第99話:信用できる?

 祈るように両手を絡め、肩を窄めた先輩。完全に後ろ向きの重心が、下着姿でなくなったお姉さんに支えられている。

 ぐいっと押され、堪えきれずに前へ。お互いが手を伸ばせば届く距離まで、そんな風に連れて来られた。


「あの……」


 声を出してみたものの、先輩は伏し目がちに、シンクの三角コーナーを見つめるばかりだ。

 大丈夫、野菜の切れ端一つ、入ってません。なんて切り出せる空気でなかった。


 先輩の顔から、目を逸らす。後ろに半分だけ覗くお姉さんの顔は、眉をルの字にして笑った。

 こうしてみると似ている。そっくりってこともないが、ふくよかな唇と丸顔が。


「……ねえスズ。心配して家まで来てくれるって、実はなかなかだよ。私に頼るのが嫌ならさ、こんな友だちくらい大事にしなよ」

「お母さんが嫌って、言ったことない」


 ボソボソと、拗ねた声。視線も変わらず、シンクの点検を続ける。

 でもやっぱり気持ちの問題で、寝込んでたりはなさそうで良かった。

 と言うか


「えっ、お母さん!?」


 声が裏返った。

 今日一番。いやここ数年。いやいや今後何十年か、これを超える驚きはきっとない。

 こんなに若い母親って、存在するのか? どう見たって二十歳くらいなんだが。


「うん、そう。似てるでしょ?」

「似てますけど——」

「けど? おばさんはダメ? そうなの、アラフォーなの」


 機嫌良さげなお姉さん、ではなくお母さんは先輩の肩を抱き寄せる。視線だけはチラチラと、娘の様子を窺いながら。


「いえ、おばさんなんて。綺麗だし、凄く若いです。先輩のお姉さんと思いました」

「ほんとに? ありがと」


 雑誌のグラビアも間違いなくイケる。そう思うと、薄いニットに隠れた胸へ目が吸い寄せられた。

 と先輩は、お母さんの手を自分の肩から外す。それを「隠して」と言うように胸へ宛てがい、さらにオレの視界に割って入った。


「お母さんが下着でドアを開けるのだけは嫌」


 だそうですよ。

 返答の順番を、お母さんに視線で押し付ける。責任の一端には気づかないふりだ。

 すると困り眉が、ハの字に緩む。


「この子ね、憎まれ口ばっかりで、大事なことなにも言わないの。最近楽しそうと思ってたけど、昨日も今日も体調が悪いの一点張りだし」


 返事はオレにじゃない。しかもそんな、仕方のない子でしょ、みたいな目で見ないでほしい。

 そっと盗み見た先輩は、上目遣いに恨めしそうだった。


「あの……」


 観念して、呼びかける。今度はオレを見たままでいてくれた。

 だけでなく、小さくなにか呟いた。


「え?」

「ごめんね」


 聞き返しても、とても小さな声だ。でもたぶん、謝られた。


「なんでですか」


 話すのが、凄まじく久しぶりに思えた。ほっとして、ちょっと無理に笑って問う。しかし先輩は悲しそうに、首を横へ振った。


「ごめんね、私のせいなのに。ずっと隠れて見てただけで」

「先輩のせいなんて、なにもないですよ。悪いのは田村で、殴ったのはオレで」


 環境委員のふたりと、田村は結託していたんだろう。

 お互いにからかいたい相手が同じ場所にいる、ちょうどいい。みたいな。


 だから、先輩は関係ないとオレ自身が信じていなかった。逆の立場なら、間違いなくオレも自分を責める。

 だけど、先輩はそうしないでほしい。


「ねえ、暑いしさ。冷たいものでも飲まない?」


 いつの間にか、食卓の向こうを横歩きするお母さん。水屋からコップを取り、冷蔵庫へ向かう。


「ええと」


 上がっていいものか。諸々のタイミング、先輩の気持ち。

 迷って、聞いたのは先輩に。


「いいですか?」

「うん、どうぞ」


