第103話:反撃の始め
「なにぃ?」
津守先生も憤りを隠さない。口元を引きつらせ、奥歯で声を磨り潰す。
誰が見ても、この場で一番の年長者。身体の一部をクローズアップすれば、さらに増して思える。
かたや、見た目で言うなら最も幼い。職場見学の中学生に、五十過ぎのおっさんが噛みつかんばかり。そんな光景だ
「頭だけでなく、耳まで不自由になったか? 恥ずかしげもなく言いたいことを並べてくれるが、そろそろ終わったかと聞いたんだ。ハゲ」
「なっ、ハッ!?」
その陰口は、至るところで交わされているはず。しかし直に言われるのは、きっと珍しい。
思わず復唱しそうになったんだろう。津守先生は自分の口を押さえ、すぐその手を拳に変えた。
「教師云々の前に、人としてどうなんだお前は! 他人の欠点をあげつらい、攻撃するとは。恥を知れ!」
激しく、テーブルが揺れた。明椿さんの手もとも跳ね、書きかけの数文字にものさしで線が引かれる。
書き直すと共に、テーブルを殴りつけた、の文字が加わった。
「はて、おかしなことを。罵倒、破壊、侮辱、この程度は黙って耐えねばならんのだろう? 言っておくが、私は薄毛を欠点とは感じない。あなたが恥じているようだから、ことさらに挙げただけだ」
「それとこれとは!」
また、大きな音がした。今度はテーブルそのものが跳ねたように思う。隣で「ひっ」と、ポニー先輩が縮こまる。
「津守先生。暴力で脅すのはやめてください」
間髪入れず、冷たい声が飛ぶ。言ったのはオレじゃなく、明椿さん。
「暴力など」
「違うんですか?」
静かな声に、津守先生の語気も弱まる。対して明椿さんの声は、上がりも下がりもしない。鋼鉄みたいな硬さもそのまま。
ただし、先輩に向けられた視線がそれ以上のことを訴えた。怯え、どうにか見届けようと上向く顔。
ウサギかリスか、こんな小動物をいたぶるなら人間じゃない。
「いや、その……」
「私も教えてもらいたい。それと、これ、とはどれとどれだ? うちの部長への行為と、ハゲと言われたのと。なにがどう違う」
鎮まりかけた火に、七瀬先生はまた燃料を注ぐ。まだ明椿さんの枷が利いていて、津守先生は歯ぎしりで堪えたけど。
正直オレも、比べてくれるなよと思う。
ふだん気にしていることを、ふだんバカにしている相手に言われれば、腹の立つのは分かる。
でも、文集を破ったこと。焼きまんじゅうを絵の具にしたこと。両方をゴミクズにしたこと。
どれもオレには致命傷だった。
「——七瀬先生。ダメですよ」
それでも見過ごせない。いや、見ていたくない。誰だろうと、その弱点が誰のせいだろうと、ことさらに攻める姿は醜い。
「ああん?」
「目には目をはダメです。オレは、こいつらと同じになりたくない」
邪魔をするなと言いたげに、七瀬先生は睨む。オレも睨み返し、否定の方向に首を振る。
「ハッ。敵を叩き潰すにも手段を選べ、か? だからお前は、いつまでも私に勝てんのだ」
笑う七瀬先生に、愉快な空気はなかった。小馬鹿にして、わざわざいっぱいに吸った空気でため息を吐く。
「しかしまあ、当事者の望みだ。応じないわけにもいかん」
言いつつ、鋭い視線がオレから離れていった。
次に向いたのは田村。奴も気づき、そっと目を外そうとするが叶わない。
「おい良顕、これはお前の悪意を知るために聞くんだが。お前ならどう感じるんだ?」
「ど、どうって」
蛇に睨まれた蛙、だ。どうにか逃れる隙を窺いながら、田村は身を固くして応じる。
「たとえばお前の大切な彼女が、弁当を作ってきた。私は玉子焼きをお前の身体になすりつけ、おにぎりを踏みつける。汚れた靴は、お前の服で拭かせてもらおうか」
概ね田村の行為そのままだが。微妙に変えて、よくもこの場でスラスラ言える。
流暢さがなおさら怖い。意味ありげなショートカットへの目配せも。
「お、俺ならどう感じるか?」
「お前も耳を悪くしたか」
ひどいことをする奴は、自分がされたらどう思うのか。もちろん歓迎とは言わないだろうが、なんと答えるか気になった。
田村も模範解答を捜しているらしく、卓哉さんと津守先生とに視線を走らせる。
ひとりは分かった風に、もうひとりは威圧する頷きを返した。両者の意見を、奴はテーブル上で混ぜ合わす。
「そんなことされれば嫌に決まってます。けど、俺はやってないし」
俯いたまま、チラチラと上目遣いに視線を散らす。説得力ゼロというのに、田村はそれだけ言って口を噤んだ。
「そうなのか?」
と七瀬先生の驚いた声にも、隣で目を丸くする卓哉さんにも、もう答えない。
あの時の我が物顔はどこへ行った?
散々にぶつけてくれた汚い言葉を、そんな殊勝な顔を抱えて言ったのか?
「違うだろ」
「なにが違う。俺がやった証拠でもあるのか」
ひっ、ひっ、と引きつけたような息遣い。それでもオレの呻きにだけは答える余裕があるらしい。
「証拠って、お前がオレに」
「ほかにだよ。お前やそっちの先輩以外に、誰か見た奴でもいるのか」
「……なんだお前」
まただ。同じ言葉を話しているはずなのに、なにを言っているか分からない。
気持ちが悪い。人間の格好をした、別のなにかと話しているようで。
「当事者以外に、誰も見た者はいない。それはお前らも同じ意見か?」
声を失ったオレに構わず、七瀬先生はショートカットとお団子頭に問いを向けた。
「あ、あたしらは、ちょっとからかっただけだし」
「そうそう。途中で怖くて逃げちゃったから、全部は見てないかもだけど。あたしらがヒガイシャだよ」
多少、言葉をつかえさせながら、田村はなにもやっていないと言い張る。もうなんだか、こういう見え透いた嘘を聞くだけでも疲労が増した。
しかも見え透いていると断言できるのは、オレと先輩だけ。奴らの言う通り、証明する方法はない。
「なるほど、お前は?」
もういいからやめよう、と言いたくなった。妙に淡々と、俵にも質問を向ける七瀬先生に感謝すべきなんだろうけど。
「田村の言う通りでぇす」
「そうか」
ある意味、俵が一番の大物かも。どうしてこうも、部外者めいた顔でいられるのか。
誰かが趣味の、たとえばゲームやお菓子の話を振れば、すぐに乗っかりそうだ。
「さて、そちら側で唯一の大人だが。なにか言っておくことはあるか?」
最後に、七瀬先生は卓哉さんを指した。喩えでなく、実際に指を向けた。
なにを言う? 田村が無実を主張して以降、卓哉さんは眉をしかめた。テーブルに両肘を突き、顎を支え、お世辞にも態度が悪い。
もう期待はなかった。あるとすれば、どれだけがっかりさせてくれるか。
「ヨシがしていないと言うものを、俺から付け加えることはない」
はいはい、そういうパターンね。
冷めた自分の気持ちに、驚かなかった。たぶんこれで正常だと、むしろほっとした。
どこか胸の奥のほう。とっくに空いた穴を抜ける風が、少し凍みたくらいで。
「明椿。書いたか」
「はい、しっかりと」
卓哉さんには言わせっ放しで、立てて見せられたノートに七瀬先生は頷く。
「まさかこの場で書いた議事録まで、言ってないとは言わんだろうな? なんなら回覧してもいいが」
いえ言います、とは誰も答えない。全員と二回、目を合わせるだけの時間を置き、「よし」と七瀬先生の腕組みが解かれた。
「弥富、やってくれ」
「はいっ」
どうやって叩き潰すのか、ここまで片鱗も見えなかった。
まさか秘密兵器は、ポニー先輩?
だとしてもやはり予想がつかないけど、意気込んだ返事と、勢い良く立ったのはそれっぽい。
「はあ? あんたごときがなにする気?」
天敵と言うのか、じゃんけんで言う強者と弱者のルールってものがある。
七瀬先生に強く出られないショートカットも、ポニー先輩には気に入らないと言えるようだ。
テーブルから離れようとした先輩は、肩を強張らせて立ち止まった。
「なにする気って……」
「うん、なに?」
脅しには聞こえない。ちょっとからかって遊んでいるだけ、と言えるふざけた口調。
そんなものも先輩には、奈落へ突き落とす手と同じのはず。
七瀬先生は冷たく睨むだけで、助けようとする気配はなかった。
それならオレが。
立ち上がりかけた耳に、舌打ちが聞こえた。それはパンツスーツの、文芸部顧問から。座っていろと、視線が示す。
「こんな——怯えて過ごすのを。やめる気」
先輩は誰の目にも背中を向けていた。静かにはっきりと答え、たくさんの時間を過ごした貸し出しカウンターへ進む。
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