第110話:あなたは誰

「じゃあたくみちゃん。タクちゃんズの復活を祝して、また飲みにでも行こうよ」

「……復活には、先に結成が必要と知っているか」


 タクミと呼ばれ、返答にため息二回分の間を必要としたのは七瀬先生。

 あははっ。と軽薄な笑声を残し、田村卓哉は去った。いやたぶん帰ったと思うし、見ていたはずだが、はっきりしない。


 そんなことより、だ。

 神社の森ブロッコリーの近所で、オレと八歳の差がある。それでいて名前にタクと付く男。

 条件に合う人が、あの界隈に何人いるだろう。その貴重なひとりが、田村卓哉だった。


「タクミ——?」


 意識して問いかけたわけじゃない。胸の奥。深いところに四、五歳のオレが「え? え?」と戸惑っている。

 その想いが膨れ、溢れた呟き。たぶんオレ以外の誰にも届かなかったはず。


「見嶋くん、大丈夫?」


 ふと気づくと、先輩の顔が目の前にあった。下から覗き込み、おーいって感じで手を振る。


「あ、え。はい」


 可愛い。間違いなく。オレを心配してくれてるってのが、悪いけど最高だ。

 でも。いつものように、家へ持ち帰りたいとまで思えない。


「ホントに?」

「平気ですよ、ちょっと気が抜けただけで」


 嘘じゃない。本来なら今ごろ、脱力して立っていられなくなっている。

 それがなんだか背骨をセメントで固められたみたいで、姿勢を戻した先輩を向くのもひと苦労だ。


「そっか、お疲れさま。さっきも言ったけど見嶋くんに助けられてばかりで、私が先輩なのに。だけどありがとう」

「そ、そんなことないですよ。やっぱりオレの勝手に巻き込んだと思ってて。これからのことも勝手に決めちゃったし」


 先輩の家で話したのと似たようなことを。進歩のないオレに、先輩は「そんなことないよ」と笑った。

 出会ってから今まで、特に旅のさなか。何度か自然に笑った顔を見たけど、それとは全然違う。


 困り眉を無理に持ち上げ、両側から紐で引いたみたいに口角を上げ、ほっぺやこめかみがヒクヒクしている。

 自分の意思で、笑おうとしてくれた。

 それがなんで今、と恨む気持ちもある。まあ、そうでなければ先輩を抱きしめていたかもしれない。結果オーライだ。


「あの、弥富先輩。見嶋くん」


 ノートとボールペンを片付け、明椿さんはカバンを提げた。

 いかにも帰り支度で、先輩とふたり「どうしたの」と次の言葉を待つ。


「恵美須さんから、終わったら来てと連絡があって」


 手にしたスマホを振って見せる顔が、申しわけなさそうだ。これからなにをやる予定もなかったが、雰囲気的にいなきゃいけない感覚は分かる。

 だから「どうぞどうぞ」と、芸人さんを真似て言った。七瀬先生に聞くべきかもしれないけど、聞けなかった。


「あ、ありがとう。それで先輩、先輩もどうですかって」

「えっ。私も?」

「ええ、ご迷惑でなければ。商店街のアイスクリーム屋さんに行くそうなんですが」


 明椿さんというと和菓子なイメージがある。ソフトクリームをおいしそうに食べていたし、もちろん嫌いじゃないだろうけど。


「アイス?」

「うん。季節限定で抹茶味があるそうなの。むつみちゃん、覚えてくれてたみたい」


 聞いてみると、校内一の声が照れた。しかも身を捩って、視線を逸らす。至高だ。

 抹茶ってのも、やはり好きそうだと思う。茶髪女子が言ったのは偶然かも。

 しかしこの喜びを、わざわざ邪魔する理由なんてなかった。


「見嶋くんは?」


 問う先輩の手が、オレの袖をつかむ。

 誘われるわけがない。悪意なく一緒に行こうとしてくれるのは、心から嬉しいが。


「あ、ええと、その。今日は女の子だけでって」

「そっかあ」


 明椿さんの気遣いが身に沁みる。正直、誘われたとして、行く勇気と心の準備がない。


「いいですよ。そんなに女子ばかりだと、オレもどうしていいか分かんないし」

「うーん、ホントに行っていいの?」


 行けば気まずいと言ったおかげか、先輩はもう誘わなかった。


「もちろんです」

「じゃあ、お礼もしたいし。お願いします」


 カバンを取り、後輩に頭を下げる。そんな人に、明椿さんも当然の笑顔で答えた。


「では七瀬先生、お先に失礼します」

「ああ、気をつけてな」


 明椿さんの音頭で挨拶をすると、可愛い女子ふたりは背を向けた。

 そのまま出ていくかと思ったら、先を歩くポニー先輩が出口で振り返り、また七瀬先生におじぎをする。

 続いて明椿さんも、同じ位置でこちらを向いた。しかしおじぎの前に「見嶋くん」と。


「ありがとう。また改めて、お礼させてください」

「そんな大げさな」


 オレはなにもしていない。収集をつけたのは七瀬先生で、それさえ有耶無耶にさせた部分がある。

 田村卓哉にも言い負かされたし、どこをどう考えてもお礼をされる身分じゃない。


 違うと言い張れば水掛け論になりそうで、お茶を濁した。

 それをどういう意味か、明椿さんは頷いて返す。鋭い目を優しくカーブさせ、明るく笑って。


 なにも言えず、見送った。扉が閉まると、気配も分からなくなった。あのふたりが妙なことをするはずもないが。

 扉を眺めて、しばらくの時間が過ぎる。遠くで飛行機の音が聞こえ始め、聞こえなくなるまで。


 後ろで、椅子に座っていたはずだ。オレの背中を見て、七瀬先生はなにをしていただろう。

 見ていたと思うのも自惚れで、ぼんやり食べたい物を考えていたかも。うたた寝していたかも。


 振り向けば分かるが、今じゃない。

 じゃあいつだ。と問われたとして、明確な答えは持ち合わせなかった。

 あなたは誰ですか。そう質問する準備の整うまで待ってほしい。なんの準備が必要かも、さっぱりだけど。


「タクミっていうんですね。名前」


 核心を突くようで、単に再確認の問い。黙っていては、なにも分からない。だが聞いても、やはり分からない。

 オレの作った沈黙を、僅かでも打ち消すために言った。


 今度は七瀬先生が、すぐには答えなかった。と言っても「んんっ」と伸びをする声は聞こえた。


「菓子が食いたい」


 図書室の鍵をオレに投げつけ、先生はさっさと出ていった。

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