 消え入りそうだったけど、たしかに。食卓へ向けられた手がどうぞと言った。


「……私、夜のお店やってるから。あ、雇われママね。昼間はほとんど寝てるし、スズと入れ替わりに仕事へ行く感じなの。だからなかなか話す暇なくて」


 夜のお店。ママ。そういう用語に詳しくないが、飲み屋さんと想像はついた。雇われ、と付いているのはなんだろう。


「お店のいちばん偉い人、ですかね。夜と昼が逆って大変そうです。しかも仕事でお酒を飲むの、美味しくないんじゃないですか?」


 酒くさいのは、そのせいらしい。たぶん事実の半分も実感できていないが、「お疲れさまです」と頭を下げた。


「美味しくないって——ええと、彼。名前、なんだっけ」


 違います。まだ彼氏じゃありません。

 言うべきか迷いつつ、頭を上げる。すると対面に座ったお母さんが、目を丸くしていた。


「見嶋です。見嶋行雄」

「へえ、カッコいい名前。じゃあ行雄くん、きみはお酒を飲むの?」

「いえ? 飲んだことないです」

「でも仕事で飲むのはって」


 名前が。だろうと、カッコいいと言われるのは嬉しい。もちろん落ち込んだ先輩を前に舞い上がる気にはならないが。

 いやむしろ、お母さんと話すのを逃げ場にしたかも。


「ああ、いえ。オレの親もふたりとも、ほとんど家にいなくて。夜には帰ってきますけど、小学生の起きてる時間じゃなかったです」

「じゃあスズと同じだ」


 それはどうだろう。言われて、頷けなかった。「そうなんですかねえ」と曖昧にしておいた。

 正直オレはそれが当たり前で、親にうるさく言われなくてラッキーと感じていた部分さえある。

 先輩はそんな、明椿さん言うところの不良ではないはずだ。


「ふたりとも自分の好きなことを仕事にして、後悔してるって言ってました。趣味は趣味だから好きで続けられるんだ、って。だからお酒も仕事にしたら、憂さ晴らしにもならないと思って」

「きみのご両親は、お酒を飲むのが今の趣味ってことね」

「あ、ですね」


 ふうん。と意味ありげに、お母さんは笑った。肘を突き、顎を乗せ、ポニー先輩と似た眼でじっと見る。

 その隣で娘さんは、透明なソーダをちびちび飲み続けた。大きなペットボトルにSODAと書かれた、見たことのないパッケージだった。


「ねえスズ。行雄くんは信用できる子だと思う。エッチだけど、それは正直ってことだし。あんたが良ければさ、なにがあったか聞いてもいい?」


 どうしてそうなった?

 エッチという部分が最も意味不明だが、信用できるというのも。もちろん嬉しい言葉だけど、お母さんがなにをどう考えたか分からない。


 ただ、先輩は頷いた。またコップを傾けただけにも見えたけど、たぶん首を縦に。

 じゃあ聞くよと念を押されても、ダメだという素振りをしなかった。


「ねえ行雄くん。たぶんきみは、去年のことも知ってるよね」

「え、ええ。まあ」

「うん。それもね、私は七瀬先生から聞いたの」


 ポニー先輩は、今度はテーブルクロスの花柄を数える業務を課したらしい。米粒くらいの花を一つずつ、指でさしていく。

 たぶん、これは勘だけど。お母さんを嫌ってはいない。


「だから行雄くんが、田村だっけ。殴った話も知らないの。どういうことだか教えてもらえる?」


 もう肘を突いていなかった。両手でコップを持ち、オレのコップに「乾杯」とぶつける。

 美味しそうに一気飲みするお母さんと、先輩を見比べた。


 これは話していいってことか?

 いや違う。オレが話すべきことだ。先輩を見つめて、答えた。


「分かりました」


 と。

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