第91話:ごめんね

 隣のテーブルを田村の背中が撥ね飛ばす。机の脚先とフロアタイルが、耳障りな悲鳴を競い合う。


「田村。おい田村」


 椅子の脚に絡まって倒れる男に詰め寄る。

 たぶん「いてえ」と呻く声。どうでもいい。お前の感想を聞く余裕なんかなくなった。


「なんでこんなことできるんだよ。先輩や明椿さんが、どんな気持ちで書いたか知らないだろ」


 しかめて閉じていた目が開く。ぎろっと動かし、起きて殴りかかろうとする。

 だが肩を蹴りつけた。田村の背中が床を打ち、乾いた咳を吐く。


 オレの中でどこかのバカが、大丈夫か? と案じる。でもそんなオレより、怒るオレのほうが大きな声をした。


「オレにも分からん」


 すぐ脇へしゃがんだ。シャツの両襟をつかみ、力任せに揺すった。

 半目に開いた田村の目がまだ睨む。胸を押さえていた手も、オレの襟をつかみ返す。

 構わず、耳もとへ怨みの言葉を吐き捨てた。


「でも、何度も読めば分かるかもしれないだろ。直接は聞けないからさ。それをお前、こんなことされたら読めなくなるだろ」

「な、なに言ってんだお前」


 田村の表情に困惑が混じる。だからか、押し退けようとする力がオレより弱い。

 襟をつかんだまま、圧しかかった。田村は苦しそうに、堪える口から助けを呼ぶ。


「——俵!」


 真っ暗闇のどこかから、重そうな足音。

 すぐに衝撃があった。横っ飛びにテーブルの足元へ突っ込む。

 鼻の奥に血の臭い。手の甲で触れても、赤い色は付かなかった。


 折り重なった机を投げ捨てる。

 両手を突き出した俵。頭上で椅子に座ったまま、引きつった女子がふたり。

 そうだ、こいつらもいた。


「なあ、おかしいだろ。お前らはひどいことするのに、オレはダメなのか? 死にそうな目に遭っても、引き篭もってるのが当然なのか?」


 よろめき、立ち上がる。机に敷いたクロスがずり落ち、ジュースや食べ物が床に落ちた。

 べしゃべしゃと下品な音で、少なからず飛び散る。それでも女子たちは動こうとしない。


「お前らがいると、先輩は廊下も歩けない。気に入らないなら構うなよ、お互い知らんぷりでいいだろ」


 半歩、踏み出した足がなにかを踏む。見るとそれは、あんこまみれの紙クズ。「はあっ!」と、どこへ向けるか分からない怒りが熱い吐息になる。


「なあ。オレは結局、記事を書き直せなかった。楽しいのか? なあ教えてくれよ、人に嫌がらせして楽しいのか?」


 潰れて、汚れて、くしゃくしゃのページを開く。途中で破れ、それでも開き「なあ!」と突きつけた。


 ショートカットもお団子頭も、見開いた目が忙しく動き回る。オレの顔と、手もとと、あとはどこを見ているか知らない。

 分かるのは「ヤバいよこいつ」とかなんとか、ヒソヒソ囁き合うことだけ。


「楽しいに決まってんだろ!」


 不意に、すぐ後ろで誰かが叫んだ。後ろ襟をつかまれ、引き倒される。

 その誰かと同じく、背中が床に跳ねる。胸に溜まった息が、根こそぎ出ていった。


「げはっ! げほっ! げほっ!」


 取り戻そうとしても、咳で出ていくほうが多い。目が眩む。


「人に、じゃないけどな。お前にだよ」


 田村の息は整ったらしい。咳払いをするものの、まともに喋った。

 ゆっくりと近づき、足を持ち上げる。それは倒れたオレの腹に。


「ぐっ——うぅぅ」

「勘違いするなよ、お前はやられキャラなの。ぼっちがどうしたって、まともにはなれねえの。知らなかったか?」


 続けざま、今度は横腹が蹴られた。二度、三度、四度。言葉の区切りで、蹴って含めるように。


「うぅ……」

「おい、返事しろよ。一つ賢くなりました、ありがとうございます、だ」


 声の出ないオレの喉もとへ、田村の手が伸びる。

 痛みと、うまく息の吸えない苦しさ。ほとんど開かない視界に薄笑う顔。およそ真ん中を目がけ、オレは拳を突き出した。


 パキッ、と。プラモでも踏んづけたような、安っぽい音。

 呼吸が限界で、オレは目を瞑った。なにをされても抵抗できない。もう無理だと思う耳に、誰かの倒れる音と気配。


「いやあああ!」


 次は女の悲鳴。パタパタ上履きを鳴らし、遠ざかっていく。


「田村、田村」


 足元で、弱々しい俵の声が続いた。田村がどうした、その名前を口にするな。

 床に寝そべっていると、ほかにもたくさんの音が聞こえる。オレ自身の息遣いは、段々と穏やかになった。


 すると遠くで、クイズ大会の表彰式が。どこかのクラスでBGMの洋楽が。羽目を外した叫び声を一人が発し、二つか三つがこだまのように。

 いいなあ、バカバカしくて。


 ふと、なにかを引き摺る音に気づいた。

 ズル——と小さく。また同じ音がするには何秒もかかる。けど、しつこく繰り返された。


 閉じた目にも、やがてオレのほうに来ると察した。まぶたを上げようとしてみたが、力が入らない。

 プリズムで散らした色とりどりの光。そんなものがぐるぐる回り、目を瞑っているか開けているかも不明に思えた。


「……ごめんね」


 引き摺る音が止まった。と思うと、やけに心地いい声に変わる。

 苦しさを堪え、狭い喉を無理やり通すみたいに息をしていた。不思議とそれが、楽に抜けた。


「ごめんね」


 答えなかったからか、同じ言葉が。

 声は最高だが、単語の選択は良くなかった。謝るのはあなたじゃない。


「なんで先輩が——」


 なけなしの力を腹に篭め、声を絞り出す。ぺたん、と尻もちの気配がした。

 くそ、なんで見えない。きっと目の前に先輩の膝があるはず。


「ごめんね」

「ですから……」


 息と唾を飲み、残った力を探す。けど、なかった。手探りしようとした指も、べしゃっと床に落ちる。

 ごめんね、はオレのほうだ。先輩に、明椿さんに。ああ、七瀬先生に殺されるな。


「見嶋くん——?」


 先輩の声が小さくなった。「ねえ!」と、口調が強まっても。

 顔にひんやり、柔らかい物が触れる。ぷかぷかと波に浮いているようで、気持ち良かった。


「ねえ! 凄い熱だよ! ねえ! ねえ!」


 熱ってなんだっけ。

 なにを考えていたっけ。

 考えるって――回っていた景色さえ、黒く沈んでいく。先輩の声は遥か、聞こえなくなった。


 なんだか苦しいけど、まあいいや。

 そう思ったのを最後、考えるのをやめた。このまま眠れば、きっと幸せな夢が見られる。

 そのはずだった。


「あー、なにごとだこれは」


 聞きたくもない、男の声。津守先生の枯れた息遣いを聞きながら、オレの意識は途切れた。

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