第105話:天才と女王
ダンボールの塔なんてあったか?
ちょっと考え、思い出した。夏休みに入って数日、七瀬先生が突然に脚立を持ち込んだ時のアレ。
たしか模様替えとか言っていたはずだが。
「なんだ、公権力に出張ってもらおうという話か? 私個人は構わんが」
居並ぶ顔を舐めた視線が、津守先生に戻される。それを言うとオレも同列、というか筆頭になって肩身が狭い。
「いやそれは——」
警察なんか呼べば、少なくとも田村だってお咎めなしとはならないだろう。口篭る津守先生は、そこのところを心配しているのか?
いや、土原学園の看板にも傷が付く。
なるほど七瀬先生が最初に言った「親を呼ばなかったことを誰もが感謝する」とは、このことらしい。
今ならまだ、この図書室だけで話が収まる。
「俺も構わないでぇす」
見事な大岡裁きと、ばあちゃんの語彙を借りて頷いた。そこへ場違いな、のほほんとした声がテーブル上を転がる。
「あん?」
「だって、俺はなにもやってませんしねぇ。止めなかったって、捕まらないでしょぅ?」
七瀬先生の面倒くさげな返事。それになにも感じない風で発言の主、俵は呑気な展望を続けた。
「
お団子頭が駆け寄り、手を振り上げる。しかしちらと、七瀬先生に視線が飛ぶ。
急ブレーキがかかり、降りる速度は十分の一になった。
代わりに爪を立て、肩を揺する。それでも俵は気にせず、ペットボトルを口に当てた。だが空になっていて、どこからか新しい乳酸菌飲料を取り出す。
「誰を呼ばれても、お前だけは蚊帳の外でいられる。か?」
「えぇ。実際そうですもん」
問いかけた七瀬先生が、口の中でもごもごと舌を動かす。ゲテモノを突っ込まれたみたいに、気色悪げに。
お団子頭も、そっと手を離した。カビてでもいたのか、チラ見した手の平をテーブルになすりつける。
……俵、天才か。
「まあ、どう考えようと自由だが」
なにがって、数秒でも七瀬先生を怯ませたのが。
しかしさすが、すぐさま立ち直ったダークボイスは明椿さんに向く。
「明椿、
「分かりました」
お友だち? ここに?
なにを言い出したやら、理解できなかったのはオレだけでないはず。
直ちに席を立った明椿さんと、行く手で納得の顔をしたポニー先輩以外は。
「入って」
学校一のヒロイン声が、よく通る。先輩の横を抜け、奥の壁にある扉の先へ向けたのに。
そこは書庫。名前の通りに本を保管する場所だが、なぜか椅子の音がした。
「たまには読書もいいわね。途中から集中できなくなったけど」
伸びをしつつ、出てくるのは三人。顔ぶれを見て、たしかにお友だちだと頷ける。
「なんだか面白い話が聞こえたけど。とりあえず、俵?」
つかつかとリズムのいい足音が、ハイヒールに思えた。名指した男の目の前へ、左手を腰に立つ。
派手すぎない茶髪がよく似合って、初めて会った時より可愛いと思う。オレの好みなんか、どうでもいいだろうけど。
「ねえ。あたしたち、あんたに頼んだよね。打ち上げのジュース」
恵美須むつみは、いつも一緒のふたりを従え、俵を見下ろし——見下した。
「えっ、う、うん」
「近くの自販機でいいって言ったのに、買い出し班のリーダーだから任せろって。安く仕入れるって」
冷たい目だ。俵と、田村と。半々の割り合いで凍てつかせようとする。
「あたしらも楽しくなっちゃってたからさ、忘れてたけど。お金、返してよ」
「おっ、お金ぇ?」
右手が突き出される。風を切る音が、鞭かと思った。
顔も声も引きつらせ、俵はなんのことかと首をひねって見せた。
だがそれも予想のうちらしい。茶髪女子の表情は変わらず、首が二度ほど縦に揺れる。
それから右手が、連れの前に移動した。サッと機械的に、ポケットから取り出されたなにかが載せられる。
「これね、計算してきたの」
コピー用紙ともう一枚、小さな紙片。一枚ずつを両手に、中身が読み上げられた。
「領収証をね、
二枚を重ね、左手に。俵へ突きつけると同時、また右手の鞭が空を裂く。「返して」と至極真っ当な要求に、なかなか返事がない。
慌ただしく蓋を開け、乳酸菌飲料を飲む。茶髪女子の眉がヒクッとしたが、それは見逃された。
また蓋を閉じ、俵は俯く。小さく「領収書は、もらわなくていいって言ったじゃないかぁ」と。
「なにか言った?」
「あ、いや、その。それがさぁ」
たぶん茶髪女子にも聞こえている。だがあたふたと、俵は泥縄を編もうとする。
上げた顔に、
「小遣いがもうすぐもらえるから、待ってもらえるかなぁ?」
「使ったんだ?」
秒殺だ。百分の一秒を秒と呼ぶなら。
かなぁ? の顔が凍りつき、唇が震えた。二千二百円というせこい奪取金額はまだしも、相手は一年A組の女王さま。
「ねえ。こういうの、サギって言わない?」
「言うね」
「ヤバいね」
お付きのふたりに問いかけ、模範解答が揃って提出された。
「さ、サギとかじゃなくてぇ」
「なに?」
恵美須むつみは、論破に言葉を必要としなかった。じゃあなんだ、と絶対零度の問い返しで、俵は首と両腕をだらんと垂れさせた。
「ご、ごめんなさい……」
「あたしはともかく。あんたごときが、ノリを出し抜けると思うのが甘いのよ」
茶髪女子なりの、幼馴染への賛辞に違いない。控えていた明椿さんは、そっと自分の席に戻るだけだったけど。
「まあいい。それくらいのお金、本気で返してもらおうとも思わないし。その代わり、みんなにはきちんと説明しとくから」
反応のなくなった俵への言葉が打ち切られた。最後の死刑宣告を以て。
「あと、ヨシ。ああ違った、田村。全部、聞こえてたから」
「え……」
判決その二、が早速。ずっと立ちっぱなしの田村だったが、その場に膝を突いた。
もちろん茶髪女子は、そんなものを気遣わない。三人で七瀬先生に「ありがとうございます」と会釈して、隣のテーブルで見学を決め込んだ。
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