第94話:できないことはない
次の日。木曜日の夜、電話をかけた。中途半端に七時三十五分ころなのは、良心と遠慮がせめぎ合った結果。
「夜にごめん」
「いいえ。夕食は終わったし、大丈夫」
遠く、鋭い気合いが微かに聞こえた。明椿道場は、まだ稽古をする人がいるらしい。
明椿さんはいつも以上に静かな声だった。話すなり質問攻め、みたいなのもないと予想はしたが。
「眠り続けてたとは聞いたけど、四日も? 精密検査が必要なら、病院を紹介できるけど」
「あっ、いや起きたのは昨日。元々ちょっとだけ体調が悪くて、でも治ったよ。お医者さんにも診てもらったみたいだし」
ゆっくり、大きく。息を吸う音が長く続いた。吐く時間も同じだけ。
ようやく「そう」と、ぶつ切りの言葉。
受話器の向こう。どんな顔で、どう思っているんだろう。正確には分からないが、オレの言うべきはたぶんこうだ。
「ありがとう」
「えっ? ——いえ。それで登校はできそうなの? 無理は良くないけど」
「うん、それがさ。今週は謹慎だって」
勝手に話題を変えるのは、明椿さんに珍しい。どう聞いても怒った声じゃなく、選択は合っていたようだ。
七瀬先生とふたりして、ポニー先輩から経緯を聞いたらしい。でもどうしても、オレからも伝えたかった。三分もかけず、掻い摘んで話す。
「……で、焼きまんじゅうをぐちゃぐちゃにされて。破った文集を雑巾代わりに使われて」
「ええ。大変だったと思う」
合間合間に「うん、うん」と相槌をくれた。大仰に驚くことももちろんなく、聞こえた声は労うものばかりに感じた。
「ごめんなさい」
謝ったのはオレだ。受話器を持ったまま、少し頭を下げもした。「なんのこと?」と、責める感情の欠片もない明椿さんの声がつらい。
「明椿さんのいない間に、なにもかも。めちゃくちゃにした」
「それは見嶋くんじゃないでしょう」
「戻るまでに目標達成するって言ったし」
二百部まで、あと二部だった。夏休みの間に学校が火事とかでなくなればいいのに、なんて冗談はたまに聞くが。
買い出しの間に部活が潰れた、のは冗談にならない。
「それは達成したって七瀬先生に聞いたけど。田村卓哉さん? が改めて払ったとか」
「うん。それはそう」
昨日、七瀬先生から十五枚のヒジワラ券を受け取った。オレが握った跡もない、綺麗な物を。
だがそれでも、目標達成にはならなかった。
「文集のページが、切られたんだ」
「……え? どういうこと」
「売った文集の中に、ページのなくなってるのがたくさん見つかった。それは不良品だから、交換できなきゃ売り上げにならないって」
明椿さんは何度か「ええ?」と自問の声を発した。知っている内容と最新情報と、それは落差を埋める時間が必要だろう。
さらに商品を破壊されるなんて、想定外に決まっている。
「誰が、なんて分からないか」
「うーん、どうかな。七瀬先生は知ってるのかも。犯人捜しはいいから、明椿さんと先輩を図書室へ連れて来いって」
又聞きばかりの明椿さんには、どういうことかさっぱりのはず。詳しく伝えたいが、オレも知らないものは話せない。
「図書室ね。いつ?」
「えっ、気にならないの。言ってるオレ自身、もっとなにか言えよって思うんだけど」
時間割の変更は、なにとなにか。みたいな声にオレが驚いた。
逆の立場なら、なんで図書室か。そこでなにがあるかを聞いたと思う。言いながら、七瀬先生の名前を出したしと納得もしたが。
「知ってることは、全部話してくれたでしょ?」
「う? うん、話したよ」
「ほら。私は見嶋くんを信用してるから。どうしても話せない事情でもなかったら、隠しごとなんかできる人じゃないって」
信用って、オレを?
そんな言葉、初めてだ。知らないうちに誰かストーブでも焚いたのか、顔が一気に熱くなる。
あれ、でもちょっと待て。
「ん、ええと。それってオレがバカ正直過ぎるって言ってない?」
「あはは。どうかな、考えてみて」
和ますつもりもなかったけど、明椿さんはお付き合い程度に笑ってくれた。すぐ「それで?」と予定を尋ねるのは、さすが。
「図書室はね、日曜だって。午後一時に」
「日曜? しあさってよね」
「うん。難しいなら、午前にもできるそうだけど」
舌打ちのないのが不思議なくらい、困ったと口調が告げていた。時間を調整できると伝えても「うん、ええと」「どうしよう」なんて、呻くようなひとり言が続く。
「道場の予定?」
「——うん、そう。秋の大会が近くて、色々とね」
いつも暇にしているオレなんかと違い、明椿さんは忙しい。そんな中を文芸部にも時間を割いてくれて、今のこの事態が申しわけなくて堪らない。
「ええっと。それならさ、オレがどうにかしとく」
解決策は単純。明椿さんは家の事情で来れない、と伝えてがっかりされるのはオレだけだ。これ以上、無理をさせることはない。
「それはダメ」
「ダメなの?」
「図書室で、なにか大きなことが決まるはずよね。きっとそこにいなかったら、私は文芸部って名乗れなくなる」
そんな大げさなと言いかけた。でも言えなかった。重要な瞬間にいない、いられないのは寂しいと知っている。
「それは……」
「ううん、心配させてごめんなさい。どうにかしてみる」
「どうにかなる?」
これは卑怯な言いかただ。でも取り消さなかった。知らなきゃ、次の言葉が出てこないから。
「どうにか——するの。できなかったら、は考えられない」
ああ、凄いな。
そう感じたのは、強いから。いや今この瞬間もだけど、半端はしないと言ったその通りにできるんだなと。
「あの、それってオレも手伝えないかな」
「手伝う? 気持ちは嬉しいけど——」
ああ、バカだな。
すぐ影響される自分に、そう感じた。でもバカだから、いいじゃないかと開き直れる。
「じゃあ一時間。いや三十分待ってて」
「ええっ? どうするの」
どうするか決めてなかった。説明したって断られるだろう。だから聞こえないふりで、電話を切る。
部屋に戻り、いつものバッグを肩にかけた。枕もとに転がるコマを拾い、それも突っ込む。
また電話機まで、バタバタ走る。壁に貼られたバスの時刻表に指を添わせた。
「マジか……」
最終の時刻は午後七時四十二分。およそ十分前だ。愕然と、電話の台に手を突く。
自分の足で? 無茶だ。そんな体力はないし、日付けが変わる。
タクシーを呼んでも、来てもらうだけで三十分近くかかるはず。カッコつけて時間を縮めなければ良かった。
「ユキちゃん、なにかあったの? また倒れちゃうから」
台所から、遠慮がちな声。
どうしたらいい? 悩む思いが、答える喉を圧し潰す。
「ばあちゃん……」
「ど、どうしたの」
走らないで。転ぶから。怪我するから。
声は出なかったが、オレも走り寄って受け止める。
「ありがとうね。ユキちゃんは優しいね」
「そんなことないよ」
「優しいから、言えないんだよね。でもね、言ってくれたら嬉しいよ。おばあちゃん、頼りないけどね」
鼻の奥がツンと詰まる。
オレが倒れたこと、謹慎になったこと。ばあちゃんはなにも聞かない。七瀬先生が話したとは言っていたけど、オレなら直に聞きたくて堪らないと思う。
それなのに、まだこんなことを言ってくれる。
「ごめん。ばあちゃん、心配かけてごめん」
「なに言ってんの。ユキちゃんは間違ったことしないよ、おばあちゃんは知ってる」
強引に鼻を啜り、震える声をごまかした。ばあちゃんの手が、オレの背中を撫でてくれる。
「ちゃんと話すから。でも今は、友だちのところへ行かなきゃいけないんだ」
「今?」
壁の時計を見上げたばあちゃんは、「そうねえ」となにか考える顔をした。
「すぐってどれくらい?」
「三十分。学校の近くまで」
「じゃあ
ふわっと、ばあちゃんは笑った。悲しそうな、困ったような表情はどこにもない。
それに驚いていると、ばあちゃんは自分の部屋に引っ込んだ。
しかし晶子さん? 伯母さんではなく、反対隣に住むおばさんだ。
たしかに旦那さんの軽自動車と軽トラックとあるはずだけど、借りられない。夫婦がふたりとも、晩ごはんに必ずお酒を飲む人たちだから。
「ばあちゃん?」
うっかり忘れているんだろう。追いかけると、ばあちゃんが部屋から出てきた。
レース編みのカーディガンに、斜めがけのがま口ポーチ。すっかり出かける格好で。
「晶子おばさんはダメだよ、お酒飲んでるから」
「あのね、ユキちゃん」
いいから。と玄関へ向かいつつ、ばあちゃんはメガネを取り出す。べっ甲と言うのか、黄色いまだら模様の。
スチャッと音がしたように思うくらい、似合っていた。振り返り、とんでもないことを言うのさえ。
「おばあちゃんね、おじいちゃんに止められてるの。お前は運転するなって。だから内緒ね」
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