第110話:あなたは誰
「じゃあ
「……復活には、先に結成が必要と知っているか」
タクミと呼ばれ、返答にため息二回分の間を必要としたのは七瀬先生。
あははっ。と軽薄な笑声を残し、田村卓哉は去った。いやたぶん帰ったと思うし、見ていたはずだが、はっきりしない。
そんなことより、だ。
条件に合う人が、あの界隈に何人いるだろう。その貴重なひとりが、田村卓哉だった。
「タクミ——?」
意識して問いかけたわけじゃない。胸の奥。深いところに四、五歳のオレが「え? え?」と戸惑っている。
その想いが膨れ、溢れた呟き。たぶんオレ以外の誰にも届かなかったはず。
「見嶋くん、大丈夫?」
ふと気づくと、先輩の顔が目の前にあった。下から覗き込み、おーいって感じで手を振る。
「あ、え。はい」
可愛い。間違いなく。オレを心配してくれてるってのが、悪いけど最高だ。
でも。いつものように、家へ持ち帰りたいとまで思えない。
「ホントに?」
「平気ですよ、ちょっと気が抜けただけで」
嘘じゃない。本来なら今ごろ、脱力して立っていられなくなっている。
それがなんだか背骨をセメントで固められたみたいで、姿勢を戻した先輩を向くのもひと苦労だ。
「そっか、お疲れさま。さっきも言ったけど見嶋くんに助けられてばかりで、私が先輩なのに。だけどありがとう」
「そ、そんなことないですよ。やっぱりオレの勝手に巻き込んだと思ってて。これからのことも勝手に決めちゃったし」
先輩の家で話したのと似たようなことを。進歩のないオレに、先輩は「そんなことないよ」と笑った。
出会ってから今まで、特に旅のさなか。何度か自然に笑った顔を見たけど、それとは全然違う。
困り眉を無理に持ち上げ、両側から紐で引いたみたいに口角を上げ、ほっぺやこめかみがヒクヒクしている。
自分の意思で、笑おうとしてくれた。
それがなんで今、と恨む気持ちもある。まあ、そうでなければ先輩を抱きしめていたかもしれない。結果オーライだ。
「あの、弥富先輩。見嶋くん」
ノートとボールペンを片付け、明椿さんはカバンを提げた。
いかにも帰り支度で、先輩とふたり「どうしたの」と次の言葉を待つ。
「恵美須さんから、終わったら来てと連絡があって」
手にしたスマホを振って見せる顔が、申しわけなさそうだ。これからなにをやる予定もなかったが、雰囲気的にいなきゃいけない感覚は分かる。
だから「どうぞどうぞ」と、芸人さんを真似て言った。七瀬先生に聞くべきかもしれないけど、聞けなかった。
「あ、ありがとう。それで先輩、先輩もどうですかって」
「えっ。私も?」
「ええ、ご迷惑でなければ。商店街のアイスクリーム屋さんに行くそうなんですが」
明椿さんというと和菓子なイメージがある。ソフトクリームをおいしそうに食べていたし、もちろん嫌いじゃないだろうけど。
「アイス?」
「うん。季節限定で抹茶味があるそうなの。むつみちゃん、覚えてくれてたみたい」
聞いてみると、校内一の声が照れた。しかも身を捩って、視線を逸らす。至高だ。
抹茶ってのも、やはり好きそうだと思う。茶髪女子が言ったのは偶然かも。
しかしこの喜びを、わざわざ邪魔する理由なんてなかった。
「見嶋くんは?」
問う先輩の手が、オレの袖をつかむ。
誘われるわけがない。悪意なく一緒に行こうとしてくれるのは、心から嬉しいが。
「あ、ええと、その。今日は女の子だけでって」
「そっかあ」
明椿さんの気遣いが身に沁みる。正直、誘われたとして、行く勇気と心の準備がない。
「いいですよ。そんなに女子ばかりだと、オレもどうしていいか分かんないし」
「うーん、ホントに行っていいの?」
行けば気まずいと言ったおかげか、先輩はもう誘わなかった。
「もちろんです」
「じゃあ、お礼もしたいし。お願いします」
カバンを取り、後輩に頭を下げる。そんな人に、明椿さんも当然の笑顔で答えた。
「では七瀬先生、お先に失礼します」
「ああ、気をつけてな」
明椿さんの音頭で挨拶をすると、可愛い女子ふたりは背を向けた。
そのまま出ていくかと思ったら、先を歩くポニー先輩が出口で振り返り、また七瀬先生におじぎをする。
続いて明椿さんも、同じ位置でこちらを向いた。しかしおじぎの前に「見嶋くん」と。
「ありがとう。また改めて、お礼させてください」
「そんな大げさな」
オレはなにもしていない。収集をつけたのは七瀬先生で、それさえ有耶無耶にさせた部分がある。
田村卓哉にも言い負かされたし、どこをどう考えてもお礼をされる身分じゃない。
違うと言い張れば水掛け論になりそうで、お茶を濁した。
それをどういう意味か、明椿さんは頷いて返す。鋭い目を優しくカーブさせ、明るく笑って。
なにも言えず、見送った。扉が閉まると、気配も分からなくなった。あのふたりが妙なことをするはずもないが。
扉を眺めて、しばらくの時間が過ぎる。遠くで飛行機の音が聞こえ始め、聞こえなくなるまで。
後ろで、椅子に座っていたはずだ。オレの背中を見て、七瀬先生はなにをしていただろう。
見ていたと思うのも自惚れで、ぼんやり食べたい物を考えていたかも。うたた寝していたかも。
振り向けば分かるが、今じゃない。
じゃあいつだ。と問われたとして、明確な答えは持ち合わせなかった。
あなたは誰ですか。そう質問する準備の整うまで待ってほしい。なんの準備が必要かも、さっぱりだけど。
「タクミっていうんですね。名前」
核心を突くようで、単に再確認の問い。黙っていては、なにも分からない。だが聞いても、やはり分からない。
オレの作った沈黙を、僅かでも打ち消すために言った。
今度は七瀬先生が、すぐには答えなかった。と言っても「んんっ」と伸びをする声は聞こえた。
「菓子が食いたい」
図書室の鍵をオレに投げつけ、先生はさっさと出ていった。
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