第95話:気にするところ

 ばあちゃんの駆る軽トラックが、唸りを上げた。借り物だよと思うけど、どうもわざとではないようだ。


「トルコンだからね、おもちゃみたいなものよ」


 トルコンってなんだ? ばあちゃんは微笑んで、でもオレのほうを向く余裕はないみたいで。

 発進、停止、曲がり角。速度が変わるたび、身体が前後に揺さぶられる。どうもこの軽トラックのアクセルには、オンとオフしかないらしい。


 七瀬先生の超々安全運転に比べると、ほんの少しだけ荒々し――野性味が溢れた。ばあちゃんに運転してもらうのは、今回だけにしておこう。

 いや怖かったとかでなく、ばあちゃんの歳を心配して。


「おばあちゃんも行こうか?」


 明椿道場の前。八時五分のデジタル表示を横目に、軽トラックを降りる。よろめいたのは病み上がりのせいだろう。

 心配げな声には振り返らなかった。ここで頼れば、来た意味のなくなる気がして。


「ううん、ありがと。待ってもらうのも悪いくらいだよ」


 後ろ手にドアを閉めると、短い後ろ髪を引くように窓が開く。でもオレはもう歩き出していて、ばあちゃんもなにも言わなかった。


 ゆっくり軽トラックが進み始め、「やっぱり立派ねえ」なんてため息が。

 それはプレッシャーだよ。と思いつつ、なぜかオレは噴き出した。


 玄関脇まで、低い位置にライトが照る。そのせいか、押さえつけるように夜が重い。

 屋内の明かりに照らされてチャイムを鳴らし、そわそわと待つ。前回と違い、誰の声もなかった。しかし聞こえなかったか心配する間もなく、模様入りのガラスに人影が見えた。


「まさかと思ったけど。いらっしゃいませ」


 草色のワンピースで、明椿さんは迎え入れてくれた。虫が入るからと言われては、ためらう暇もない。


「手伝うって言ってくれたけど。そのためにわざわざ来たの? こんな時間に」


 たたきに立つオレを、板張りから見下ろす明椿さん。ばあちゃんの困り顔がどこへ行ったと思えば、ここにあった。


「お父さんに頼むんじゃないの?」

「うん、そう」


 なにができるか、結局思いつかなかった。明椿さんが頼むのなら、隣で土下座でもなんでも、というくらい。

 そうする意味は? と問われたら、明確な答えはなかった。


 ただ明椿さんの言葉を借りるとして、やらなければオレも名乗れなくなる。文芸部の部長、の前に明椿さんの友だちと。


「あっ、こんな時間って。明日のほうが良かった?」


 少し沈黙が続き、余計なことに気づいた。そんなの出発前に気づけよって話だが。

 明椿さんは慌てて首を横に振る。


「迷惑ってことじゃないの。時間も気にせずに来てくれる人がいるんだ、って驚いたの。私なんかに」

「なんか、じゃないよ。部活とは関係なく、明椿さんと話せなくなったら悲しいし」


 部活がなくなっても、話すなとは誰も言わない。言うとしたらオレ自身が、気まずさを理由にだ。


「——って、オレなんかが言ってもキモいか」


 失いたくない。

 これほど恥ずかしい、自分勝手な気持ちがほかにあるか。

 照れ隠しを言わずにいれなかった。が、冗談にはしなかった。自嘲もほんの少し、頬がヒクついた程度。


「なんか、じゃないでしょ」


 失笑を手で隠し、反対の手を伸ばす明椿さん。

 握手かな? 握り返すと、勢いよく引っ張られた。


「ちょっ、靴」


 転びかけ、どうにか靴を蹴り落とした。揃える時間も与えてもらえず、広い廊下に手を引かれる。


「明日もあさっても、お客さまがいると思う。だから今日しかなかったの」

「あ、そう。良かった、ごめん」


 どうやら歓迎されている。理解しても、こんな時間って言葉が耳に残った。「どうして謝るの?」の問いに、やはり謝って笑われた。


「大丈夫。私も今晩じゅうに言わなきゃって思ってたから。ありがとう」

「う、うん」


 答えたところで足が止まり、入ったことのない襖が開けられた。

 どこもかしこも純和風の明椿家に、大きなソファーがでんと構える。上座と下座に挟まれた、透明なガラスのテーブルも。


 きゅうっと喉の奥が鳴った。それでなくても、息を呑む必要があった。

 その部屋には、先客がいたから。この家の主を、先客とは言わないけど。


「倫子、その人は?」


 明椿さんのお父さんを初めて見た。

 だから人違いの可能性も。いや、ない。


 白と黒で半々の髪が、濡れて穏やかに撫でつけられる。きっと風呂上がりなんだろう、作務衣と瓶ビールと枝豆の取り合わせが完璧だ。


「お父さん、ゆっくりしてる時にごめんなさい。でもちょっといい?」

「ああ、いいよ」


 父娘は頷き合い、オレは対面のソファーに連れていかれた。手を繋いだまま。

 娘とそっくりな目が、オレの顔より手に向く。


「あのね、日曜日なんだけど」

「日曜日? うん、お母さんの手伝いをな。頼むぞ」


 硬めのソファーに並んで座り、明椿さんは両手を揉み合わせた。やっと離れたわけだが、空気は戻らない。

 お父さんは娘に語る時だけ目を合わせ、そうでないとオレを見つめる。


 違います、そうじゃありません。

 とか脈絡なく言うのも変で、機会までじっと耐える。

 歯を食いしばり、お父さんを睨みつけた。正確には、いかにも男っぽい大きな喉仏を。


「急に言ってごめんなさい。その日は用事ができたの」

「用事? 隣の彼がどうかしたのか」


 違います。まだ彼氏じゃありません。

