第112話:互いのいた場所
いや、タク
すぐには結論を出せなかったが。
ガサガサッと、硬いビニールの音。ソファーと脚の隙間から、ポテトチップが二袋。
もう開けているほうを、七瀬先生は自分の顔の上で傾ける。粉薬でも飲むみたいに、中身が口へ滑り落ちた。
「お前、どこに行ってた」
鋭い目が、また窓の外へ。ただ、一つだけの雲も、まして窓枠の汚れも、きっと映っていない。
ポテトチップを噛み砕き、飲み込んで、新しく追加する。そういう人形みたいに、ぼんやりとして見えた。
「どこって——実家の住所、知ってますよね」
今日は会ってから、ずっと一緒だ。咄嗟に戸惑い、
「アホ」
その言葉が、空に書いてあったんだろうか。感情とか気持ちとか、そういうもののない平たい声。
「引っ越すって、遠くへ旅行するだけと思ったんですよ。そしたらもう、この町へは帰らないって。アホですよね、ははっ……」
なにを言えばいいか。
それとも、なにも言わないがいいのか。
分からないなり、後者でないことを祈る。とりあえずできるのは、自嘲すること。あれからを説明すること。
幸い、うるさいと苦情はなかった。
「会いに来たんです。うちの親、忙しくて、一度だけ。でもタク兄はいなくて。誰だったか、いた人にメモを渡して」
すん。と鼻息が聞こえ、ポテトチップの投入が止まる。
正解だったのか?
答えを知りたくて、様子を窺う。それなのに先生の手は、十秒ほどで再起動した。
ポテトチップの袋をゴミ箱へ投げ込み、緑茶のペットボトルを取り出して飲む。
ハズレか。
どんな顔を、どんな態度をくれたら正解と思えたか。オレにも分からない。
まだ
——そうか。
七瀬先生は、オレが誰だか気づいていた。それなのに名乗ってはくれず、バカだのアホだのとしか呼んでくれなかった。
その意味を、どうやらオレは怖れているらしい。
「……春前だったか。最年少の男の子が来なくなって、それから次々に人数が減った。今にして思えば、その子が悪いわけじゃない。四月を迎えて、みんな環境が変わったってだけだ」
ごく、ごく。と脈打つように緑茶を飲み干し、先生は話し始めた。
それは教科書を朗読するみたいに淀みなく、抑揚があっても熱を感じない。伝わる体温は、さっきより上がったと思うのに。
「まあ恨んだ。私も中一だし、信じた奴らが散り散りになるのは二度めだった。五月を待たず、神社へ行かなくなった。どころか、自分の部屋へ篭りきりだ。やることと言えば勉強か、こいつだけ」
今さら品定めでもあるまいに、先生はコントローラーを眺めた。ちょっとレバーを動かして、ひっくり返して、裏も表も。
なんとなく釣られ、自分の手に目を向けた。十年近く経つ物のわりに、綺麗なツヤをしている。たぶん使わないまま、箱に収められていたんだろう。
「ちょうどいい、とな。夏には私の行く道も示された。おかげで試験だの受験だの、苦労せずに済んだ」
行く道という言葉に、寒気がした。
校長に
オレがいなくなって、出歩かなくなって、ちょうどいいからって。それは……。
数十秒前に聞いた「恨んだ」という言葉がのしかかる。背中に、氷の冷たさと重さで。
「遅かれ早かれだ。七瀬の家に生まれたからで、誰のせいでもない。悪いとすれば、往生際の悪い私自身。引っ越しなんて言葉も知らん子どもに、いつまでも当てこすったところで」
ずっと、オレを思い続けてた? そう聞けば喜ばしいが、中身が良くない。
先生の思う気持ちは、あいつのせいだと。ずっと、ずっと呪い続けていた子どもが、ある日生徒として現れる。
いったい、どう見えるのか。想像のしようもなく、ただただコントローラーを撫で回し続けた。
おかげではないけど、一つ思い出した。先生に聞かれたことを。
「だから、聞いたんですか。どうしてここにいるのかって」
たしかゴールデンウィークの旅の途中、料理を作っていた時だ。
遠い親元から、なぜ土原学園へ来たのか。どうして文芸部に、そして七瀬先生の前にいるか。
やぶからぼうに、いてはいけないような質問だった。
七瀬先生と出会い、面白そうと思った。とかなんとか答えたはず。
「さて、どうだったか」
ダークボイスと同時、キャラクター決定の音が響いた。先生が選んだのは、白い空手着の主人公。
ゲームで遊んでくれるというなら、少なくともその間はここにいていい。オレも迷わず、青い中華服の女の子を選ぶ。
タク兄と気づかなければ良かった。
後悔の気持ちに気づかないふりで。
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