第28話
亜湖が来なくなって、一か月が経った。
あいつの気持ちを考えて、当然だと思った一週目。ドアの音と同時にあいつの声が幻聴となって聞こえ始めた二週目。あいつの特等席を通る度に、胸が痛んだ三週目。いつもあいつが頼む紅茶の香りがする度に泣いてしまいそうになった四週目。
どれだけ待ってもあいつは来なかった。それはそうか、俺を嫌いになっただろうから。
だけど、あの子が避けていたのは俺だけじゃなかったらしい。
「――羽汰、あこちゃんと連絡が取れない」
閉店後の片付け中、今日は休みのはずの律が勢いよく入ってきたかと思えば、そう涙目で俺に詰め寄ってきた。
亜湖の親友でもある律が連絡を取れない?じゃあ俺には到底無理だよ。彼女の連絡先すら知らないんだから。
皿を洗っていた手を止めて、水が流れていく様子を眺める。
「……知らないよ」
気にならないわけがない。だけど俺には関係ないんだって言い聞かせた。
「……学校にも、来てないらしい」
「……え」
持っていたコップがシンクに転がって音を立てる。動揺はもう隠せなかった。
「あこちゃんの家に行ってみたけど、誰もいなかった」
今までそんなことはなかったと言う。
いつも天真爛漫で隠しごとなんてできなさそうな亜湖。あいつが黙ってどこに行くっていうんだ?
最後に見た彼女の寂しそうな背中はいよいよ消えてしまいそうだった。あの時、掴んで止めればよかったと後悔してももう遅い。ふわふわと飛んでいってしまいそうな儚さを持ったあの子の姿。震える肩に気付いた時にはもう走り去っていて。
無理もない、そうさせたのは他でもない俺なんだから。
俺がいないところで二人は仲良くやっているのだとばかり思っていた。律も俺に気を遣ってあの子の話をしないようにしていたのかと。その方が傷つかなくて済むから良いと思っていたのに。
「あこちゃん……学校辞めたんだって」
でも、今回ばかりは……ただ事じゃないようだ。
俺があんなことを言ったから?……それはない、と言い切ってもいい。だって、学校でのことを話してくれるあいつの顔はキラキラしていて、楽しいんだってことが伝わってきていた。学校が好きだってことも、ちゃんと知ってる。俺のことと学校は全く関係ないはず。
じゃあ、何だ?あんなに楽しそうだった学校を辞めてまで、姿を消した理由は?
「なんで……っ」
唇を噛みしめた律は今にも泣いてしまいそうだった。俺が彼女のことを知っているかもしれないと、最後の望みをかけたのか。
俺と律との間に、静寂が訪れる。それを裂くように、水流が無機質なシンクを鳴らしていた。
コンコン
ノック音に二人で肩を揺らして我に返る。閉店時間をとっくに過ぎているから、もちろん鍵を閉めてあるドア。ブラインドを下ろしているから、一体誰がノックしているのか、全く分からない。
コンコン
もう一度ガラスを叩く音がして、律と二人で顔を見合わせ、扉へと向かう。
「……はい」
ゆっくりとブラインドを上げるとガラスの向こうが見えてくる。そこにいたのは目つきの鋭い男性だった。年齢は30歳前後くらいに見える。細身の体が身に纏っていたのは白いワイシャツに黒いズボン。“大人の男”って言葉がピッタリな雰囲気の人。その決して“優しそう”とは言えない表情に、律と俺は少し怯んだけど、開けないともっと怖いことになりそうだと思って鍵を開けた。
「……すみません、もう閉店なんですけど……」
ドアを少し開けた律が恐る恐る告げた。男の人は少し俯いてから、俺らを交互に見る。
「わかってる……でも、大事な、贈りもんなんだ」
頭を下げて、そう言った彼がなんだか悲しそうで。切実そうな思いは伝わってきた。
「……律、だめかな……?」
思わず俺はそう聞いていた。大切な人との大切な“今”は、もう――戻ってはこないんだ。今の俺みたいに。
「……しょうがないね」
優しくて人情に厚い律のことだから、断らないと思ってたよ。
今日はいつもよりケーキが残ってて、それを片付ける前だったから幸いだった。ショーケースの前ですぐにケーキを指定すると、レジの前に立つ男性。……それは皮肉にも、亜湖がいつも食べていたケーキだった。
「……お祝いごとですか?」
そうフレンドリーに話かけた律。目の前の客は頭を掻きながら照れたように微笑んだ。強面な割に、そんな顔もできるんだと微笑ましく思う。
「……あー、俺の大事な奴がさ、ここのケーキの大ファンなんだよ」
そう告げた彼の表情はその“大事な人”を想ってか、とても優しく感じられる。
「そう、なんですか……。ありがとうございます!」
律がお会計をして、俺はその隣で箱詰めをした。大ファン。こんな時でも思い浮かべるのは、たった一人。
「……そいつ、ここの常連でさ。今は来れねえんだよ。だから代わりに来た」
目の前の男性客は、何故だか俺をチラチラと見つめているのに気付く。知り合いだろうか。心当たりはないのだけれど。
「へえ……。じゃあ僕らも知ってますかね?」
律が何気なく口にした疑問。男の人は、ほんの一瞬、迷ったように口を閉ざしたけれど、まるで大切な宝物を確かめるかのような優しい口調で話し出した。
「……そいつはさ、馬鹿みてえに真っ直ぐで、純粋で……。すんげえ幸せそうに、ケーキを食べるんだ。こっちまで幸せになるような、そんな顔で」
その答えに、俺たちははっとした。目の前の、箱に入ったケーキを見つめる。……知ってる。そんな子、一人しか思い当たらない。
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