第111話:九年の距離
半端に閉じられた扉を眺め、大きく息を吸った。のは無意識に、ため息を吐こうとしたから。
しかし止めた。無理やりに飲み込んで。
気休め程度、椅子を整えて図書室を出た。目の前には南校舎の壁と、そこまでのなにもない中空。廊下を見渡しても、七瀬先生はいない。
行き先は分かる。下る階段を横目に、隣の部屋へ。次の言葉を捜しながら。
「——そろそろ元に戻さないとですね」
文学カフェ、せせらぎ。部室はまだ、その体裁を留めていた。
調理場を区切ったダンボール箱がいくつか床へ降ろしてあるけど、ほぼ。
部屋の隅にそびえる、やはりダンボール箱の塔。綺麗に飾られた布もそのまま、あると知ったカメラがどこか分からなかった。
探し当てる前に、片付けなきゃと思うのが声になった。
「元に、か」
七瀬先生の姿は見えない。ソファーの背もたれから、声だけがする。
いいのかな。とためらいながら、後ろへ。テレビ周りの布が外され、画面には火を吹いて戦う男の姿が見えた。
コンピューターの操る対戦相手は、既に瀕死だ。七瀬先生の側はダメージゼロ。名前の入力でもするような、淡々とした操作で。
制限時間を九割方残し、勝敗が着く。しかしすぐさま、それが決められたプログラムみたいに、また先生は火吹き男を選択した。
ただ対戦相手を、
まだまだ暑いこの時期、これが男なら体温が伝わってくるはず。どうして女性だと違うんだろう。
体温が低いのか、そういうクリームみたいな物を塗っているのか。
「それは、いつを指している」
「え?」
コントローラーを渡してくれる手に触れた。氷水に浸けたみたいに冷えて、驚いたけど心地よかった。
もう一つ驚いたのは、オレの使うキャラクターが勝手に決められていた。いや別に構わないけど。
迷彩のズボン、はちきれんばかりの筋肉に申しわけ程度のタンクトップ。金色の髪は全て逆立ち、ホウキかな? って感じ。
必殺技の出し方も知らないのに、対戦が始まる。いつを指してって、なんのことか考える暇もない。
まさか今までの操作を見て、オレにはこのキャラが合うってことか。
なんにでも努力は不可欠だが、天性の向き不向きも無視できない。先生ほどの上級者になれば、そういう判別も――八秒でやられた。
「あの、先生。コマンドだけでも」
「お前の知る、元とは。いつのことだ」
問答無用の二本め。仕方なくダメで元々、中華服のキャラと同じ操作をしてみる。と、オレの軍人キャラが回転蹴りを放つ。
火吹き男は目線の高さから、蹴りを打とうとするところ。それを見事に叩き落とす。
だからと、嬉しいとは思わなかった。このまま勝てば、静かに話させてもらえるかも。なんて、叶わぬ夢を抱いたのがせいぜい。
「ソファーとジョイステと、揃った時か。それとも、私がダンボールで寝ていた時か」
急になにを言い出した? 理解が追いつかず、画面の軍人さんが動きを止めた。
しかし火吹き男は遠慮しない。蹴って、殴って、投げてからの必殺技。軍人さんがいつ息を吹き返しても、隙のない攻撃。
「いやそれって……」
ダンボールベッドに眠る、いつも機嫌の悪い中学生の女の子。それが七瀬先生と話した初めてで、ここが部室と呼ばれる前。
その時に戻す選択肢もある。そう言っているのか?
ピヨピヨと、気絶した軍人さんの周りをヒヨコが駆け回る。同じくオレの手も動かない。じっとりと汗ばみ、ほかの可能性を必死に探った。
だが、ない。
なぜ文芸部をなくせと言うのか。それは七瀬先生が何者か、オレが気づいたから。だとしたら、気づかなければ。いや気づいた上で、先生に悟らせなければ。
まだそう言われたでもないのに、後悔が募る。
「それとも私が、大学の講堂で眠っていた時か。高校生の私が、授業中に居眠りしていた時か。中学では、よく体育をサボって寝ていた」
「……寝てばっかりですね」
どうも違うらしい。
窒息寸前だった喉に風が通り、肩で息をした。既に軍人さんは二本めも取られ、鼻血を流しているけれども。
「中学二年からだ。その前は、寝る暇もなく遊んでいた。自転車ですぐの神社の森へ行って」
ああ。
世界が静まる。賑やかだった自分の心臓さえ、気を利かせておとなしくなった。窓に抜ける風もしとやかに、どこか松の匂いを感じさせる。
夏の陽に焼けた石畳。仲間たちの踏む、乾いた砂の音。
そっと、目を――向けられない。
一メートルにも足らない、すぐ隣へ。二度と会えないと諦めた人がいる。
怖かった。はっきり見てしまえば、霧と消えるんじゃないか。
ゆっくり、盗み見るように。黒いパンツスーツが視界に占める割り合いを、ほんの少しずつ増していく。
だけど、消えなかった。
「なんでだろうとは思ってたんですよ」
「なにを」
オレと八つ違いの、カッコいいお兄さん。あのころと、たぶん背丈は変わってない。
顔は覚えているつもりだったが、今は吹っ飛んで分からなくなった。実はお姉さんだったのなら、アイドルみたいと感じたのも無理はない。
「見舞いに来てくれた時、
じっと見つめても、見つめ返してはくれない。どころか画面を向いたまま、キャラクターを吟味するように一つずつ眺める。
そんな横顔に、正直ピンとこない。化粧のせいかと思ったが、ゴールデンウィークに素顔も見た。大して変わらなかった。
「それにオレだけ、名前を言ってくれないし。ほかの誰だって名前で呼ぶのに」
答えがない。ちょっと考えるように、画面からも目を逸らし、鋭い視線が窓へ向く。釣られて見ると、くっきりした雲が一つ、真っ青な空だ。
しばらく。往復で十八年の懐古に必要だったのか、眠るようにまぶたが閉じた。
まさか本当に寝たんじゃ? と心配になったころ、ようやく開いた目がオレを睨む。これだけ話して人違いだったら。恥ずかしいでは済まない不安が襲い、唾を飲んだ。
そのオレの視界で、中学生にしか見えないパンツスーツの女の子は笑う。自身のはにかみを皮肉るように、ベーブレ好きの男の子みたいに。
「ミミシマって言いそうだったんだよ」
タク兄から、ほのかな熱が漂う。
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