第109話:声なき声を
「嘘だね。たしかに」
小さく。当然、と言うように卓哉さんは頷いた。
こんな感じの答えと思ってはいたが、キツい。焼けたナイフの心臓へ刺さる心地がした。
「なにか言うことは。と聞くから、ないと答えたまでだよ。ヨシの言い分が真実か問われれば、また別の答えをした」
「七瀬先生の質問が悪かった? そんな子どもの言いわけみたいな」
これ以上、想い出を
なんて言えない。タク兄からすれば突然にオレは姿を消し、まったく違う時間を過ごした。
あちらはれっきとした大人になり、こっちも体格だけはそれなりに。卓哉さんが言いわけなら、オレのは子どもの我がままだ。
「そう受け取るのは分かるけどね、違うよ。俺はいつも、受け持ちの生徒にも教えてる。自分の要求をはっきりさせないと、誰も進んで酌み取ってはくれないってね」
腹が立つとか悔しいとかいう気持ちも、たぶんある。しかしどこかで、もっと近い感情に接した。
——ああ、アレだ。みんなで旅をした時の、消滅集落。
人の生きた痕跡を植物が食い破り、覆い隠していた。あとは吹く風が塵に変え、いつかそこに集落があったことさえ知れなくなる。
あの哀しさを、淋しさを、目の前にぶち撒けられた気分。
「嘘を押し通すのもですか」
「だね。妥当と思えば手伝いもしたけど、あれは完全に無理筋だった。だから質問が違えば、答えも違った」
日本語として、文章として、意味は分かる。でもこれが大人の言うことか?
テーブルに置く手が、勝手に指を丸める。
「それは横暴というか……」
「そう? 自主性の尊重と言ってほしいかな。自分の希望を声に出し続けたほうが勝つ。黙っていれば、なかったことに。世の中そういう仕組みだよ。現に今、君たちもそうした」
納得はしない。でも、たしかにと思ってしまった。オレみたいなヘタレは、勝ち組に回るのが難しい。
言い返す言葉が見つからず、行き場を失った気持ちが拳を震わす。と、こっそりって感じに卓哉さんが指さした。
「ほら、それも希望を貫く手段だよ。今どき誰も味方してくれなくて、最悪の結果になりやすいけどね」
「そんなこと!」
そんなこと、考えていない。言いがかりが拳を浮かせ、テーブルへ叩きつけそうになった。
しかしすんででブレーキが間に合う。
味方ならいる。ポニー先輩と明椿さんは、オレが間違ってるなんて言わない。七瀬先生だって、こうして全面的に——。
全面的に、オレが殴ったのを肯定してる?
それじゃあやっぱり、卓哉さんを否定できない。
こんな時に助けを求めるのも、同じだろうか。迷いながら、抗しきれず、七瀬先生を見つめた。
まっすぐに、先生の眼がオレを見ていた。睨んでいるとも言えたけど、むしろ馴染み深い。
腕組みの脚組みから、なにか言おうと口が開きかける。でもそれより早く、別の声がした。
「見嶋くんは、私を守ってくれました。もういい、離れていてって言ったのに。そんな見嶋くんが嫌なことをされて、それも私や明椿さんを思ってのことで。火の粉を払ったようなものです、それも同じって言うんですか」
聞こえたのは後ろから。貸し出しカウンターの方向。
振り返ると、ポニー先輩がすぐそこへ立つ。カウンターの外、胸に握り合わせた手を震わせ。
「私も。自分のやるべきこと、ここから先は違う。そんな境界を取り払ってもらいました。いつの間にか線を引いていて、自分でも気づかなかったのに」
今度は明椿さん。変わらずボールペンを走らせたが、あの力んだ手では文字が震える。
いやでも、そんなことしたっけ。
「分かりますか。私は初めて、自分のためにここへ来たんです。学校の行事だから、先生に呼ばれたからじゃないんです。私が来たいと思ったから」
いつもよりほんの少し、熱の強い声。赤く燃え、陽炎みたいに揺れる声。
それでも自身の言葉を書き留めていく。それは卓哉さんを火傷させない、方便なのかも。
「そうです。いやオレが助けたつもりはないけど、そういうことはあるんです。七瀬先生もよく、『自分がどうしたいか、言わないと分からん』って」
だろ? みたいに頷くな。
違う。お前とは違う。
「でも言いたいことなんて、言いきれないでしょ。本音が言えないなんて、いくらでもあるでしょ。それでも七瀬先生は、酌み上げてくれる。溺れてても、ひと言叫べば、指の一本でも突き上げれば、水底まで来てくれる」
「うんうん」
分かった風に、何度も頷く。「違う」と、オレは首を横へ振った。
「助けてって言わなかったら、溺れ死ぬのも自分のせい。そんなこと、七瀬先生はしない」
「分かるよ、人間的には正しい。俺は臆病だから、足の着かない所で泳ぐなって先に言うけどね。大抵のことは、口に出せばなるようになる。でも自分の負ったリスクまで肩代わりさせようって、それこそ横暴じゃない?」
正しい。人間的にでなく、理屈として。同感だ、とオレには言えない。
立っている場所が違う。それこそ地上と水中みたいに。肺呼吸とエラ呼吸、火のあるなし、そういう根本をすれ違わせたまま話す気分だ。
「まあ理解できたよ。ひどくぬるい結末に持っていったなと思ったんだけどね」
「ぬるい——?」
「そうだろ。きみたち以外のことで、ヨシたちに被害はない。やろうと思えば、またきみたちを悪者にできる」
そこまでするだろうか。しない、とは言えるはずもなかった。
そうなったらその時のこと。とは目の前の人の言い分とは違い、考える気力を磨り減らした結果が思わせた。
「気が済んだか?」
もう飽きた、と同義に聞こえる声。
七瀬先生が言ってくれなければ、オレは話を終わらすこともできず、永遠に突っ立っていたかもしれない。
「こいつは昔からこうだ。ここで言ったくらいで、更生することはない」
「更生はひどいな」
明らかに呆れて指さされても、軽々に笑う。こうなってはオレも、引きつって笑うしかない。
「そもそもお前に言うべきは、一つだけだ。このアホは熱くなって、すっかり忘れてるが」
あ、そうだった。本題の前に聞きたいことをと思っていたら、それだけで終わってしまった。
なに? と鷹揚な空気を醸し出す田村卓哉に、七瀬先生は人さし指を突き立てて見せる。
「飲み屋。お前と同列に座った四人。未成年」
二つ、三つと指が増えた。そのたび、田村卓哉の爽やかな目が僅か曇った。
「教育上大変によろしくない店、ってのも付け加えるか」
「いやもう結構。俺はどんな労力を求められているのかな」
さすがにため息を吐き、やめてくれと手で示す。七瀬先生はそれさえも、鼻息で蹴散らした。
「知れたこと。良顕の手綱を握っておけ」
「それだけで? ほっとしたよ」
言葉と裏腹に、苦虫を噛み潰した顔。
きっとこれも意識して作っている。たしかにこんな人と相棒みたいに言われては、七瀬先生もいい迷惑だ。
お茶を手に、汚れてもないテーブルをハンカチで拭き、田村卓哉は席を立つ。
用は済んだ。もうお互いに、距離は遠いほどいい。
「今回は参ったよ」
だから、もういいって。
出口の間際、振り返って手を上げた。仕方なく、こちらも手を上げる。すると先輩は深々と頭を下げていた。
なんであんな奴に。
いい人すぎる。なんて、先輩の魅力に意識を逸らそうと試みた。
それでもなお。まだ田村卓哉の声に、頭の中を真っ白にされるなんて。思いもしなかった。
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