『Aura』

 クラッチを踏んでいた足をじわりと外すと、愛車はのろのろと走り出した。


 開いた屋根の少し上……。すこしだけひんやりし始めた夏の月夜、ラジオからはお気に入りのイントロが流れ始める。


 時計の秒針にも似た、乾いて落ち着いたパーカッション。フェードしてきたボーカルの声が空間を広げるようなエコーに変わり、アンニュイなベースが重なる。


 右に倒したウインカーよりはるかに遅いそのリズムに胸を高鳴らせながら合流を終えて、いつもならすぐに抜き去ってしまう自立貨物車の後ろについてボリュームをひねる。


 そして、響いてくる軽やかな、けれど熱を帯びたピアノに耳を任せて頭の上にモヤモヤを放り投げていく。──積もったストレスが解けて、空気に混ざって消えていくこの瞬間がたまらない。


 サビの手前、高まるボーカル。後ろに誰もいないのをいいことに、シフトノブを寝かせてアクセルを煽る。エンジンの鼓動を感じながらクラッチを離せば、曲の盛り上がりとともに弾丸となった愛車がトラックの横を飛び抜ける。


 ターボの弾みがついた針は右へ右へと進み、ボディが風を切り裂いていく。切なさを秘めた声は、ご自慢のスピーカーのおかげでまだはっきりと聞こえる。


 ビリビリと震えるウインドウ、レッドラインまであとわずか。ステアリングを握る手に汗がにじむ。そこからは、愛車が古びたアスファルトを離すまいとしている様子がありありと感じられた。


 ──ミラーからAIトラックが消え、前にはパーキングエリアへの看板。


 疲れた体にはこのあたりが限界だった。知らず知らずのうちに飲み込んでいた息を吐き、左の車線へ戻ってアクセルを離せば愛車も大きなを吐いた。


 激務から開放されたエンジンが緩やかに回転を落としていくのに合わせて私も肩の力を抜く。


 穏やかなピアノソロとボーカルの残響。私の密かな楽しみもそろそろ終わりそう。


 ──月を眺めながら、コーヒーでも飲むとしよう。

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Scrapyard Gottamixes みずた まり(不観旅 街里) @Mizuta_Mari

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