第97話:怪しい人
金曜日の朝を、どうやら無事に迎えた。軽トラックを引き取りに来た晶子おばさんが
「見嶋さん、運転しようってくらい元気が出たの。良かったわ、またいつでも言ってね」
なんて笑ったのには頷けなかったが。
まあ事故もなく、今日もばあちゃんが笑ってるのは良かった。
「ユキちゃん、出かけるの? おばあちゃんが送ろうか?」
午前九時過ぎ。朝のワイドショーを見逃すよ、という言いわけで家を出た。
バスはいい。広いし、窓が大きいし、落ち着いて景色を眺めていられる。
待ち時間と歩いたのも含め、恵美須病院近くへ着いたのは十時半ころ。日本の秋はもう来ないんだろうか、殺人的な暑さからコンビニに避難する。
こう、うまいこと偶然にポニー先輩と会えたりしないか。なんて願いながら。
だがもちろん、そんな偶然は起こらない。先輩と話すという目的は、いきなり難関を迎える。
ポニー先輩の家を、オレは知らない。
七瀬先生に聞いたら、教えてくれるのか? でも個人情報を漏らす罪を背負わせたくなかった。
ゆうべ明椿さんにも聞いたが、やはり知らなかった。「どうするの?」と問われ、「どうにかする」と渋く答えたけど。
現実は、買った緑茶が渋いだけだ。
コンビニから日の暮れた道を、女子ひとりで歩いても怖くない距離。くらいしか手がかりがなく、気が遠くなる。
それでも探さなきゃ。やってることはストーカーだし、会いたくないなんて言われたら死にたくなりそうだ。
それでも。
「
歩き始めて、ものの三十分。心が折れそうになった。既に緑茶は空で、その分の汗がTシャツをびしょびしょにした。
茶髪女子の家を探した時、弥富という表札は見なかった——気がする。だからその道は歩かなかったが、道路とは無限にあるものらしい。
ここで行き倒れて、目覚めたら目の前にはポニー先輩が。と、ならないかな。
漫画とかだとありがちだが、現実は普通に恵美須病院へ運ばれるだけか。
頭が朦朧として、そんなことしか考えられなくなった。今すぐに
補給基地はどこだ。見回すと五、六軒に赤い自販機が見えた。ちょうど誰か、飲み物を買おうとしているらしい。
しかも女性だ。小柄で、袖のないシャツと膝丈のスカート。
近くへ行ければ体力ゲージだけでなく、精神力ゲージまで回復するチャンス。自然と足が早まった。
とは言え怪しまれては、互いに良くない。財布を手に持ち、十円玉がたくさんあるなあなんて小芝居をしてみる。
普通にジュースを買うだけの、善良な高校生ですよ。と念じもした。
あと二十歩。女性が買ったのは、青いラベルのスポーツドリンク。水分補給は大事ですよねと勝手に共感して頷いた。
それが通じたのか、屈んで商品を取った女性がこちらを向く。
途端、アスファルトの砂を蹴り、駆け出した。
「えっ?」
逃げた? オレを見て?
まだ匂いも感じていないのに。なにが起きたか、オレが悪かったかも分からない。生足に見とれたせいで。
唖然としつつ、遠ざかる背中を見送った。それほど足は速くない。むしろ遅い。
だけど追う理由もなかった。
きっと極端に用心深いんだろう。残念だけどと諦めた、と同じタイミングで女性は走りながら振り返った。
自販機の前で止まったオレを見ても、まだ走る。
「先輩……?」
クソ、なんで気づかなかった! いくら裸足のサンダル履きだからって、ポニー先輩の脚なら分かるだろう。
慌てて走る、と財布から小銭が散らばった。景気良く、路面に跳ねた音が十数回も。だが拾おうなんて思いもしなかった。
言ってオレも、それほど運動が得意でない。じゃあなにが得意だと論ずれば悲しくなるが、今はさておき。
三十メートルほどの距離は縮みそうになかった。しかも先輩は角を折れ、姿が見えなくなった。
全速力の足をさらに早め、新たに見えた通りを見渡す。
「いない……」
長く直線に続く道。横道も多くあるが、さっきの足ではそこまで行けたか怪しい。
するとどこかへ隠れたことに。大声を出せば、聞こえるはずだ。しかし先輩の家の近所で、それはできない。
どうする?
迷っていると、頭上で足音がした。鉄の階段を駆け上がる、けたたましい音が。
見上げると、見たばかりのスカートがちらり。すぐ目の前に建つアパート、三階の一室へ先輩は逃げ込んだ。
どうする?
迷おうにも、選択肢はない。このまま帰れば、二度と先輩には会えないと思う。だから早く行け、と誰かが急かした。
でも迷うだろ。なんて声をかけるんだ、勝手に押しかけたこのオレが。
じっと、その場から動けなかった。アパートを見上げたまま、何分も。
ふとエンジン音に気づき、通りの先を見た。まっすぐ来たらしい原付バイクが、道の真ん中をやって来る。
黒いヘルメットのおばちゃんが、じっとこちらを見ていた。
前を見なきゃ危ないでしょ。と考えるオレを、たぶんおばちゃんは不審者に見ている。
十メートルほどのところで止まる寸前まで速度を落とし、オレの姿を目に焼き付けていた。
違いますよ、このアパートに用があるんですよ。
実際そうだが、そういう気持ちで足を動かした。階段下に設置された、おそらくアパート全体の郵便受けに。
三〇二。と金属の蓋へ、金色でプリントされた部屋番号。そこにチラシの裏へ書いた弥富の文字が、セロハンテープで貼られていた。
見ている間に、原付のおばちゃんは通り過ぎた。ちょうど角を曲がるところで、またオレと目が合った。
視線から逃れる。階段を上る言いわけができた。
金属の踏み板、柵。郵便受けもそうだったが、錆だらけだ。
元が何色だったのか、何回も重ねられた塗膜があちこち剥がれている。なぜ選んだか理解に苦しむ水色のしっかりしたところを歩かなければ、冗談でなく踏み抜きそうだ。
こんなに暑く、晴れている。どの階も通路も、外を隔てる壁はない。
なのに湿気とカビの臭い。ブツブツの壁も濡れて垂れたシミが、限りなく黒に近く染めた。
三〇一号室の三輪車を脇に寄せ、三〇二号室へ。
音符の刻印入りのボタン。その上にやはりチラシの裏っぽい紙が貼ってあった。弥富、と潰れた文字だが間違いない。
居留守されたら、どうしようもないな。
不思議と、チャイムを鳴らすのに迷いはなかった。茶色のペンキの剥げかけた扉の向こうで短く、ちょっとヒステリックな音色だ。
どれだけ待とう。
もう一度鳴らしてもいいのか。
応答のない前提で、次にどうするか考えながら待った。すると中で人の動く気配がした。すぐ、鍵を開く音も。
「せんぱ——い?」
頭一つ低い背丈。栗色の髪。敬愛する弥富先輩の特徴そのままの女性が、扉を開けた。
ただ、顔が違う。胸のこぼれそうな、黒い下着姿でも出てこないはず。
「だぁれ?」
眠そうに、怠そうに。その女性は酒臭いあくびをした。
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