度も大好きな人の名前を呼んで、空しくなる自分自身に呆れてぷっと噴き出した。



「――よし、かえろ」

 潮風を大きく吸い込んで、伸びをする。肩の力をストンと抜いて、ぺちぺちと頬を叩いた。


 ……手術当日まで、あと少しだ。


 海に背を向けると、その場を離れるために一歩を踏み出した。砂を踏みしめる感触が心地良い。




「――っ」


 声が、聞こえる。波音に紛れていたけれど、しっかりと耳に届いて鼓膜を揺らす。私は金縛りにあったみたいに動けなくなった。



「亜湖……っ」



 そう呼んだのは、両親でも、すうちゃんでもない。……聞き間違える?私が?ありえないよ、だって……。


「うた、くん……」

 願っても叶わなかった声が、私の名前を初めて呼んでくれたから。


 振り返ったらいつもみたいに、呆れたように笑っていた……私が世界で一番大好きな人。



「ばか……、じゃないのっ……!」

 ……ああ、これで思い残すこと、ないや。彼女になれなくっても、ちゅーできなくっても、羽汰くんが私の名前呼んでくれたなら――全部、どうでもいいや。



「……うたくん、だいすきだったよ」

 目の前の彼は夢か幻か。最後に神様も酷いことするなあ。夢でも会えたら嬉しいけれど、覚めた時が苦しいじゃない。


 泣いちゃだめ。涙の膜が瞳を覆う。大好きな彼の姿がぼやけて見えないなんて、もったいない。夢だとしても、しっかりこの目に刻みこんでおかなきゃ。


 それにしたって夢でならもっと優しくしてくれてもいいのに、と神様にケチをつける。久しぶりに会って、もうすぐ死んじゃうかもしれない相手に向かって「ばかじゃないの?」って……ちょっと笑ってしまう。だけど羽汰くんらしい。私は、そんな君を好きになったんだよ。


「……死ぬまでに、うたくんと恋がしたかったなあ」

 もっと私に時間があったなら、できたのかもしれない。私が呟いた言葉に、ひどく切ない顔をするから、きっと羽汰くんは全てを知っているんだと思う。夢だから、ね。


「……だけどだめだね。もし、恋ができたとしても……うたくん一人にしちゃう。ほかの子のものになるのなんて我慢できないし、絶対にいや、だけど……。わたし、死んじゃうからさ。うたくんを幸せにはできないんだよ。だから、うたくんのそばにいられない。うたくんをすきでいちゃ、だめだったんだよ」


 夢ならどうか覚めないで。どんどん近づいてくる羽汰くんの顔が、鮮明に映る。涙はとうに零れ落ちていた。


「……ごめんね、うたくん」

 ……夢なんかじゃないって、もう馬鹿な私にも分かっていた。だって、海の香りだって、波の音だって、風に靡いて私の顔を撫でる、潮のせいでキシキシになった私の髪の感触だって……全部現実なんだもの。


「すきになって、ごめんね」


 最後に告げたあの日の言葉。もう一度、あなたに伝えるよ。だから今度こそ、こっ酷く振って。「あんたなんか嫌いだ」って言ってくれたら、もう私はあなたを諦めざるを得ないんだから。


「……もう、疲れちゃった」

 何を、とは言わなかった。病気のこと?泣きすぎちゃったこと?羽汰くんを好きになったこと?私自身にも分からない。


 もう羽汰くんはすぐ目の前まで来ていた。その目も鼻も口も、やっぱり本物だ。最後に見た時より少し痩せた?


「……うたくん、いっそ君がわたしを殺してほしいな」

 これは私の本音だった。こんな狂気じみた女、自分でも頭がおかしいと思う。けれど仕方ない。羽汰くんの将来なんて私には関係ないもの。私がいないあなたの未来になんて興味がないから。そう思ってしまう私って、最低な女だよね?


 羽汰くんがひと思いにやってくれたら、私はこの世に未練なんてない。

 だって幸せじゃない?世界で一番愛する人が、最期の瞬間まで見ていてくれるなんて。私の人生の最期のその瞬間が、あなたを見つめて終われるなんて。


「うたくんが殺してくれるなら、わたし幸せかも」

 そう言ったと同時だった。


 私の言葉に相槌もうたなかった羽汰くんが、私の後頭部を掴んだかと思うと自分のほうへ引き寄せて、馬鹿なことを口走る私を遮るようにその唇を塞いだ。


「うた……っ、く……っ」

 何度も名前を呼んで、彼を止めようとするけど男の子の力になんて敵わなくて。何かに焦るように荒々しく、キスをする羽汰くんに私は抵抗する気もなくなっていった。

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