第22話


 走ってあの子の後を追う。前に一度だけ、彼女を家まで送ったことがあったから……その記憶を頼りに我武者羅に走った。思ったよりも早くあいつの背中が見えた、と思ったらポツリと冷たい雫が降ってくる。


 ああ……ツイてない。



 雨でぼやけた視界。その中で見えた彼女の後ろ姿が、なんだか消えてしまいそうで。慌てて足が縺れんばかりにスピードを上げる。

「……っ、待って!」

 ぐいと引いた腕。そのまま体をこちらに向かせると、あいつの揺らめく瞳と視線がかち合う。

「……うた、くん……」

 その瞳から零れているのは、雨?それとも……。


「……泣いてるの?」

 そう聞いてもあいつはぎこちなく口角を上げた。

「泣いてるわけないじゃんっ、雨だよ……」

 それ、笑ってるつもり?俺が好きになったあんたの笑顔はそんなんじゃないはずだよね?

 まるで泣くのを我慢しているかのように、顰められた顔。こっちまで苦しくなってくるような、そんな表情。

「……なんでっ、そんな顔してるの……っ」


 ……ほら、俺まで……声が震えちゃったじゃん。



「……ねえ、うたくん」

 願わくはそうやって、ずっと名前を呼んでて欲しい。俺が安心できるように。


「だいすきだよ」

 願わくは、いつも伝えてくれる言葉を何度だって聞いていたい。


 願わくは……彼女の手を取って、連れ去りたい。そんな衝動まで生まれてしまう。


「……知ってる」

 願わくは、いつまでも俺の隣で囁いてほしいと思う。

 ……だけど、ダメなんだ。


 あんたは俺なんかより律といる方が、幸せになれるんだから。あんたには幸せになって欲しいんだよ。俺にいっぱい、幸せをくれたから。


 律にだって、いつでも笑ってて欲しいんだ。俺をいつだって笑わせてくれた親友だから。


 ……俺がいなくたって、あんたは幸せになれるよ。


「だいすき、だいすき」

 いつだって真っ直ぐ目を見て言ってくれるのに、今回だけは目を逸らした彼女。そんな些細なことで傷ついた気分になる俺はつくづく自分勝手だ。


 俺を見て欲しくて、そっと慣れない手つきでその髪を撫でる。だって今だけは、二人きりでいられる。誰も見てないから。

「……どうしたの、ほんとに」

 もっと、「だいすき」って言ってよ。俺が忘れてしまわないように。あんたが律と幸せになっても、俺があんたを諦めても、ずっと思い出せるように。


 雨の音に紛れて彼女は弱々しく呟いた。俺が一番恐れていた言葉を。

「……すきって、言って……」

 冗談じゃなく、本気で彼女が俺に何かを求めたのは初めてだった。

「……え……」

 言ってやりたいのに、言えない。いつもみたいに流せばいいのに、それもできない。


「……うそ。ごめんね」

 何も言えない俺に、慌ててそう謝る。ぎこちない笑顔に胸が締め付けられた。


 ぎゅっと切なくなったのと、少しの安堵が胸の中で渦巻く。どん、と身体に小さな衝撃が走った。いつの間にか、俺の胸に頭を押し付けるあいつがいて。

「……ちょっと、だけ……」

 俺の胸に飛び込んできた彼女は、思っていたよりずっと小さかった。その背中に腕を回して抱きしめ返したい。ちょっとだけなんて言わず、ずっとこうしていたいと思った。

「……痛いって」

 時が止まればいいとすら思った。


「だいすきだよ、うたくん。死ぬまですきだから」

「……死んでも、じゃないんだ」

「……だって死んだって、うたくんはわたしの気持ちにこたえてくれないでしょ?」

 ……死んでも好きでいてくれたら嬉しいのに。そんなことを思う俺は矛盾だらけ。

「だから死ぬまでには、うたくんとちゅー、しなきゃね」

 心臓がまた激しく鳴り響いて、それを誤魔化すようにあいつの頭をぐちゃぐちゃにした。

「へへ、ありがと」

 なんでお礼なんて言うの。もっと触れたくなるじゃん。


「……俺、べつにあんたのこと嫌いじゃないよ」

 諦めるって、決めたはずなのに。どうしてあいつに期待させるようなことを口走っているんだろう。

「……うん」

 俺は一体何がしたいんだろう。


「どうしたらいいのかな。俺にはよく、わからなくて」

 自分の気持ちすら、どう片付けたらいいのか分からなくて。律にすら言えない気持ちが溢れてしまいそうで、でもそれじゃダメなんだって。まずは律に伝えなきゃって、それだけをただ考えた。

「もう少しだけ、待ってて」

 そうやって、彼女を縛り付けるようなことして。彼女の気持ちに応えられるのかどうかもわからない。律を傷つけてまで彼女を手に入れることが本当に正解なのか。何度も考えて、何度も悩んで。いつまでも答えなんて見つからない。


 でも、少しずつ俺の想いは形を変えていた。


 ……ごめん、律。俺、お前を傷つけるかもしれない。

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