第30話


 ショックを隠せない様子の律が、やっとのことで掠れた声を出す。

「……そういえば、この間……あこちゃんが倒れた時、助けてくれた、人……?」

「……ああ」


 ……倒れた?そんな前兆があったなんて。気が付けなかったのも、俺が自分のことばかり考えていたからだ。


「やっぱり、あのときのあこちゃん……おかしかったもん」

 見ているこちらが痛くなりそうなほど唇を噛みしめて、その大きな瞳からポロポロと大粒の涙を流す。俺はどこか他人事のようにそれを見つめていた。


「あこちゃん……っ、なんで……、言ってくれなかったんだろ……っ」

 彼は気付いてあげられなかった事を悔いている。亜湖は生きるか死ぬかの瀬戸際で、ずっと生きてきたっていうのか。どうしてそんな環境の中で、あんなに眩しく笑っていられるんだよ。


「……亜湖はいつも言ってた」


 ――『りっちゃんは泣き虫だからね』

 ――『わたしはりっちゃんの笑顔がいちばんすきだからっ』


 それを昴さんから聞いた律は、また次から次へと涙を流すんだ。

 ……やっぱり、羨ましいよ、律。亜湖はいつも律を想ってんじゃん。


「……あいつは自分のことよりも、他人の幸せを優先する。自分はいつか死んでしまうから、幸せになる必要なんてないって思ってる」


 ……違うよ、違う。亜湖、君は誰より幸せにならなきゃ。それだけ苦しんで、辛い思いをして、見えない未来に不安になって――もう、十分じゃないか。もう幸せになろうよ。


「――そんで」

 俯いた俺に投げかけられた言葉。……あれ、おかしいな。頬を熱い何かが伝っている。


「あいつの口癖は『うたくん』だった」


 ――『うたくん、ください!』

 ――『うたくん、いつものねっ』

 ――『うたくん、だいすき!』


 ――『うたくん!』


「『うたくん』ってあと何度呼べるか分からねえからって。皆の前から姿を消す前に、一生分呼んでおきたいんだって言ってた」


 耳に残る、甘い響き。心臓を揺らす声。俺は亜湖が呼ぶ自分の名前が好きだった。俺は一度も名前で呼んでやれなかったのに。



「……あいつから、一言だけ……伝言がある」

 ……律のこと、言えないな。

 顔を上に向けてみても、流れていく雫は止められなかった。喉の奥が熱くて、息が上手くできなくて。大きく息を吸ってみても、吐いてみても、空気を取り込めた気なんてしない。


 昴さんの声を通して聞いた、あいつの言葉の後にはもう何も聞こえなかった。


 ――『うたくんが、いつまでも笑っていられますように』


 俺の幸せはあんたが隣で笑っていてくれなきゃ成り立たないのに。あんたが笑ってくれなきゃ、俺だってもう笑えないよ。


 亜湖……君の幸せは一体どこにあったのかな。





「……羽汰っ、あんなひどいこと言ってっ、ばかばかばかっ!」

 律は泣きながら俺の肩を叩く。悲痛な叫びが、俺の胸に刺さって痛い。苦しい。

 確かに悪いのは全面的に俺。だけど、俺にだって言い分はあった。

「だって、律が……」

 傷つけたのは俺だけど、律が慰めてやればよかったじゃんか。俺とは違って、それができる立場だったじゃないか。

「……俺?」

「あの子と、キスしてるの……見たから」

 ……惚けないでよ。俺は見たんだ。思い出すのも嫌だったあの日の光景。律が照れたように笑うのが目に見えて、切り出すのも避けていた話題だ。

「……ええ?」

 首を傾げて、心当たりを探すように目を泳がせていた律だけど、すぐに首を何度も横に振った。


「……ない。そんなことするわけないよ」

 俺の目をじっと見つめて否定するから、意地になった俺はあの日のことを事細かく律に告げて、記憶を掘り起こそうとした。すると律が何かを思いついたような表情になって

「……キス、してない」

 そう呟いた。

「……あの日、俺があこちゃんを抱きしめたのは本当。だけど、俺我慢したもん。屈んだのはあこちゃんの目元のメイクが崩れたって言うから見てあげただけ。あそこは暗かったから近づかないと見えなかったの!」

 一気に捲し立てる律。「我慢した」って言葉が引っ掛かったけど、そこは指摘しないことにする。一つ一つ、絡まった糸が解けていくように――誤解が、解ける。それと同時に、頭から冷水をかけられたような気になった。


 ……待って?じゃあさ……。


「……俺の勘違いで、あいつを、傷つけた……?」

 ……ああ、どうしよう。俺は取り返しのつかないことをしてしまったんだ。

 後悔しても、もう遅い。


「……なんにもっ、伝えてない、のに……」

 伝えたかった言葉も、伝えるべきだった言葉も、何一つ。してあげたかったことだって、応えてあげたかったことだって、何もかも。彼女から逃げていた。


 ――叶うのなら。

 神様、どうか一つだけ、俺の願いを叶えてください。


 時間を戻して欲しいとは言わない。もう一度好きになってもらいたいとは言わない。俺の酷い言葉をなかった事にしてなんて言わないから。


 もう一度だけ、亜湖に会わせてほしい。一度でいいから、彼女を抱きしめて「好きだ」って言わせてほしいんだ。


 お願いだから、勝手に現れたなら――勝手になんて、消えないでほしい。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る