第98話:贖罪の時間
誰、って誰だ。いやこの家にいるなら、先輩の家族に決まってる。ちょっと年上っぽいから、お姉さんか?
「ああ、スズの友だち?」
「はっ、あのっ、いえっそうです!」
「あはは、どっち?」
ポニーテールを解くと、こんな感じになるのかも。緩く波打った髪の根元を、小さな石でデコレーションされた爪が掻く。
家族にしても、親しげな呼び方。先輩とそっくりに揺れる、身体の一部分。じっと、目が離せなかった。
「男の子だねえ」
話す間に、女性の呂律はどんどんはっきりしていった。寝ていたのを起こしたなら申しわけない。
まあそれは後で謝るとして、男のオレに男の子とは?
男の娘とは見間違えないと思うけど、と首をひねる。するとツヤツヤした布地が重そうに、柔らかそうに揺れた。
「あっ! すみません、そうじゃなくて」
今のは幻と、ごまかすように。ごまかせるわけもないが、目をこすった。その間に、コンクリートを踏んでいた素足が板間へ戻る。扉も放したので、代わりにオレが手を添えた。
「いいのいいの、入って」
構わないと横に振られた手が、そのままオレを招く。「いや、でも」という遠慮も、下着の肩ひもを摘んで見せられては黙るしかない。
「スズ、あんたのお客さんよ」
玄関とも呼べない、靴を脱ぐためだけのスペースに入った。そっと閉めたのに、金属の扉は派手な音を立てる。
女性は奥に向き、先輩を呼んでくれた。ここは台所の一角で、対面に襖が二枚見えた。
流し、水屋、冷蔵庫。食卓を囲み、人ひとりがやっとの通路しかない。
模様のない壁紙も、ステンレスのシンクも、見る限り綺麗に掃除されている。でもそれでは落とせないシミや錆が、何十年の時間を感じさせた。
「ねえスズ?」
女性とふたり、襖を眺めていた。が、応答はない。「ごめんね」と女性は襖の傍へ立ち、顔を覗かすだけ開いた。
「ねえってば」
「出なくていいって言ったのに」
キャミソールみたいな上半身はまだしも、ズボンかスカートか履いてもらえないだろうか。
眺めていた耳に、ちょっとばかりショックな言葉が飛び込んだ。
「だってあんた、慌てて帰ってきたから。誰か追いかけてきたかと思うじゃない」
いえ、合ってますよお姉さん。ストーカーが家まで来たんです、追い返さないと。
先輩が拒むなら、それでしょうがない。簡単に諦めるなよと励ますのは、オレの中の天使と悪魔、どっちだろう。
「せっかく来てくれたんだからさ。男の子だし、帰ってほしいなら自分で言いな」
小声でいくらかやり取りがあって、最後がそれだった。素早く襖が閉められ、振り返った女性は「すぐ来るから」と苦笑する。
「はあ……」
「ゆっくりしてって」
なんと答えていいやら。所在のないオレをそのままに、女性はもう一枚の襖に消えた。
ひとりになり、見慣れない風景をもう一度見回す。
えっ。オレ、いていいのか?
なんだか泥棒に入ったような場違い感。すぐ来るって、いや来ないだろと思うのが拍車をかける。
離れた表通りのクラクション。アパートの下を通る自転車の、やかましいブレーキ音。
時にそんなものが聞こえるほかは、とても静かだ。冷蔵庫がブゥゥ、なんて文句を言うのも耳につくほど。
呼んでみるか?
会いたくないって言われたのに?
相変わらず、善悪の分からない勢力争いが続いた。先輩にとって
「あの、先輩。迷惑って分かってるんですけど、図々しく来ちゃってすみません」
考えたが、結論は出ない。だから出てきてと呼ぶのでなく、言いわけを並べることにした。
「お姉さんもたぶん寝てたのに、オレが起こしたんですよね。でも先輩と連絡がつかないって聞いて、心配で。たぶん怖い思いをさせちゃったなって、謝りたくて」
本当にそこへいるのか、疑いたいほど静かだ。それでも思いつくまま、言葉を吐き出すことにした。
もう出ない、となったら。そうしたら帰ろう。
「先輩と明椿さんと、オレも。全部まとめてバカにされたと思ったんです。バカにっていうか、なんだろ。ゴミだ、って捨てられただけじゃなく、踏みにじられたみたいな。あ、そのまんまか。はは……」
あの瞬間。先輩がいることは頭になかった。とにかく田村が許せなくて、消えてなくなれくらいに思った。
でも先輩の性格を思うと、やっちゃいけなかった。
それを今さら、ぐちぐちと。情けない。
だけどほかにないじゃないか。万が一、いいよって許してもらう以外、どうしてまた先輩と話せる?
「すみませんでした。先輩の前で——いや前じゃなくても。怖がらすこと、しちゃダメでした」
九十度に腰を折る。
誰も見ていなくても、そうしなければいけない気がした。
言葉にすると、顔から火が出そうだった。脚をつかむ手が、勢い余ってそのまま握り潰しそうだ。
「すみません」
同じ言葉を、三度繰り返した。しかし襖は開かなかった。
「先輩。オレのことは嫌っていいんで、七瀬先生には連絡してあげられませんか。心配してました」
と、これが最後の挨拶だ。「じゃあ」と小さく呟き、背を向ける。
今度は音をさせないよう、そっとノブを捻った。するとなぜか、後ろでガタガタッと物音が。
積み上げた箱を崩した感じだったが、大丈夫か?
首だけ、ちょっと振り向かす。
ゆっくり、襖が開き始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます