第92話:見誤り
夢を、見ていた。でもどんなものか思い出せない。
今は誰もいない、仄暗い中にひとり。
早く土原学園に行かなきゃ。嫌なこと、嫌な奴はいるけど、あそこには文芸部がある。
「あっ」
まとわりつく泥のような世界から抜け出る。目を開けると、見慣れた天井。ばあちゃんの家。
一秒未満。眠っていたと理解する時間がかかった。
朝か。学校へ——今日、何曜日だっけ。
考えても、なかなか思い出せない。昨日、なんの授業があったか。時間割を思い出せば、今日の曜日が分かるのに。
……いや、文化祭だ。
記憶の蛇口がひどく固い。ほんの数滴ずつ、イメージが流れてくる。
賑わったせせらぎを、オレがぶち壊した。という事実がおぼろげに。自然、後悔のため息が漏れ、自分が無意識に息を止めていたと知った。
「はあ……はあ……」
荒く酸素を補給しながらも、疑問がつきなかった。
すると今日は月曜日。なら代休のはず。でもだからって、なんで呑気に寝てるんだ?
田村を殴ったのも思い出した。気分が悪くて、たぶん風邪薬が切れて、それからの記憶がない。
どうやってこの布団に入ったんだろう。
「おいこら。寝たまま欲情するな、このスケベ野郎」
誰かの声。いやこれは、百分の一秒で分かる。独特のダークボイスがどうして?
聞こえたほうに顔を向けると、額からなにか落ちた。視界を塞ぐそれは、濡れタオル。
「七瀬先生?」
顔を横に向けたすぐ先、パンツスーツの膝が見えた。艶のない黒色が、葬式帰りに思わせる。
「ええと、なにを」
「様子を見に来たに決まってるだろうが」
抑揚に乏しい、平たい声。ちょっともそっとも、感情を滲ませない。
おかげでオレも、どう返すか戸惑った。
「様子——オレ、実は田村を」
「なにが実は、だ。あれだけの騒ぎ、知らんと思うのか」
どれだけの騒ぎか。
まあ内々に済ませてもらう、なんて期待はしない。だからこそ先生も、こうして朝から来たんだろう。
「オレ、どうなったんでしょう。田村を殴って、津守先生が来たらしいってとこまでは分かるんですが」
「教えてやる。お前の話も聞かねばならんしな」
小さな手が、脇に避けたタオルを拾う。何度か手の平に転がし、枕もとの洗面器へ。ガラガラッと氷の音がした。
「まず田村だが、入院して手術が終わった。既に退院して、何週間かで元通りだそうだ。それから——」
「え、手術ですか?」
「鼻の骨折だ」
そこまでをオレはしたのか? 薄い肌布団の下で右手を握り、また開く。
病み上がりのだるさはあるが、殴った感触は残っていない。
「骨折、って。すみません、よく覚えてなくて。というか、もう退院ですか? ええっと、今日は?」
「今日は九月七日、水曜日だ」
「水曜……」
まだオレは寝ぼけているのか?
文化祭は土曜と日曜。一日めが無事に過ぎ、二日めも終わる間際だったはず。
記憶を手繰り寄せ、表も裏も入念に見た。が、やはりそれで合っていると思う。
「三日も?」
黙って待ってくれた先生に、精査の結果を伝える。
「そうだ」
「ええっ。じゃあ先生、授業は」
三日間、眠り続けた。その割りに、腹は減っていない。鼻の骨折って、それくらいで退院できるのか。
事実と感想が湧き上がる中、口を衝いた言葉は自分にも意外だった。
「まだ寝ぼけているらしいな」
「いえ、だって。今日は水曜なんですよね、じゃあ普通に」
寝ぼけてなんか。たしかにまだあちこち砂袋を付けた心地だが、頭ははっきりしている。
もうすっかり、あの時のことを思い出した。そもそも見ていないこと以外は。
「分かった分かった。起きたと言うなら、まず姿勢で見せろ。身体を起こして、ジュースでも飲め」
呆れた、のが声に見えた。それでいて腹立たしさはなさそうで、ほっとした。
そんな自分に腹が立つ。
「嫌です。今オレは、密かに先生の膝を見て楽しんでるんです。邪魔しないでください」
「ぶち殺すぞ。私の膝でなにが楽しい」
なにがって、ぶち殺すとまで言うなら理解しているだろうに。素足でないのは残念だが、これはこれで味がある。
「楽しいですよ。先輩の膝は見逃しちゃったし、いいでしょ」
「そんなもの、弥富に頼め。言って八つ裂きにされても知らんが。まあ、私もあまり遅くまでいては悪い。三分間待ってやる」
「遅く?」
まさか、許されるとは。驚いて聞き流しそうになったが、どうも違和感のある言葉があった。
問うオレの視界に、スマホの画面が落ちてくる。敷き布団へ僅か沈み、表示されたのは二十時四十八分の時刻表示。
「夜でしたか」
「そうだ。
それは先生のこと、でないのは分かる。なにも考えず、また眠ってもいいのか。
そうできるなら、どんなにいいだろう。
「まだ眠くありません」
「なら起きろ。で、飲んで話せ」
スマホが天に舞い上がり、代わりにペットボトルが降りてきた。白濁した邪魔物のおかげで、膝が見えない。
仕方なく、上体を起こす。三日分の血流が一気に下り、目まいがした。しかしそれだけで、どうやら健康に戻ったらしい。
「おい」
「はい」
ペットボトルを取り、蓋を開けようとした。なのに先生は、荒い口調で呼ぶ。
返事をしたのに「お前な」と、あからさまに機嫌を悪くして。
「いい加減、私の顔を見たらどうだ」
そう言われても、できるはずがなかった。
無視して、ペットボトルに口をつける。塩の利いたライチの香り。ひと口飲み、そのまま半分ほどを喉に流し込む。
ゆっくり、ゆっくり。じれったいくらいの時間をかけたのに、先生は急かさない。
いつもならきっと、既に五回はアホかと言われている。
「……だって。オレ、全部台なしにして。先輩の気持ちとか、明椿さんが頑張ってくれたのとか。先生にもどれだけ迷惑かけたか」
ぎゅうっと、喉が縮む。通る隙間が限りなく狭まる。
震えて、詰まって。やたら聞き取りづらい声なのは、きっとそのせいだ。
「アホか」
やっと聞けた。
なんてことをしてくれた、って怒鳴ってほしかったのが本当だったけど。
今まで聞いたうち、一番に柔らかいアホかだったけど。
「三日間、なぜ私がここへ来たと思う。お前の悪事を暴き、糾弾するためとでも?」
「え……いや、その。でも先生は先生だし」
七瀬先生は特別だ。自分から校則を破り、オレたちに楽しい時間をくれた。
だがそれにも限度があって当然。クラスメイトを病院送りにし、部活の存続をふいにしたダメ男なんか、普通に罰が下される。
そう思っていた。
「そうしてほしいなら、そうする。しかしこれは私の勘だが、お前の希望は違うはずだ」
ちょっと不機嫌な、低い声。決して長くない、か細い先生の腕が目の前に伸びる。
その先に。小さな手に、なにか握られていた。白くて硬い、子どものおもちゃが。
「
「忘れたか。私は女神でも、超能力者でもない。お前がどうしたいか、口に出してくれねば分からない」
力強い声。釣られて、引きつけられるように、先生の顔を見る。
ニヤリ。笑っているのに、眼が怒っていた。
「オレがどうしたいか?」
「ああ、このままではお前だけが悪者だ。それでいいと言うなら構わんが、違うのなら言え。私が叩き潰してやる」
先生の手が、オレの手を。握って、指を開かせ、白いコマを押しつけた。尖った先が刺さって、痛かった。
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