神様をもう一度信じてみるのなら

第31話


 心地よい風が全身に染みわたる。まだ肌寒いこの時期にこの場所は私の身体には少し酷かもしれない。潮の香りが鼻腔を擽った。


「……もう、一か月かあ……」


 私がこの長閑な田舎町に家族とともに引っ越してきてから、もうそんな月日が経つなんて。涙を流して過ごしてきた毎日は長いようで短かったと思う。出来ることなら、学校は辞めずに通いたかったけれど、ガタのきていた私の身体ではもう“秘密”を隠し通すこともできなくなってしまったから。黙って姿を消した私に友だちは怒っているかな?心配してくれているかな?



 手術の前に、やりたいことはないかと両親に聞かれて、私は「静かな場所で過ごしたい」と言った。手術が成功しても失敗しても、私に残された時間は他の同年代の子たちよりもずっと短いと思う。だからせめて穏やかに眠りたいじゃない?


 死ぬことを前提に話す私に、二人は複雑な顔をしたけど、私の最初で最後の我儘を聞いてくれた。


 できることなら、最期まであの場所で笑っていたかった。死ぬまで普通の生活をしていたかった。〈Ree〉のケーキを食べていたかった。


 できることなら……


「――死ぬ前に、うたくんの彼女になりたかったなあ……」


 たった一つ。どれだけ願っても叶わない望みは、両親には到底言えるわけもなかった。あの人は今何をしているだろうか。“清々する”と言った彼はきっと私のことなんてこれっぽっちも思い出すことなく、綺麗なあの子と肩を並べて笑い合っているだろう。猪突猛進で可愛げのない……先の見えない女ではなく、清楚でふんわりとした雰囲気をまとったあの女の子と、明るい未来に向かって歩いていく。


 彼の幸せを望んであげたい。そんないい女でいたい。だけど、それを近くで見守れるほど心は広くない。ここを選んだのも、彼から遠く離れたかったからだ。少しでも物理的な距離が離れれば、私の気持ちも羽汰くんから離れられるかもしれないと思った。


 だけど穏やかなこの場所で、考えることといったら世界で一番大好きな人のことだけだった。


「……っ、あいたい、よ……」


 いつだって君が大好きで、君に会いたくて、何度だって赤い屋根を目指してあの道を歩いた。


 お店のドアを開けた時のベルの音。「いらっしゃいませ」って営業スマイルを向ける彼。


「うたくん、ください!」って言えば、呆れたように、照れたように、笑うんだ。


「あいたい……っ、うたくん……っ」

 どれだけ酷い言葉を告げられても、迷惑だって思われても、羽汰くんを嫌いになんてなれなかった。だって彼が私にくれたのは、辛く苦しい思い出なんかじゃなかったから。何度思い返したって色褪せることのない、涙が出てしまいそうなほどの、幸せで、温かくて、優しい思い出。誰にも侵されない私だけの記憶だ。




 いつだっただろう。幼い頃、誰かに聞かれた気がする。

『――神様が一つだけ願いを叶えてくれるなら、なにをお願いする?』

 その頃は神様が本当にいると信じて、必死に星空に祈った。でも、叶えてくれたことなんて、一度もなかった。いつしか神様なんていないと、願いなんて叶わないと、祈ることすらやめた。もしも、本当に神様がいるのなら――


 神様、どうか一つだけ、私の願いを叶えてください。


 時間を戻して欲しいなんて言いません。私の身体を健康にしてなんて願いません。私の嘘を彼に許して欲しいなんて言いませんから。


 出来ることなら、もう一度だけ、羽汰くんに会わせください。もう一度だけ、笑って欲しいんです。


 ――どうか、私のせいで傷つかないでほしいの。






 ワンピースが砂にまみれるのなんて気にせず、しゃがみこんで思い切り泣いた。大きな声で鳴き叫んでも、波の音がかき消してくれる。時期外れにこんな田舎の海にやって来るなんて、そんな物好きは滅多にいないんだから人目も気にしなくていい。


「うう~っ」

 いくら泣いたって、彼には届かないんだから。


 どうにもムシャクシャして、握った砂を放り投げてみたりもした。誰に向けた怒りなのかも分からないけど、「ばかやろー!」って叫んでみたりも。

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