第5話
「あこちゃん、そろそろ店、閉めるよ~」
りっちゃんがそう伝えに来てくれるまで、私は無我夢中で羽汰くんを見つめていた。時々やって来る女性客が、羽汰くんに良からぬことをしないように監視。そしてケーキを見つめて微笑む羽汰くんにニヤニヤしちゃっていた。
「わ……!もう?じゃあわたし帰るね!」
もうそんな時間かと慌てて立ち上がる。外が真っ暗になっていたことにも気が付かなかった。
「俺、送ってこうか?」
窓の外をチラリと見て心配そうに言ってくれるりっちゃん。さすが身も心もイケメンだ。
「……大丈夫!そんなに遠くないから」
だけどそんな迷惑かけるわけにはいかない。長時間ここで羽汰くんの観察をさせてもらってるだけで感謝してるのに。
「え、でも……」
「大丈夫だよ、わたしのこと襲う物好きなんていないから」
眉を下げて困惑するイケメンの有難いお言葉を丁寧にお断りして、羽汰くんに挨拶して帰るために厨房を覗きこむ。
「うたくん、うたくん。わたし帰ります!」
「もう帰るの?」って言ってほしいところだけど、そんな期待はするだけ無駄だ。
「……あ、そう」
それにしても、返事が軽すぎるけど。唇を尖らせながら「ばいばい」と手を振ると
「ちょっとまって」
引きとめる声に、ドアに向かっていた体を羽汰くんへ戻した。
「……どうしたの?」
パチパチと瞬きすれば羽汰くんはするりと帽子を脱ぐ。
「……ひとりで、帰るの?」
彼の疑問に首を傾げた。どうしてそんなことを聞くのだろう。今まで一度も聞いたことなかったのに。
「そう、だね。りっちゃんが送ってくれるって言ってたけど、お断りしたから……」
羽汰くんの眉がピクリと動いて、帽子でぺったんこになった髪の毛をくしゃっと手で馴染ませる。
「……まってて」
……え?それって、もしかして。しても無駄なはずの期待を、してもいいのだろうか。
「ま、まってますっ!いつまでも……っ」
思わず噛んでしまうくらい必死にそう告げたら、そんな私を見てふっと笑う大好きな彼。
「そんな待たせないよ」
そう言って背を向けると厨房の奥へと消えて行った。こんなこと、地球がひっくり返るより衝撃的だ。どんどんと表情筋が緩んでいく。
「……羽汰なら、いーんだ……」
りっちゃんがいつの間にか隣で立っていて、寂しげに呟いた。りっちゃんは断ったのに、羽汰くんにはお願いしたんだから少し罪悪感がある。りっちゃんは寂しがり屋だからきっと拗ねてるんだろうなってことも、もうお見通し。
「……りっちゃん。つぎはいっしょに帰ろうね」
しょぼんとしているりっちゃんの顔を覗きこんで、機嫌を取ってみれば
「……へへ」
口を四角にして笑った。この単純なところがお馬鹿なんだけど、私は彼のそんなところが好きだ。
「やっぱ羽汰が羨ましいや……」
頭をよしよしって撫でてくれる。りっちゃんの手って、すごく安心する。きっと羽汰くんによしよしなんてされたら、昇天しちゃうから違う意味で落ち着かないよね。……されたことないから分かんないけど。
「……律」
帰ってきた羽汰くんが、また少し怖い顔してる。
「うたくん!」
羽汰くんの私服に鼻血出そうになっちゃった。ただの白いTシャツに黒のスキニー合わせただけのシンプルなものなんだけど。ううん、ただの、なんて。羽汰くんが着ればランウェイだって歩けるブランド物に見えちゃうんだから!
「……いくよ」
そう言って私の手首を掴んだ……って、え?そんなことある?
「うううううっ」
羽汰くんの名前を呼びたくても舌が絡まって上手く発せない。これはもう恋人じゃない?
「……ばいばい、あこちゃん、羽汰」
一瞬だけ見えた、困ったように笑って手を振るりっちゃん。「ごめんね」と口パクで伝えて、掴まれたのとは反対の手を小さく振り返した。
足が縺れそうなほど速く歩く羽汰くんと、息が切れて体力が限界な私。
「うたくんっ、うたくん……っ」
何度か羽汰くんの名前を呼んでいたら、私の目の前をズンズン歩いていた彼がハッとして立ち止まった。掴まれたままの腕がするりと抜け落ちる。
「……あ、もったいない」
「空気読みなよ」
思わず出た本音に振り返った羽汰くんが冷めた目で見てくる。だってそう思ったんだから仕方ないでしょ。
「……ごめん、手」
さっきまで掴まれていた手首を今度は優しく持ち上げて、親指でするりと撫でる。
「……痛かったよ、ね……」
申し訳なさそうに目を伏せたから、思いっきり首を横に振った。
「うたくんならっ、なにされてもいいよっ」
私の言葉にゆっくり視線を上げる羽汰くん。ばっちり目が合ってドキッとした。
「……そーいうこと、あんまり言わない方がいいよ」
真剣な羽汰くんの目。
「なんで……?」
「……俺だって、男だから」
うわ、すごいキュンとした。いまいち言葉の意味は分かってないけど、ただただキュンとした。
「うたくん、だいすきっ」
「君、なんにもわかってないでしょ」
はあ……とため息をついた羽汰くん。そのため息吸ったら幸せになるかな?
私に背を向け歩き出した羽汰くんを追いかけて隣に並ぶと、関心すらなかった星空が、いつもより綺麗に見える気がした。
もう少しで家に着く。もう少しゆっくり時間が進まないかなと考えていたら、羽汰くんのテクテクと歩く足取りが急にゆっくりになる。同じことを思っていたのかも――なんて思い上がりもいいとこだけど。
「……律と、ずいぶん仲いいね」
気まりが悪そうにポツリと呟いた。その内容は、お互いの親友のことで。
「……うたくん、やきもち?」
まさかとは思うけど、それ以外には考えられなくって。私の都合のいい頭が勝手に解釈する。すると怪訝そうな顔をした羽汰くん。
「……その口塞ぐよ」
「え?ちゅーしてくれるの?」
会話が噛み合っていなくて、二人で同時に首を傾げた。だけど私の言っている意味を理解したのか、ハッとした表情になったかと思うと次の瞬間には顔を真っ赤にさせた羽汰くんが可愛すぎて悶えた。
「ばか!」
「あいたっ」
少し強めのデコピンが飛んでくる。本日3度目のダメージは思ったより痛くておでこを押さえた。
「……いーもん。いつかちゅーできるように頑張るもん」
ジンジンする部分を撫でて、ポツリと呟く。聞こえていないと思っていたけど、羽汰くんの耳にはしっかり入っていたみたい。
「頑張る必要、ないから」
ふい、とそっぽを向く羽汰くん。それはどういう意味?
どれだけ頑張ったって、無理だってこと?
それとも――?
羽汰くんの横顔からは全て読み取ることはできなかったけど、真っ赤になった彼の耳だけは今も鮮明に思い出せるくらい、私の記憶に刻まれたのだった。
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