第107話:たかがの本音
なぜだろう。いまだふてぶてしく睨む津守先生を見ても、田村の時ほどでなかった。
溢れる感情に震え、怒鳴り、ましてや殴ろうなんて。今は思えない。
目を向けると、明椿さんはノートを見ていた。手が止まっていたから、俯いていたのかも。
ポニー先輩は肩を窄め、やはり自分の手もとを見ていた。
悲しいとかより、いたたまれない。そう言ったほうがしっくりくる顔。
先生だから、大人だから、なのか?
いや、違う。津守先生自身をどうこうするより、もうこんな人を見ていたくない。
少なくともオレの気持ちはそうだ。
「なんで、そんなことを」
大まかな理由は想像がつくし、間違っていないはず。だから聞かなくても良かった。しかしそれでは、この話し合いの意味がなくなる。
なるべく誰の姿も見えないように。津守先生だけは視界の端へ。すると暗転したままのスクリーンを凝視する格好になった。
「三十年だ」
理由を言うほうが恥ずかしいかもな。と思ったが、意外にきっぱり。というか堂々と、津守先生は答えた。
もちろんこのひと言だけでは、なんのことやらだけど。
「え?」
「お前の歳の二倍も、俺は土原学園に尽くしてきた。ひとりで成し遂げたとは言わん。だが校舎のどこを見ても、関わってない場所を探すのは難しい」
なるほど、と頷く。言い分にでなく、予想通りの中身だなと。
「その間、理事長は二度代わった。俺は毎度、挨拶に出向いた。七瀬の屋敷へだ。分かるか? 三人が三人とも、土原学園へ足を踏み入れなかった」
共感したと思われたか。津守先生の口もとが緩む。
僅か笑った唇の端へ、白い泡が吹く。斜めに見ていた視線を、慌てて逸らした。
「それは構わん。金を出すが口は出さんと言うのなら。まあ現実、我慢のできる範囲でもあった。時々バカな命令はあったが、給料分と目を瞑れた。しかし、アレはダメだ」
段々と怒りゲージの増していく津守先生の声。
まだオレに向いているのか? そんなことを言って、どんなリアクションを求めているのやら。
「現場に七瀬の人間を送り込むとは、これまで踏んばってきた者を蔑ろにしている。バカにしている。これが理由だ」
えっ、終わり?
もしかして、二つめの理由はとか続くのかと、待った。
でもそんなものは聞こえてこない。
いいだろうか、単刀直入に聞いても。オレの頭が悪くて理解できていない、とかだったら恥ずかしいが。
「あの。それって、オレたちと。文芸部となんの関係が——?」
「はあ?」
うわ、逆ギレだ。悪事を暴かれた立場と忘れたのか、今にもつかみかからんばかり。
後退ると、鼻で笑うオマケもつけてくれた。
「寝呆けてんのか、顧問だろう」
「いやそんなことは分かってます。でも今の話だと、七瀬先生が気に入らないってだけですよね」
「どういう意味だ?」
なぜ伝わらないんだろう。津守先生と、互いに首をひねり合った。
見当がつかず、「待ってください」と時間を取る。それでも正解は分からなかったが。
「たとえば文芸部に入ったからとか、七瀬先生と仲良くするからとか。オレに腹を立ててるんじゃ?」
「あの子と仲良くするなら見嶋くんも仲間ハズレ、か? バカにするな、小学生じゃあるまいし」
言葉の通じない相手って、こうもあちこちにいるのか。
いやまさか。心配になって、七瀬先生に助けを求めた。
「あの、オレの理解力がないんですか?」
「ようやく気づいたか、しかし今の会話に限っては違う。お前ら三人を、巻き添えとも考えていない。津守先生はそう言った」
小馬鹿にもしない、真顔の回答をもらった。
フワッと、腹の底の浮くような感覚。ちょっとした吐き気で、自分がショックを受けたと気づく。
「生徒って、そんなもんなんですね。なにがなんでも生徒を第一に、なんて求めませんけど。それじゃあ近所の知らないおじさんのほうが、まだ気遣ってくれる」
もう当人と話す気はなかった。ひどい話じゃないですか、と七瀬先生に言っただけだ。
でも、「おい」なんて。偉そうな声と手が、オレの腕をつかむ。
「なにを言ってる。俺は三十年も——」
「その三十年の結果がこれでしょ? オレたちがどう思うかなんて考えてない。悲しくて、悔しくて、どうもできないくらい悩むとか想像もしてない」
泣きたい気分だ。けど喉がカラカラになるものの、涙は干上がっていた。震えた声がその空気感を漂わすだけで。
「たかが文集、印刷し直せば済むだろ」
「たかが?」
つかむ手を引き剥がしたいのに、触れるのが嫌だった。
それでも限界で、力任せに腕を引き抜く。
「先生にはそうなんでしょうね。たかが文集、じゃないでしょ。たかが生徒の作った物、でしょ。それが津守先生の本音ですよ。そんなだから——階段から突き落とした生徒を守って、落とされたほうを退学させようとする」
今、言うべきじゃない。言えばポニー先輩を傷つける。一瞬、迷ったけど、言うことにした。
この痛みで最後にしてもらいたいから。
「そんなことしたの? 人間のクズじゃん」
あっけらかんと、手厳しい。簡潔な評価を下したのは茶髪女子の声だった。
津守先生は「クッ」と息を呑む。でもすぐに声を荒らげ、またオレをつかもうとした。
「見嶋お前! 教師をバカにしてるのか!」
来そうだなと予感があった。スッと一歩下がり、津守先生の毛むくじゃらが空を切る。
勢い余って、先生は床に転げた。それは予想外で、「大丈夫ですか」と駆け寄った。
「バカにはしてません。でも先生は自分たちで作ってきたルールのほうが、生身の生徒より大事でしょ。それは距離を置きたいな、って普通ですよね」
腕を取り、引き起こそうとした。のに、津守先生は力任せに、腕を引き抜いた。
おかげでまた、先生は転ぶ。
くそったれが。なんて毒づきつつ、どうにかその場へあぐらを。もう触れたくないし、触れられたくないはず。オレはそっと離れ、自分の席へ戻った。
「文化祭でのトラブルは、これで明るみに出たわけだ」
ひと呼吸置き、七瀬先生も自分の席へ戻ろうとする。
これで締めに入ろうというんだろう。だとしたら、オレには言いたいことがある。
「七瀬先生。先にいいですか」
授業中でもないのに、手を挙げる。はい見嶋くん、などと七瀬先生は乗ってくれない。
「好きにしろ」
と言われたのは、まあ予想通りだ。
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