 首を振るのも失礼な気がした。明椿さんが黙るようなら、勝手に喋らせてもらおう。

 でも息継ぎをしただけで、オレと話すのと変わらない声は続く。


「この人は見嶋くん。私たちの作った文集のことで、問題があったみたいなの」

「問題とは倫子のミスとか、そういう話なのか?」

「いいえ。私はその時、いなかった」


 ふむ。という感じで、お父さんはコップを傾けた。ぐっと飲み干すのかと思えば、またオレを見てテーブルに置く。


「あの。喋ってもいいですか」


 おそるおそる、手を上げた。お父さんは手の平を見せ、「どうぞ」と。ついでに枝豆の皿もオレのほうに寄せてくれる。


「明椿さんと同じクラスで、同じ文芸部の見嶋です。夜に来てしまってすみません。問題っていうのは、オレのせいなんです」


 なんという名前だったか、水戸黄門の忍者役の人にそっくりだ。ばあちゃんの見る再放送の。

 たぶん怒っても笑ってもなく、黙って頷いてくれた。それでも正直怖いが、言っていられない。


「文化祭で、文芸部は文学カフェをやりました。明椿さんと、もうひとり先輩と、三人で作った文集を売るんです。物語にちなんだ食べ物を一緒に楽しんでもらおうって、でも最後にオレがめちゃくちゃにしました」


 視界の端に、息を呑む明椿さんが映る。だけどまっすぐ、オレと同じ方向を向く。


「同じクラスの男子を殴りました。文集をバカにされて、許せなかったから。それで謹慎になりましたが、今日来たのは別のことです。その大切な文集に、誰かが細工していました。二、三ページずつ切り取って、商品にならなくしてあったんです」


 それで顧問の七瀬先生に呼ばれている。まずはそこまで話すと、お父さんは「なるほど」と枝豆を取った。オレにも「良かったら」ともう一度。


「見嶋くんの話だと、倫子が行ってどうこうではないと思うんだが。それでも行きたいってことかな?」

「うん、そう。見嶋くんも言ったけど、大切な文集なの」


 片手で素早く枝豆を食べ、モグモグと口を動かしつつ話すお父さん。

 対して明椿さんは、口早になった。自分のお父さんに緊張しているのかと思ったら、違うらしい。


「なんだか腹を立ててるね。大切な文集だから、だけ?」

「——それももちろんだけど、色々」


 あ、怒ってるんだ。

 思わず顔を向けてしまった。気づいた明椿さんが、恥ずかしそうに反対を向く。「ごめん」とオレも反対を。


「色々って?」

「切り取りとは関係ないかもしれないけど、文化祭の途中で呼び出されたの。クラス演目の買い出しって言われて、戻ったら打ち上げ用の飲み物だった」


 俵に言われたやつか? 忘れていたが、やっぱり嫌がらせの一環みたいだ。


「必要な物なら仕方ない。でもあれは、文芸部より優先することじゃなかった。だまされたの」

「それは腹が立つね」


 喉が限界のようだ、お父さんはコップを空にする。続けて大きな声で「お母さん」と、入って来たのとは別の、ガラス障子に向かって言った。


「倫子の友だちにも、飲み物あるかな」


 すぐに障子が開き、お母さんが顔を出した。たぶん向こうは台所だ。

 明椿さんが歳をとったらこんなだろうなって雰囲気。でも「はいはい」と朗らかで、メガネはかけていなかった。


「それだけ?」


 お母さんが引っ込んで、お父さんが問う。オレは、なにが? と思った。明椿さんはさすが理解して「ううん」とかぶりを振る。


「弥富先輩のこと。見嶋くんのこと。もう我慢できないの」

「だろうね。むしろ我慢しすぎに思えるよ」


 オレはともかく、ポニー先輩のこと?

 首をひねっていると、お父さんが苦笑でオレを見た。ぎゅっと拳を握る明椿さんに、笑っては悪いけどと目配せしつつ。


「文芸部のことは、毎日のように聞いてるんだよ。先輩、見嶋くん、先輩、見嶋くん。耳にタコが棲み始めたくらいね」


 お父さんは自分の耳を指さす。大きいけど、タコの姿はない。もちろん冗談だ。


「だから文化祭の件までは知ってるよ。別にそうでなくとも、自分の用事をしたいなら構わないんだけどね」

「えっ、いいの?」


 あくまでも、お父さんはオレに話していた。しかし目を丸くした明椿さんが、割って入った。

 突然、あっさりと、目的が達せられたらそうもなる。


「正直、本当に倫子を頼りにしてる。だから毎回は困る。しかしそんな大事なことなら、行くなとは言えないね」


 オレが来た意味はなかったようだ。ソファーを立ち「ありがとう」と頭を下げる明椿さんを見れば、どうでもいいが。

 と言うかオレも慌てて立った。まだ折れたままの隣と同じ角度に腰を。


「ありがとうございます」

「いやいや、うちの女性陣は真面目だから。おかげで私が頑固オヤジみたいだよ」


 これは笑うところか?

 判断に迷う、最悪のタイミングだ。と思ったらガラス障子の開く音が。どさくさで頭を上げると、明椿さんとシンクロした。


「お父さんが頑固じゃなかったら、世間の九割は頑固じゃないでしょう?」


 大きなトレイに山盛りのお菓子と、ペットボトルを五、六本載せて。お母さんが入ってくる。

 ニコニコしながら、手厳しい言葉。


 なるほどここまでがセットと理解したが、お父さんは「すまん」と恐縮していた。

 というところで明椿さんも笑う。

 オレはいったいどんな顔をすればいいか、今日一番の難問はこれらしい。

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