第16話


「……もう、こんな時間……」


 家を出て、待ち合わせ場所へ向かわなきゃいけない時間はとうに過ぎている。休日だというのに、どうしてこうも憂鬱なのか。


 すうちゃんに連絡して、遅れる旨を伝える。だけどどうしても急ごうという気が起こらない。ゆっくりと準備を終えた私は重い足取りのまま、玄関を出た。



 電車に乗って、着いた〈Ree〉の最寄り駅。最近は〈Ree〉に行くためにしか使っていなかったこの駅に、ゆっくりと足を踏み入れる。


 すうちゃんてば、車もってるくせに迎えに来てくれてもよかったんじゃない……?


 そんなことを思いながら、私は歩き慣れた道を進んでいく。


 少しずつ見えてくる赤い屋根。鼻腔を擽る甘い香り。それはこの間まで胸躍らせるものだったはずなのに。今はただ苦しく胸を締め付ける。



 すうちゃんとの待ち合わせ時間からは30分以上過ぎている。急がなきゃいけないのに、そう思えば思うほど足が前に進まない。とうとう大好きなケーキ屋さんの前で、立ちすくんでしまった。



 ……羽汰くんに会いたい。でも、会いたくない。


 俯いて地面を見つめる。店内を覗く勇気はない。



 ……だって覗きこんであの子がいたら?大好きな彼が私にしたように、あの子にマフィンを食べさせていたら?


 ここから逃げ出したいのに、それすらできない。これじゃあ、すごく怪しい人だ。








 ぼうっとつっ立ったまま、気がつけば辺りは暗くなっていた。はっと我に返ったのは、聞き慣れた声が耳に入ってきたからだ。気がつけば二つの人影がお店から出てこようとしていたから慌てて近くの木の陰に隠れた。


「……あこちゃんの気持ちに答える気、ないの?」


 りっちゃんの、珍しく真面目な声が聞こえる。その内容は、私が聞いてもいいものなのか。……いや、きっと聞いちゃだめなんだろうけど、聞かずにはいられない。羽汰くんの答え次第で、私は……。


 だけど無情にも、耳に入ってきたのは決して喜ばしくはないもの。


「……あんなの、一時の気の迷いだよ。すぐに忘れる。もっといい人がいるんじゃない」


 私の一世一代の恋も、それを伝えてきた告白も、やっぱり羽汰くんには届いてなかったのかな。


「あんなに毎日来てくれるのに?羽汰のことしか見えてないのに?」

 りっちゃんが怒りを含んだ声で、私を庇ってくれる。だけど、正直もうやめてほしい。ただ、惨めになるだけだもの。

「……」

 羽汰くんは軽く舌打ちをした。私に背を向けて立っているから、羽汰くんの表情は見えないけれど、きっとりっちゃんを睨んでいるのかな。


「……もし、あこちゃんが羽汰に愛想尽かして……他に好きな人ができたらどーすんの?」



「……べつに。むしろそのほうが清々する」


 “清々する”。その言葉に、私の中で何かが弾けた気がした。


 清々する?私の気持ちは羽汰くんにとって、うっとおしいものだったってこと?それならはっきり言って欲しかった。あんなに甘やかさないで、突き放して欲しかった。


 ……なんて、我儘もいいとこ。もしもそうされたとしたら、どっちにしたって傷ついてるくせに。



 その場から離れようとしたら、運悪く――りっちゃんと目が合ってしまった。

「……あこ、ちゃん……」

 驚きで目を見開いたりっちゃんが呟いた私の名前に、ぴくりと身体を震わせて反応した羽汰くん。

「え……」


 ゆっくりと振り返った大好きな人。その顔には焦りが浮かんでいて、そんなことにすら、どうしようもなく傷ついてしまう。

「あのね、これは……」

 りっちゃんが早口で誤解を解こうとばかりに言葉を紡ぐけれど、全部聞いてしまった私にはあまり意味のないことだった。


「……いーよ、りっちゃん。大丈夫!」

 りっちゃんの目を見て、「言ったでしょ?」と視線を送る。


 “……言ったでしょ?私は羽汰くんを諦めるって”


 私の想いが届いたのか、ぐっと押し黙るりっちゃん。


 おかしいな……。りっちゃんにはこんなに簡単に私の気持ちが通じるのに。


「……うたくん」

 気まずそうに目を伏せていた彼に声をかければ、私をチラリと見てまた俯く。

「……」


「……ごめんね」

 ……なんて言えばいいか分からなくて、ただ謝ることしかできなかった。ひどいよって罵るのも、どうして分かってくれないのって縋るのも、違う気がしたから。


「……なにが」

 ぶっきらぼうな話し方は、私にとって大好きなものだった。冷たい視線も、嫌いじゃないの。


 私の甘い考えで、あなたに恋することを決めたけど、やっぱりやめておけばよかった?あなたを諦めることが、想像していたよりもずっとずっと苦しいものだったから。



「すきに、なって……ごめんね……っ」


 好きにならなきゃよかったのかもしれない。でも、それはできなかったの。


 堪えていた涙は流れてしまったけど、その直前には彼に背を向けたから見られていないと思う。


「ばいばいっ」

 明るく、元気に。手を振って、その場を後にした。それが私だもの。しおらしいなんて、傷ついてるなんて、お笑い草。


 ……これで、よかったよね?


 うん、そうだよ。


 結局最後まで、羽汰くんを彼氏にすることも、ちゅーすることも、できなかったなあ。


「だいすき、だけど……っ」

 ぽつりと零れてしまった独り言は無意識だった。


 ……羽汰くん、幸せになって。私が遠くからあなたを見て、安心できるくらいに。嫉妬すらできないくらい、私が大好きだった笑顔で。


 あのね、羽汰くん。私、ひとつだけあなたに隠していたことがあるの。


 それは私にとって取るに足らない秘密だけれど、きっと他の人から見たらとても大きな障害。打ち明けて同情されるのも、悲観されるのも嫌だった私は、最後まであなたに言うことができなかった。でもそれは私が取ってきた行動の中で、一番賢明な判断だったのかもしれない。


 私がいなくなっても、あなたは気にも留めないだろうか。少しは心配してくれるだろうか。



 私が……



 ――私が死んだって聞いたら、あなたは何を思うのだろう。



「……さよなら、うたくん」


 絶望ばかりだった私の世界に現れた、天使のようなあなた。辛くても苦しくても、あなたがいた鮮やかに色づく温かな世界に……私はもう、戻れはしない。

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